会社になった日
採用説明会から数週間後。
ARCの事務所には、朝から大きな荷物が次々と運び込まれていた。
机。
椅子。
電話機。
書類棚。
新しいパソコン。
壁際には、部署名を書いた札まで用意されている。
**営業部**
**顧客サポート**
**開発部**
**デザイン**
**総務・経理**
以前は、数人の机がぽつんと置かれているだけだった広い事務所。
声を出せば、反対側まで響いていた。
だが今は、業者と社員が行き交い、あちこちから話し声が聞こえている。
入口に立った白石は、しばらく事務所を見回した。
「……狭くなった。」
悠が隣で笑う。
「前は広すぎるって言ってただろ。」
「言ったけど。」
白石は少し不満そうに答える。
「こんなに早く埋まるとは思わなかった。」
少し離れた場所では、西園寺も新しい営業席を確認していた。
「正直に申し上げます。」
「私も、この事務所が埋まるのはもう少し先だと思っていました。」
悠は笑った。
「まだ全部埋まったわけじゃありませんよ。」
白石がすぐに振り返る。
「これ以上増えるの?」
「増えるだろ。」
「どこに置くの?」
「その時に考える。」
「絶対、考えてないでしょ。」
白石の言葉に、西園寺が小さく笑った。
以前なら、冗談で終わっていた。
だが今のARCなら、本当に数か月後には次の机を置く場所で悩んでいるかもしれない。
誰も、それを否定できなかった。
◇
今回採用された中途社員は、営業、サポート、事務、経理、開発経験者など十数名。
さらに新卒内定者の一部も、卒業までの間、アルバイトや研修として業務へ参加することになっていた。
年齢も経歴も違う。
大企業で働いていた者。
中小企業で営業をしていた者。
技術者として何年も経験を積んできた者。
その多くが、悠より年上だった。
午後。
事務所の中央に、全社員が集められた。
悠は皆の前に立つ。
以前なら、主要メンバーと数人のアルバイトだけで終わった。
だが今は、自分を見る視線が何十もある。
期待。
好奇心。
そして、わずかな不安。
新聞で名前を知っていても、実際に目の前へ立つ悠は若い。
本当にこの大学生についていって大丈夫なのか。
そう考える者がいても不思議ではなかった。
悠は無理に威厳を作ろうとはしなかった。
「改めまして。」
「株式会社ARC代表の神谷悠です。」
軽く頭を下げる。
「皆さんの中には。」
「こんな若い人間が社長で大丈夫なのかと思っている方もいると思います。」
何人かの表情がわずかに動く。
図星だったらしい。
悠は笑った。
「俺は、皆さんより若いです。」
「知らないことも多い。」
「社会人としての経験も、皆さんの方が上です。」
「だから。」
「年齢や肩書だけで、俺の指示に従ってほしいとは思っていません。」
事務所が静かになる。
「おかしいと思ったことは、言ってください。」
「もっと良い方法があれば、教えてください。」
「俺が間違っていれば、遠慮なく止めてください。」
悠は一度、全員を見回した。
「ただし。」
「お客様にとって何が一番いいか。」
「その一点だけは。」
「全員で同じ方向を向きたいと思っています。」
誰も言葉を発しなかった。
だが、先ほどまでの不安そうな空気は少し薄れていた。
悠は続ける。
「ARCは、まだ小さな会社です。」
「制度も。」
「仕組みも。」
「足りないものばかりです。」
「だからこそ。」
「今日ここにいる皆さんと、一緒に作っていきたいと思っています。」
「よろしくお願いします。」
悠が頭を下げる。
一瞬の静寂。
そして、事務所に拍手が広がった。
最初は控えめだった音が、次第に大きくなっていく。
悠が顔を上げると。
年上の社員たちも、穏やかな表情で拍手を送っていた。
◇
全体挨拶の後。
主要メンバーの役割も、改めて発表された。
西園寺恒一。
営業部責任者。
九条玲司。
開発責任者。
白石美咲。
デザイン・UI責任者。
悠は経営と新規事業へ集中する。
白石は自分の役職が発表された瞬間、少しだけ固まっていた。
席へ戻る途中、悠の袖を引く。
「ちょっと。」
「何?」
「デザイン責任者って何?」
「そのままだよ。」
「私が人に指示するの?」
「そうなるな。」
白石は眉を寄せた。
「私、人をまとめたことなんてないよ。」
悠は当然のように答える。
「最初からできる人なんていない。」
「でも。」
「白石が作ったデザインを、白石以上に説明できる人はいないだろ。」
「それは……。」
「できることから教えればいい。」
「分からなければ、一緒に考えればいい。」
白石は少し不安そうに、新しく入ったデザイン補助の社員たちを見る。
向こうも緊張した表情で、白石を見ていた。
白石は小さく息を吐く。
「……やるしかないか。」
「頼んだ。」
悠が笑うと、白石は少しだけ背筋を伸ばした。
◇
九条の周りにも、新しく採用された開発者たちが集まっていた。
悠が声をかける。
「どうだ?」
九条は露骨に嫌そうな顔をした。
「何が。」
「部下ができた感想。」
「一人の方が速い。」
新しく入った開発者たちの表情が固まる。
悠は苦笑した。
「本人たちの前で言うな。」
「事実。」
「一人で作れる量には限界がある。」
九条は画面を見たまま答える。
「教える時間が無駄。」
「その時間で、自分で作れる。」
悠は少し考えた。
そして言う。
「未来の九条を増やす時間だと思え。」
九条の指が止まる。
「……未来の俺?」
「お前と同じことを考えられる技術者が増えれば。」
「今まで一人でしかできなかったことが、何倍にもなる。」
九条は新しい開発者たちを見る。
全員が緊張しながら、返事を待っている。
しばらく考えた後。
九条は短く答えた。
「分かった。」
そして一人へ声をかける。
「これ。」
画面を指す。
「読める?」
開発者は慌てて近づいた。
「はい。」
「たぶん。」
「たぶんじゃ困る。」
「はい!」
悠はその様子を見ながら笑った。
教え方には、まだ少し時間がかかりそうだった。
◇
営業部。
西園寺の周りには、経験者を含む数人の社員が集まっている。
法人営業の進め方。
無料体験企業への連絡方法。
契約を急がせない理由。
一つずつ丁寧に説明していた。
悠が近づくと、西園寺が資料を閉じる。
「社長。」
「営業部は、私に任せていただけるんですね。」
「はい。」
「全部任せます。」
西園寺が眉を上げる。
「確認しなくていいんですか?」
「結果は確認します。」
悠は笑った。
「やり方は、西園寺さんに任せます。」
西園寺は少し黙った。
前の会社では、結果を出しても自由に動けなかった。
上司の顔色。
社内の都合。
古いやり方。
売れる方法が分かっていても、それを実行できないことが多かった。
だがARCでは違う。
悠は結果を求める。
その代わり、方法には口を出さない。
西園寺は口元を少し上げた。
「高くつきますよ。」
「構いません。」
「営業経費も増えます。」
「売ってくれるなら。」
「歩合も上げますよ。」
悠が言うと、西園寺の表情が一気に明るくなる。
「それは素晴らしい。」
「そこだけ反応が違いませんか?」
「お金は大切ですから。」
悠は笑った。
西園寺の部下たちも、つられるように笑う。
営業部の緊張が、少しだけ和らいだ。
◇
夕方。
事務所には、まだ多くの社員が残っていた。
電話で顧客と話す営業担当。
問い合わせ内容を相談するサポート社員。
白石は新人と一緒に画面を見ながら、配色について説明している。
「きれいに見えるだけじゃ駄目。」
「お客様が、どこを押せばいいかすぐ分かるようにして。」
「この色だと、購入ボタンが埋もれるから。」
新人が真剣にメモを取っている。
少し離れた場所では。
九条が開発者へコードを見せていた。
「ここ。」
「無駄。」
「でも、動いてます。」
「動くだけじゃ駄目。」
「遅い。」
「書き直して。」
言葉は厳しい。
だが、以前なら一人で修正して終わっていた九条が。
今は相手へ理由を説明している。
西園寺は営業社員たちの報告を一人ずつ聞いていた。
「契約できなかった理由は?」
「価格ではありません。」
「担当者が使い方に不安を感じていました。」
「なら、次は売るな。」
「使ってもらいなさい。」
「無料体験の意味を忘れないように。」
「はい。」
悠は、少し離れた場所からその光景を見ていた。
以前は。
悠。
九条。
白石。
数人のアルバイト。
そこへ西園寺が加わった。
皆で机を囲み。
商品を作り。
売り方を考え。
電話が鳴れば、誰かが取った。
今は違う。
部署がある。
責任者がいる。
社員がいる。
それぞれが自分の役割を持ち、会社が動いている。
AIが静かに告げる。
『組織としての稼働を確認しました。』
『以前のARCとは、別の会社のようです。』
悠は小さく笑う。
(別の会社じゃない。)
(同じ会社が。)
(ようやく形になったんだ。)
「社長。」
隣から声がする。
白石だった。
悠が振り返る。
「どうした?」
白石は事務所を見回した。
「この事務所。」
「もう広すぎないね。」
悠もゆっくり周囲を見る。
社員たちの声。
電話の音。
キーボードを打つ音。
笑い声。
すべてが、この広い空間を満たしていた。
「ああ。」
悠は静かに頷く。
「ようやくだな。」
その時。
営業部から声が飛ぶ。
「社長!」
「こちらの契約条件、確認をお願いします!」
続いて経理担当からも。
「社長、設備購入の承認をお願いします!」
さらに九条。
「悠。」
「サーバー増設。」
「今日決めて。」
悠は一瞬、固まった。
白石が笑う。
「人気者だね、社長。」
悠は小さくため息をつく。
「社長って。」
「思ってたより忙しいな。」
『以前から十分忙しかったと思います。』
AIが冷静に答える。
(雰囲気の話だよ。)
悠は苦笑しながら、最初に呼ばれた営業部へ向かう。
ARCはその日。
学生たちが集まった小さな会社から。
多くの人が働く、本当の組織へと成長していた。
いや。
変わったのではない。
ようやく。
目指していた会社の形が、見え始めたのだ。
その日の業務が一段落した夕方。
社員たちが帰り支度を始める中、悠は営業部へ視線を向けた。
「西園寺さん。」
「はい?」
西園寺が振り返る。
悠は少しだけ笑った。
「少し相談したいことがあります。」
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