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敗者のもとへ

競合企業、本社。


朝。


営業部の電話が鳴り続けていた。


「はい……。」


電話を受けた営業担当の表情が曇る。


「解約ですね……。」


「承知いたしました。」


受話器を置く。


その直後。


また電話が鳴る。


「はい。」


「返金のご依頼でしょうか。」


「……承知いたしました。」


また一本。


また一本。


営業部のあちこちで、同じような会話が繰り返されていた。


「ARCへ乗り換えます。」


「無料期間で試したら、こちらの方が使いやすかったので。」


「返金をお願いします。」


誰も怒鳴ってはいない。


むしろ皆、丁寧だった。


だからこそ、営業担当たちの胸に深く刺さる。


「今日だけで何件目だ……。」


隣の社員が力なく笑う。


「途中で数えるのをやめた。」


営業部全体が、重苦しい空気に包まれていた。



会議室。


営業部長が静かに資料を映し出す。


契約数。


右肩下がり。


返金件数。


右肩上がり。


誰も口を開かなかった。


やがて営業部長が静かに言う。


「原因は。」


「ARCです。」


画面が切り替わる。


一週間無料。


月額九千八百円。


オンライン更新。


テンプレート追加。


決済機能。


新聞記事。


市場シェア。


どれを見ても、ARCだけが急激に伸びていた。


長い沈黙。


社長が小さく息を吐く。


「……ここまでやられるとはな。」


経理部長が静かに資料を置く。


「ネットショップ事業ですが。」


「今月も赤字です。」


「撤退を決定したことで開発費は止まりましたが、返金対応とサポート費用が残っています。」


ページをめくる。


「もし撤退判断が一か月遅れていた場合。」


「損失は約二倍まで膨らんでいました。」


社長は苦笑した。


「撤退して正解だったか。」


営業部長も静かに頷く。


「悔しいですが。」


「はい。」


「続けても勝てませんでした。」


社長は静かに目を閉じた。


「経営者は。」


「勝つ決断だけではない。」


「負けを認める決断も仕事だ。」


役員たちは黙って頷いた。


負けた。


完敗だった。


しかし。


会社だけは守った。


それが唯一の救いだった。



コンコン。


秘書が会議室へ入る。


「社長。」


「お客様がお見えです。」


「誰だ。」


「株式会社ARC。」


その名前だけで空気が変わる。


「営業部長。」


「西園寺様です。」


営業部長が眉をひそめた。


「何をしに来た……。」


別の役員が苦く笑う。


「勝者の余裕というやつですか。」


「嫌味でも言いに来たんでしょう。」


秘書が尋ねる。


「お通ししますか。」


社長は少し考えた後、小さく頷いた。


「通してくれ。」


数十秒後。


扉が静かに開く。


西園寺が一人、会議室へ入ってきた。


以前と変わらない穏やかな笑顔。


だが胸には、ARCの社員証が光っている。


西園寺は深く頭を下げた。


「本日は、お時間をいただきありがとうございます。」


社長は椅子を勧めた。


「座ってくれ。」


西園寺が席へ着く。


しばらく沈黙が流れる。


やがて社長が静かに口を開いた。


「本題に入る前に、一つだけ聞かせてくれ。」


「はい。」


「どうして勝てた。」


西園寺は社長を見る。


社長は苦笑しながら続けた。


「正直。」


「途中までは我々が押していた。」


「値下げ。」


「キャッシュバック。」


「資本力。」


「普通の会社なら、あそこで資金が尽きる。」


「あの時はまだほとんど学生だったな。」


「どう考えても、勝てる条件ではなかった。」


西園寺は静かに頷いた。


「おっしゃる通りです。」


「実は。」


「普通なら、とっくに負けていました。」


役員たちが顔を上げる。


「どういう意味だ?」


西園寺は少し笑った。


「私は営業しか分かりません。」


「だから営業の立場で申し上げます。」


「普通の経営者なら。」


「利益を守ります。」


「資金繰りを優先します。」


「社員を守ります。」


「銀行を気にします。」


「ですが。」


「うちの社長は違いました。」


「利益が出ても。」


「全部、次へ投資する。」


「競合が値下げすれば。」


「もっと価値を上げる方法を考える。」


「設備を増やす。」


「人を増やす。」


「普通なら怖くて止まる場面でも。」


「止まりません。」


営業部長が思わず苦笑した。


「無茶苦茶だな。」


「ええ。」


西園寺も笑う。


「私も最初はそう思いました。」


「何度も止めました。」


「ですが。」


「全部。」


「社長の方が正しかった。」


少し間を置く。


「営業人生で、あんな経営者は初めてです。」


社長は小さく笑った。


「なるほど。」


「負けた相手が悪かったか。」


西園寺は首を横に振る。


「いいえ。」


「御社も十分強かった。」


「だからこそ。」


「社長は、こう言っていました。」


「敵として戦うには、もったいない。」


会議室が静まり返る。


社長は少し驚いた表情を浮かべた。


そして、ふと思い出したように尋ねる。


「もう一つだけ。」


「はい。」


「最後まで理解できなかったものがある。」


「SaaS……だったか。」


「正直、今でも何なのかよく分からない。」


「ソフトを無料で配って。」


「毎月料金を取る。」


「どうして、それで利益が出る。」


「どうして、あんな仕組みを思いついた。」


「そもそもどうやって成り立っているんだ。」


営業部長も頷く。


「社内でも何度も分析しました。」


「ですが。」


「最後まで答えは出ませんでした。」


「我々には理解できなかった。」


西園寺は少し困ったように笑う。


「申し訳ありません。」


「実は私も、全部は理解していません。」


役員たちが目を見開く。


「営業ですから。」


「技術的なことまでは分からないんです。」


「社長や技術から説明は受けました。」


「ですが。」


「理解しているのは表面だけです。」


社長は黙って耳を傾ける。


「以前の私たちは。」


「ソフトを売って終わりでした。」


「でも今は違います。」


「サービスを使い続けていただくことが仕事です。」


「だから。」


「契約して終わりではありません。」


「毎月改善する。」


「毎月サポートする。」


「毎月価値を提供し続ける。」


「お客様が満足し続けてくださって初めて、会社も利益を得られる。」


営業部長が静かに呟く。


「だから……。」


「サポートを、あれだけ重視していたのか。」


「はい。」


「解約された瞬間。」


「私たちの収入も止まります。」


「だから営業よりも。」


「使い続けていただくことの方が重要なんです。」


会議室は静まり返った。


社長は天井を見上げ、小さく笑った。


「勝てないわけだ。」


役員たちが社長を見る。


社長は静かに続けた。


「我々は。」


「ソフトを売る会社だった。」


「だが。」


「ARCは。」


「サービスを育てる会社だった。」


「最初から。」


「戦う場所が違ったんだな。」


西園寺は静かに頷いた。


「社長は、それを。」


「『戦う場所を変える』」


「そう表現していました。」


社長は目を閉じる。


そして、小さく笑った。


「……完敗だ。」


その一言には、悔しさよりも納得があった。


西園寺は静かに鞄から一冊の資料を取り出す。


机の中央へ置く。


表紙には、大きく書かれていた。


**『販売・導入パートナー契約のご提案』**


社長がゆっくり顔を上げる。


「……パートナー契約?」


西園寺は穏やかに微笑んだ。


「はい。」


「本日は。」


「御社の営業力を、お借りしたいと思い参りました。」


会議室の空気が、一瞬止まった。

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