敗者のもとへ
競合企業、本社。
朝。
営業部の電話が鳴り続けていた。
「はい……。」
電話を受けた営業担当の表情が曇る。
「解約ですね……。」
「承知いたしました。」
受話器を置く。
その直後。
また電話が鳴る。
「はい。」
「返金のご依頼でしょうか。」
「……承知いたしました。」
また一本。
また一本。
営業部のあちこちで、同じような会話が繰り返されていた。
「ARCへ乗り換えます。」
「無料期間で試したら、こちらの方が使いやすかったので。」
「返金をお願いします。」
誰も怒鳴ってはいない。
むしろ皆、丁寧だった。
だからこそ、営業担当たちの胸に深く刺さる。
「今日だけで何件目だ……。」
隣の社員が力なく笑う。
「途中で数えるのをやめた。」
営業部全体が、重苦しい空気に包まれていた。
◇
会議室。
営業部長が静かに資料を映し出す。
契約数。
右肩下がり。
返金件数。
右肩上がり。
誰も口を開かなかった。
やがて営業部長が静かに言う。
「原因は。」
「ARCです。」
画面が切り替わる。
一週間無料。
月額九千八百円。
オンライン更新。
テンプレート追加。
決済機能。
新聞記事。
市場シェア。
どれを見ても、ARCだけが急激に伸びていた。
長い沈黙。
社長が小さく息を吐く。
「……ここまでやられるとはな。」
経理部長が静かに資料を置く。
「ネットショップ事業ですが。」
「今月も赤字です。」
「撤退を決定したことで開発費は止まりましたが、返金対応とサポート費用が残っています。」
ページをめくる。
「もし撤退判断が一か月遅れていた場合。」
「損失は約二倍まで膨らんでいました。」
社長は苦笑した。
「撤退して正解だったか。」
営業部長も静かに頷く。
「悔しいですが。」
「はい。」
「続けても勝てませんでした。」
社長は静かに目を閉じた。
「経営者は。」
「勝つ決断だけではない。」
「負けを認める決断も仕事だ。」
役員たちは黙って頷いた。
負けた。
完敗だった。
しかし。
会社だけは守った。
それが唯一の救いだった。
◇
コンコン。
秘書が会議室へ入る。
「社長。」
「お客様がお見えです。」
「誰だ。」
「株式会社ARC。」
その名前だけで空気が変わる。
「営業部長。」
「西園寺様です。」
営業部長が眉をひそめた。
「何をしに来た……。」
別の役員が苦く笑う。
「勝者の余裕というやつですか。」
「嫌味でも言いに来たんでしょう。」
秘書が尋ねる。
「お通ししますか。」
社長は少し考えた後、小さく頷いた。
「通してくれ。」
数十秒後。
扉が静かに開く。
西園寺が一人、会議室へ入ってきた。
以前と変わらない穏やかな笑顔。
だが胸には、ARCの社員証が光っている。
西園寺は深く頭を下げた。
「本日は、お時間をいただきありがとうございます。」
社長は椅子を勧めた。
「座ってくれ。」
西園寺が席へ着く。
しばらく沈黙が流れる。
やがて社長が静かに口を開いた。
「本題に入る前に、一つだけ聞かせてくれ。」
「はい。」
「どうして勝てた。」
西園寺は社長を見る。
社長は苦笑しながら続けた。
「正直。」
「途中までは我々が押していた。」
「値下げ。」
「キャッシュバック。」
「資本力。」
「普通の会社なら、あそこで資金が尽きる。」
「あの時はまだほとんど学生だったな。」
「どう考えても、勝てる条件ではなかった。」
西園寺は静かに頷いた。
「おっしゃる通りです。」
「実は。」
「普通なら、とっくに負けていました。」
役員たちが顔を上げる。
「どういう意味だ?」
西園寺は少し笑った。
「私は営業しか分かりません。」
「だから営業の立場で申し上げます。」
「普通の経営者なら。」
「利益を守ります。」
「資金繰りを優先します。」
「社員を守ります。」
「銀行を気にします。」
「ですが。」
「うちの社長は違いました。」
「利益が出ても。」
「全部、次へ投資する。」
「競合が値下げすれば。」
「もっと価値を上げる方法を考える。」
「設備を増やす。」
「人を増やす。」
「普通なら怖くて止まる場面でも。」
「止まりません。」
営業部長が思わず苦笑した。
「無茶苦茶だな。」
「ええ。」
西園寺も笑う。
「私も最初はそう思いました。」
「何度も止めました。」
「ですが。」
「全部。」
「社長の方が正しかった。」
少し間を置く。
「営業人生で、あんな経営者は初めてです。」
社長は小さく笑った。
「なるほど。」
「負けた相手が悪かったか。」
西園寺は首を横に振る。
「いいえ。」
「御社も十分強かった。」
「だからこそ。」
「社長は、こう言っていました。」
「敵として戦うには、もったいない。」
会議室が静まり返る。
社長は少し驚いた表情を浮かべた。
そして、ふと思い出したように尋ねる。
「もう一つだけ。」
「はい。」
「最後まで理解できなかったものがある。」
「SaaS……だったか。」
「正直、今でも何なのかよく分からない。」
「ソフトを無料で配って。」
「毎月料金を取る。」
「どうして、それで利益が出る。」
「どうして、あんな仕組みを思いついた。」
「そもそもどうやって成り立っているんだ。」
営業部長も頷く。
「社内でも何度も分析しました。」
「ですが。」
「最後まで答えは出ませんでした。」
「我々には理解できなかった。」
西園寺は少し困ったように笑う。
「申し訳ありません。」
「実は私も、全部は理解していません。」
役員たちが目を見開く。
「営業ですから。」
「技術的なことまでは分からないんです。」
「社長や技術から説明は受けました。」
「ですが。」
「理解しているのは表面だけです。」
社長は黙って耳を傾ける。
「以前の私たちは。」
「ソフトを売って終わりでした。」
「でも今は違います。」
「サービスを使い続けていただくことが仕事です。」
「だから。」
「契約して終わりではありません。」
「毎月改善する。」
「毎月サポートする。」
「毎月価値を提供し続ける。」
「お客様が満足し続けてくださって初めて、会社も利益を得られる。」
営業部長が静かに呟く。
「だから……。」
「サポートを、あれだけ重視していたのか。」
「はい。」
「解約された瞬間。」
「私たちの収入も止まります。」
「だから営業よりも。」
「使い続けていただくことの方が重要なんです。」
会議室は静まり返った。
社長は天井を見上げ、小さく笑った。
「勝てないわけだ。」
役員たちが社長を見る。
社長は静かに続けた。
「我々は。」
「ソフトを売る会社だった。」
「だが。」
「ARCは。」
「サービスを育てる会社だった。」
「最初から。」
「戦う場所が違ったんだな。」
西園寺は静かに頷いた。
「社長は、それを。」
「『戦う場所を変える』」
「そう表現していました。」
社長は目を閉じる。
そして、小さく笑った。
「……完敗だ。」
その一言には、悔しさよりも納得があった。
西園寺は静かに鞄から一冊の資料を取り出す。
机の中央へ置く。
表紙には、大きく書かれていた。
**『販売・導入パートナー契約のご提案』**
社長がゆっくり顔を上げる。
「……パートナー契約?」
西園寺は穏やかに微笑んだ。
「はい。」
「本日は。」
「御社の営業力を、お借りしたいと思い参りました。」
会議室の空気が、一瞬止まった。
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