ARCが動く日
都内。
あるIT専門誌の編集部。
午後の締め切りを前に、記者たちは慌ただしく原稿を書いていた。
電話の音。
キーボードを叩く音。
資料をめくる音。
そんな編集部の中を、一人の若い記者が封筒を手に走っていた。
「編集長!」
「何だ、騒々しい。」
「これ、見てください!」
編集長は原稿から顔を上げ、不機嫌そうに封筒を受け取った。
差出人を見た瞬間。
その表情が変わる。
**株式会社ARC**
編集長はゆっくり封を切った。
中に入っていたのは、一枚の案内状だった。
**ARCショップメーカー
新サービス発表会のご案内**
短い文章。
日時。
会場。
発表内容については、何も書かれていない。
編集長は案内状を見つめたまま、小さく呟いた。
「……ついに動いたか。」
近くにいた記者たちが一斉に顔を上げる。
「どこですか?」
「ARCだ。」
その名前を聞いた瞬間、編集部がざわついた。
「あの大学生の会社ですか?」
「東大生が作ったネットショップソフトの?」
「大手に価格を潰されかけて、値上げして逆に売上を伸ばしたところですよね。」
「確か、二十九万八千円でも受注を増やしていた……。」
編集長は椅子から立ち上がった。
「そうだ。」
「今、業界で一番面白い会社だ。」
若い記者が案内状を覗き込む。
「でもARCって、今まで取材を断ってませんでしたか?」
「断っていた。」
「創業者への単独取材も。」
「開発者へのインタビューも。」
「事務所への密着取材も。」
「すべてだ。」
編集長は案内状を指で軽く叩いた。
「そのARCが、自分たちから記者を呼んだ。」
「しかも、発表内容を伏せている。」
別の記者が身を乗り出す。
「新機能でしょうか。」
「値下げかもしれません。」
「いや、競合が七万八千円ですよ。」
「今さら価格では勝負にならないでしょう。」
意見が次々と飛び交う。
編集長は、その様子を見て笑った。
「だから面白いんだ。」
「ARCは一度、価格競争から降りた。」
「その会社が、今さら普通の値下げを発表するとは思えない。」
編集長は若い記者へ案内状を返した。
「予定を空けろ。」
「はい。」
「カメラも連れていけ。」
「はい!」
「一言も聞き逃すな。」
編集長の声に、周囲の記者たちも動き始めた。
ARCが何を発表するのか。
まだ誰も知らない。
だからこそ、その案内状には、一枚の紙以上の重みがあった。
◇
同じ頃。
経済新聞社の編集会議でも、ARCの名が上がっていた。
「学生企業の新商品発表会?」
年配のデスクが眉をひそめる。
担当記者は頷いた。
「はい。」
「ネットショップ作成ソフトを販売している株式会社ARCです。」
「聞いたことはある。」
デスクは資料をめくった。
「大手ソフト会社と競争している会社だな。」
「はい。」
「競合製品の三倍以上の価格で販売しながら、受注を回復させました。」
デスクの手が止まる。
「値上げして売ったのか。」
「テンプレート、カード決済、導入支援を一つにまとめました。」
「最近は紹介契約も増えています。」
デスクはしばらく資料を見つめた。
「創業者は何歳だ。」
「大学生です。」
「他の中心メンバーも?」
「学生が中心です。」
デスクは小さく息を吐いた。
「普通なら、学生が作った会社など記事にならん。」
担当記者が黙る。
「だが。」
デスクは資料を閉じた。
「大企業が本気で価格を下げても、まだ残っている。」
「それどころか売上を伸ばした。」
「何か持っている会社だ。」
「取材へ行け。」
「分かりました。」
「経済面で扱うかどうかは、内容を見て決める。」
そう言いながらも、その声にはすでに興味が混じっていた。
◇
発表会の知らせは、企業の間にも広がっていた。
ARCショップメーカーを導入している企業。
ネットショップ開設を検討している会社。
競合製品との比較を続けている担当者。
案内状を受け取った者たちは、皆同じ疑問を抱いた。
ARCは何をするのか。
値下げか。
新機能か。
それとも、まったく別の何かか。
参加申込は、予定数をすぐに超えた。
西園寺は申込者一覧を見ながら、何度も人数を数え直した。
「社長。」
「どうしました?」
「会場を変えた方がいいかもしれません。」
悠が顔を上げる。
「そんなに来ますか。」
「想定の倍です。」
西園寺は一覧を机へ広げた。
「新聞社。」
「IT専門誌。」
「経済誌。」
「既存のお客様。」
「導入を検討している企業。」
「業界関係者。」
白石も横から覗き込む。
「こんなに?」
「取材を断り続けてきた反動でしょうね。」
西園寺は苦笑した。
「皆さん、ARCが何を隠しているのか気になっているようです。」
九条はパソコンから目を離さない。
「隠してない。」
白石が呆れたように見る。
「今まで説明してなかっただけでしょ。」
「同じ。」
「違うよ。」
悠は二人のやり取りを聞きながら笑った。
今まで、表へ出る必要はなかった。
商品を作る。
顧客へ届ける。
改善する。
それだけで十分だった。
だが、今回は違う。
一企業の商品改良ではない。
ソフトの売り方そのものを変える。
市場に新しい常識を示す。
そのためには、できるだけ多くの人へ一度に伝える必要があった。
「会場を広いところへ変えましょう。」
悠の言葉に、西園寺が頷く。
「すぐ押さえます。」
◇
競合会社にも、その情報は届いていた。
営業部長が足早に社長室へ入る。
「社長。」
社長は書類から顔を上げた。
「ARCが発表会を開きます。」
社長の目がわずかに細くなる。
「発表内容は。」
「不明です。」
「新商品か。」
「案内状には、新サービスとだけ。」
社長は椅子へ深く座り直した。
「新サービス……。」
営業部長は続ける。
「新聞社やIT専門誌にも案内を出しています。」
「既存顧客だけでなく、導入を検討している企業も多数参加するようです。」
社長の指が机を軽く叩く。
一定の間隔。
考え事をしている時の癖だった。
「価格変更の情報は。」
「ありません。」
「新機能の登録は。」
「確認できていません。」
「広告は。」
「発表会の告知だけです。」
社長は窓の外へ視線を移した。
ARCの販売は止まっていない。
だが、ここ最近は目立った動きもなかった。
こちらの紹介キャンペーンは効果を上げている。
契約数の伸び率も上回り始めている。
このまま続ければ勝てる。
そう考えていた。
それでも。
なぜ今、ARCはわざわざ記者を集めるのか。
役員の一人が笑った。
「話題作りではありませんか。」
「売上で押され始めたので、宣伝が必要になった。」
別の役員も頷く。
「学生の会社です。」
「派手な発表会で注目を集めようと考えても不思議ではありません。」
社長は答えなかった。
以前も、自分たちはARCを学生の集まりだと侮った。
その結果、値上げという予想外の一手で反撃された。
同じ失敗を繰り返すつもりはない。
「営業を一人行かせろ。」
営業部長が頷く。
「分かりました。」
「一般の企業担当者として参加させます。」
「違う。」
社長は低い声で遮った。
「一人では足りん。」
会議室の空気がわずかに変わる。
「営業。」
「技術。」
「企画。」
「各部署から一人ずつ行かせろ。」
役員が驚く。
「三人もですか。」
社長は鋭い視線を向けた。
「ARCは一度、我々の予想を超えた。」
「何を発表するのか分からない以上。」
「営業だけに見せても、意味を理解できない可能性がある。」
誰も反論できなかった。
「最前列で見る必要はない。」
「目立つな。」
「だが。」
社長は一語ずつ区切る。
「一言も聞き漏らすな。」
「画面も。」
「価格も。」
「仕組みも。」
「すべて持ち帰れ。」
営業部長は真剣な表情で頭を下げた。
「承知しました。」
社長は机の上のARCの資料へ視線を落とした。
余裕はまだある。
紹介キャンペーンは成功している。
資金力でも営業網でも負けていない。
だが、その胸の奥には、小さな違和感が残っていた。
ARCが、何の勝算もなく大勢を集めるとは思えなかった。
◇
発表会当日。
会場の前には、開場時間より早く人が集まり始めていた。
記者。
カメラマン。
企業の担当者。
既存顧客。
業界関係者。
受付には、長い列ができていた。
「あれがARCの発表会か。」
「本当に大学生が経営しているのか?」
「代表を見たことがある人は?」
「取材を受けないから、ほとんど写真も出てない。」
「開発者も東大生らしいぞ。」
「例のテンプレート機能を作った人か?」
会場のあちこちで、ARCについての話が交わされていた。
ある記者は、入口へ向かう悠たちを見つけると、慌ててカメラを構えた。
「あれじゃないか?」
「若いな。」
「本当に学生だ……。」
「隣の眼鏡が九条か?」
「白石もいるぞ。」
「撮れ、撮れ!」
シャッター音が次々と響く。
白石は思わず足を止めた。
「すごい……。」
悠が振り返る。
「どうした?」
「こんなに注目されると思ってなかった。」
「俺も。」
悠は素直に答えた。
白石が驚く。
「悠でも?」
「そりゃそうだ。」
悠は笑った。
「まだ発表前だぞ。」
少し先では、西園寺が受付担当者たちへ指示を出している。
いつもの営業用の笑顔を浮かべながらも、その動きにはわずかな緊張があった。
「社長。」
西園寺が悠のもとへ歩いてくる。
「満席です。」
「立ち見も出ています。」
悠は会場を見渡した。
予想以上だった。
一つの発表を聞くために、これだけの人が集まっている。
ARCはもう、アパートの一室でホームページを作っていた頃の会社ではない。
知らない間に、市場から次の一手を期待される存在になっていた。
「緊張しますか。」
西園寺が尋ねる。
悠は少し考える。
「します。」
「意外ですね。」
「人間ですから。」
西園寺は笑った。
「それなら安心しました。」
舞台裏。
九条は最後の動作確認を続けていた。
「回線、正常。」
「サーバー、正常。」
「デモ用データ、正常。」
白石は表示画面を見ながら、細かな位置を調整している。
「この文字、もう少し大きくした方が見えるよ。」
「一ピクセル。」
「その一ピクセルが大事なの。」
「分かった。」
二人のやり取りを見ながら、悠は心の中でAIへ話しかけた。
(相棒。)
『はい。』
(さすがに少し緊張するな。)
『心拍数が通常時より一八・六%上昇しています。』
(数字で言うな。)
『緊張を緩和する方法を提示しますか。』
(何だ。)
『冒頭で転倒すると、それ以降の失敗への心理的抵抗が低下します。』
悠は一瞬、言葉を失った。
(わざと転べっていうのか。)
『はい。』
『会場の緊張も和らぐ可能性があります。』
(断る。)
『承知しました。』
悠は苦笑した。
(相変わらず、人間の扱いが雑だな。ポンコツ。)
『ありがとうございます。』
(褒めてない。)
そのやり取りで、肩の力が少し抜けた。
会場の照明が落ちる。
ざわめきが徐々に静まっていく。
司会を務める西園寺が舞台へ上がった。
「皆様。」
「本日はお忙しい中、株式会社ARCの発表会へお越しいただき、誠にありがとうございます。」
会場中の視線が舞台へ集まる。
カメラが構えられる。
記者たちが手帳を開く。
後方の席では、競合会社から送り込まれた三人が、無言で舞台を見つめていた。
営業担当は価格を。
技術担当は仕組みを。
企画担当は市場への影響を。
それぞれが見逃すまいとしている。
西園寺は一度、舞台袖へ視線を向けた。
そして力強く告げる。
「それでは。」
「株式会社ARC代表取締役。」
「神谷悠です。」
拍手が湧き上がった。
悠はゆっくりと舞台へ出る。
照明の向こう。
会場を埋め尽くす人々。
期待。
好奇心。
警戒。
すべての視線が、自分一人へ向けられている。
悠は壇上の中央へ立った。
一度だけ深く息を吸う。
そして、静かに笑った。
「本日は。」
「ARCが考える、これからのソフトウェアについてお話しします。」
会場の空気が、張り詰めた。
ARCがついに動き始めた。
読んでいただきありがとうございます!
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