敵ではなく、パートナーとして
会議室の中央に置かれた資料。
表紙には、大きく書かれていた。
**『販売・導入パートナー契約のご提案』**
社長は、その文字をしばらく見つめていた。
営業部長も。
役員たちも。
すぐには意味を理解できなかった。
つい先日まで。
互いに市場を奪い合っていた相手だ。
こちらは値下げを行い。
紹介キャンペーンを打ち。
ARCを市場から追い出そうとした。
結果として敗れ。
ネットショップ事業からの撤退を決めた。
その相手が今。
自分たちへ協力してほしいと言っている。
営業部長が最初に口を開いた。
「……本気ですか。」
西園寺は迷わず頷いた。
「はい。」
「もちろん、本気です。」
役員の一人が苦笑する。
「我々は、あなた方を潰そうとした会社ですよ。」
「価格を下げ。」
「紹介料まで付け。」
「市場から追い出そうとした。」
「そんな会社と、今さら組む理由があるんですか。」
「あります。」
西園寺は即答した。
社長がゆっくり顔を上げる。
「その前に。」
「もう少しだけ聞かせてくれ。」
「はい。」
「我々は、なぜ負けた。」
西園寺は黙って社長を見る。
社長は椅子へ深く座り直した。
「商品の機能差。」
「それだけではないはずだ。」
「途中までは、我々が押していた。」
「値下げ。」
「キャッシュバック。」
「資本力。」
「普通の会社なら、あの時点で折れている。」
「利益を守るために値下げするか。」
「耐え切れず撤退するか。」
「どちらかだ。」
社長は少し自嘲するように笑った。
「だが。」
「君たちは値上げした。」
「機能を増やした。」
「最後には、ソフトを売ることすらやめた。」
「どうして、そんな判断ができた。」
西園寺も小さく笑った。
「正直に申し上げます。」
「普通の会社なら、とっくに負けていました。」
役員たちの視線が集まる。
「私も営業を長く経験してきました。」
「だから分かります。」
「御社が値下げした時。」
「ARCの社内でも、値下げすべきだという意見が出ました。」
「私も賛成しました。」
営業部長が少し驚く。
「君もか。」
「はい。」
「営業として考えれば当然です。」
「価格差が大きすぎた。」
「受注は減る。」
「返金も出る。」
「実際、その通りになりました。」
西園寺は一度、言葉を切る。
「ですが。」
「うちの社長だけは、値下げを拒みました。」
社長の目が細くなる。
「神谷君か。」
「はい。」
「値下げでは御社に勝てない。」
「資金力でも。」
「営業人数でも。」
「長期戦になれば、こちらが先に潰れる。」
「だから。」
「戦う場所を変えると言いました。」
「戦う場所……。」
「価格ではなく。」
「お客様が得られる価値で戦う。」
「そのためにテンプレートを増やし。」
「カード決済を導入し。」
「サポートを強化した。」
「そして最後には。」
「ソフトを売ること自体をやめた。」
社長は静かに頷いた。
「SaaS……だったか。」
「はい。」
社長は少し苦笑した。
「正直に言おう。」
「今でも、あれが何なのか完全には理解できていない。」
役員たちも同意するように頷いた。
営業部長が続ける。
「社内でも分析しました。」
「技術部門も。」
「企画部門も。」
「だが、結論は同じでした。」
「分からない。」
「ブラウザで動くことは分かる。」
「データが御社側に保存されていることも分かる。」
「しかし。」
「どういう構造なのか。」
「なぜ複数企業が同時に利用できるのか。」
「どうして更新が一度で済むのか。」
「最後まで理解できなかった。」
社長は西園寺を見る。
「君なら説明できるか。」
西園寺は少し困ったように笑った。
「申し訳ありません。」
「技術的なことは、私にも分かりません。」
「……君もか。」
「はい。」
「私は営業ですから。」
「九条なら説明できると思いますが。」
少し考える。
「説明されても、私には半分も理解できないでしょう。」
会議室に小さな笑いが生まれる。
重かった空気が、わずかに和らいだ。
西園寺は続ける。
「ただ。」
「営業として理解していることはあります。」
「以前の私たちは、ソフトを一度売れば終わりでした。」
「二十九万八千円で契約していただく。」
「納品する。」
「使い方を説明する。」
「そこで売上が立つ。」
「ですが、今は違います。」
「最初の一週間は無料。」
「その後、気に入っていただけたお客様から毎月九千八百円をいただく。」
「つまり。」
「売った瞬間に利益が決まるのではありません。」
「使い続けていただいて、初めて利益になります。」
社長は黙って聞いている。
「だから。」
「契約して終わりではない。」
「毎月、機能を改善する。」
「毎月、サポートする。」
「毎月、お客様に価値を感じていただく。」
「満足していただけなければ。」
「翌月には解約される。」
「売ることより。」
「使い続けていただくことの方が重要なんです。」
営業部長が静かに呟く。
「だから。」
「発表会の前から、サポートを強化していたのか。」
「はい。」
「ソフトを売る会社から。」
「サービスを育てる会社へ変わった。」
「それが。」
「私が理解しているSaaSです。」
社長は椅子へ背を預けた。
しばらく天井を見上げる。
やがて、小さく笑った。
「勝てないわけだ。」
役員たちが社長を見る。
「我々は。」
「商品を売れば勝ちだと思っていた。」
「ARCは。」
「売った後から勝負が始まる会社だった。」
「最初から。」
「戦っている場所が違ったんだな。」
西園寺は静かに頷いた。
「はい。」
「神谷は、それを。」
「戦う場所を変える、と表現していました。」
社長は目を閉じた。
「……完敗だ。」
その言葉には、もう悔しさだけではない。
納得と。
相手への敬意が込められていた。
しばらくして。
社長はもう一度、机の資料へ視線を落とす。
「だが。」
「それでも分からない。」
「なぜ、我々なんだ。」
「販売会社なら他にもある。」
「全国に営業網を持つ会社も。」
「我々より規模の大きい会社もある。」
「それなのに。」
「なぜ、負けた我々を選ぶ。」
西園寺は小さく笑った。
「実は。」
「私も神谷へ同じ質問をしました。」
社長が顔を上げる。
「何と答えた。」
西園寺は、悠との会話を思い出すように話し始めた。
「神谷は。」
「商品では勝った。」
「でも、会社としてはまだ負けている。」
「そう言いました。」
会議室の空気が変わる。
営業部長が眉を寄せる。
「我々に?」
「はい。」
「営業力は、御社の方が上だと。」
「値下げの判断。」
「紹介キャンペーン。」
「キャッシュバック。」
「どれも思い切りが良かった。」
「普通の会社では、あそこまで徹底できない。」
社長は黙って聞いている。
「特に。」
「神谷が一番評価していたのは。」
「撤退の判断です。」
「撤退……。」
「はい。」
「始める決断は、多くの経営者ができます。」
「ですが。」
「負けを認めて、事業を止める決断は難しい。」
「それまでに投じた資金。」
「社員の努力。」
「経営者としての意地。」
「それらを捨ててでも。」
「本業と社員を守るため、すぐに撤退した。」
西園寺は真っ直ぐ社長を見る。
「神谷は。」
「その判断を、一流だと言っていました。」
会議室が静まり返る。
社長の表情が、わずかに揺れた。
撤退を決めた時。
社内には反対もあった。
まだ戦える。
もう少し様子を見るべきだ。
そう言う者もいた。
それでも。
赤字を増やして会社全体を危険にさらすことはできなかった。
経営者として当然の判断をしただけだ。
そう思っていた。
だが。
負かした相手が、その決断を評価していた。
「神谷は、こうも言いました。」
西園寺が続ける。
「今回は。」
「たまたま商品で勝てただけだ、と。」
営業部長が息を呑む。
「たまたま……。」
「はい。」
「商品の差がなければ。」
「ARCは御社の営業力に負けていた。」
「会社としての規模も。」
「営業部門の経験も。」
「市場への攻め方も。」
「まだ御社の方が上だと。」
社長は苦笑した。
「そこまで言われると。」
「負けた側としては、複雑だな。」
西園寺も笑う。
「神谷は、本気でそう思っています。」
「ですが。」
「御社を評価しているのは、営業力だけではありません。」
社長の目が細くなる。
「どういう意味だ。」
「御社は。」
「ARCの商品を分析し。」
「短期間で、独自の商品を作り上げました。」
「確かに。」
「元になった発想はARCのものです。」
「ですが。」
「実際に形へ落とし込むには。」
「技術者が必要です。」
「設計する力。」
「開発する力。」
「不具合へ対応する力。」
「それらがなければ、模倣することすらできません。」
技術部門を担当する役員が顔を上げる。
西園寺は続けた。
「販売会社なら、他にもあります。」
「営業力だけを借りるなら。」
「御社でなくてもいい。」
「ですが。」
「御社には技術もあります。」
「お客様の要望を聞き。」
「それをシステムへ落とし込む力がある。」
「営業と技術の両方を持つ会社は。」
「そう多くありません。」
社長は、資料の表紙へ目を落とす。
代理販売契約ではない。
**販売・導入パートナー契約。**
その意味を、ようやく理解し始めていた。
「神谷は言っていました。」
西園寺は静かに続ける。
「御社の技術者を。」
「商品を売るだけに使うのは、もったいない。」
「ARCはこれから、多くのお客様を抱えます。」
「当然。」
「業種ごとの要望も増える。」
「この会社だけに必要な機能。」
「この業界にしか使わない仕組み。」
「細かな設定。」
「導入支援。」
「操作研修。」
「一次サポート。」
「すべてをARCだけで抱えれば。」
「九条たちの基幹開発が止まります。」
技術担当役員が尋ねる。
「つまり。」
「我々に、個別開発を任せると?」
「はい。」
「ARCは、すべてのお客様が共通して使う基幹機能を開発する。」
「サーバー。」
「システム全体。」
「共通アップデート。」
「高度な障害対応。」
「それらはARCが担当します。」
「御社には。」
「営業。」
「導入支援。」
「顧客ごとの設定。」
「操作研修。」
「一次サポート。」
「そして。」
「個別企業や業界向けの追加開発をお願いしたい。」
役員たちの表情が変わっていく。
単なる販売代理店ではない。
敗れた会社が、勝者の商品を売るだけでもない。
自分たちの営業も。
技術も。
顧客基盤も。
すべて生かせる提案だった。
西園寺は言葉を続ける。
「お客様から出た要望のうち。」
「多くの企業が必要とするものは、ARC本体へ反映します。」
「一社だけが必要とするものは。」
「御社が受託開発する。」
「簡単な設定や導入支援は、現場で対応する。」
「高度な障害だけを、ARCへ引き継ぐ。」
「そうすれば。」
「ARCは基幹開発へ集中できる。」
「御社は、営業と技術の両方で利益を得られる。」
「お客様も。」
「より早く、必要なものを手に入れられます。」
営業部長が資料へ身を乗り出す。
「販売だけではない。」
「導入後も、お客様と関係を持てるのか。」
「はい。」
「御社のお客様は。」
「今まで通り、御社が担当します。」
「ARCが直接奪うことはありません。」
技術担当役員も尋ねる。
「我々の技術者は。」
「この事業へ残せる?」
「むしろ。」
西園寺は即答した。
「そこを最も評価しています。」
「神谷は。」
「御社の技術者を失わせることは。」
「市場にとっても損失だと言っていました。」
会議室に、長い沈黙が流れた。
社長は資料を開く。
販売手数料。
導入支援費。
追加開発費。
保守対応の分担。
技術連携の方法。
一つずつ目を通していく。
条件は決して悪くない。
むしろ。
自社だけで商品開発を続けるより、利益を出しやすい。
開発の失敗リスクも。
サーバー運用の負担も。
基幹システムを維持する責任もない。
それでも。
技術者を残し。
顧客との関係を守り。
営業力を生かせる。
社長は最後のページまで読み終える。
「日本一を目指す。」
「そのために。」
「我々の営業と技術が必要だと?」
西園寺は真っ直ぐ頷いた。
「はい。」
「神谷は。」
「ARCだけで営業網を一から作っていては遅すぎると言っています。」
「技術者も同じです。」
「すべてを自分たちだけで作ろうとすれば。」
「市場の成長へ追いつけない。」
「だから。」
「能力のある会社は、敵ではない。」
「パートナーとして。」
「一緒に日本一を目指したい。」
「それが。」
「神谷の考えです。」
社長はしばらく何も言わなかった。
西園寺も急かさない。
会議室には、時計の針が進む音だけが響いていた。
やがて。
社長は小さく笑った。
「完敗した後に。」
「ここまで評価されるとは思わなかった。」
「負けた側としては。」
「複雑な気分だ。」
役員たちの間にも、小さな笑いが生まれる。
社長は立ち上がった。
「一つだけ条件がある。」
西園寺も姿勢を正す。
「伺います。」
「販売・導入パートナーになるなら。」
社長は真っ直ぐ西園寺を見る。
「一番売る。」
営業部長が顔を上げる。
「商品では負けた。」
「だが。」
「営業では負けるつもりはない。」
「追加開発でも。」
「ARCに、この会社を選んで正解だったと思わせる。」
西園寺の口元に、自然と笑みが浮かんだ。
「そのお言葉を聞いて。」
「安心しました。」
「神谷も、きっと喜びます。」
社長は右手を差し出す。
「前向きに進めよう。」
「正式な条件は、担当者同士で詰める。」
西園寺はその手を強く握った。
「ありがとうございます。」
固い握手だった。
つい先日まで。
市場で互いを潰そうとしていた者同士。
だが今は。
同じ市場を育てるパートナーになろうとしている。
握手を解いた後。
社長は少し照れくさそうに笑った。
「神谷社長に伝えてくれ。」
「はい。」
「ありがとう、と。」
少し間を置く。
「それから。」
「ぜひ一度、直接会ってみたい。」
「経営者として。」
「ゆっくり話をしてみたい。」
西園寺は思わず笑った。
「実は。」
「うちの社長も、同じことを言っていました。」
社長が少し驚く。
「同じことを?」
「はい。」
「あの社長とは。」
「一度、直接ゆっくり話をしてみたい、と。」
社長は小さく笑った。
「……本当に変わった男だな。」
「ええ。」
西園寺も笑う。
「かなり変わっています。」
会議室に、久しぶりの穏やかな笑いが広がった。
敗北から始まった会談は。
新しい契約と。
新しい関係を生み出した。
敵だった会社は。
ARC初の販売・導入・開発パートナーとなる。
営業。
技術。
顧客との信頼。
互いが持つ強みを組み合わせ。
ARCは、自分たちだけでは届かなかった市場へ進み始める。
日本一を目指す会社は。
敵を減らすのではなく。
仲間を増やすことで。
また一歩、前へ進んだ。
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