この部屋は、すぐ狭くなる
「神谷さん、紹介されたんですが……。」
その電話から始まった。
最初の契約を結んだ洋菓子屋の店主が、知り合いのパン屋を紹介してくれたのだ。
「一度話だけでも聞いてみてください。」
紹介された店でも、契約は驚くほどスムーズだった。
「あの洋菓子屋さんが絶賛してたから。」
その一言で、悠たちが一週間かけて積み上げるはずの信頼を、一瞬で飛び越えた。
口コミ。
それは広告よりも強く、営業よりも速かった。
二件目。
三件目。
五件目。
紹介は紹介を呼び、ARCショップオーナーは少しずつ街に広がっていった。
「神谷さん、また電話です。」
「今度はどこ?」
「八百屋さんです。」
「その次は?」
「お弁当屋さん。」
悠は受話器を置き、笑った。
「忙しくなってきたな。」
九条はノートパソコンから目を離さない。
「バグ報告も増えている。」
「それだけ使われてるってことだ。」
「そうとも言える。」
白石は新しい画面を作りながら嬉しそうに言う。
「お客さんから『使いやすい』って言われるの、やっぱり嬉しいですね。」
「それ、お前のおかげだ。」
悠がそう言うと、白石は少し照れくさそうに笑った。
「ありがとうございます。」
「礼なら、もっと売れてからでいい。」
その頃には、ホームページ制作の依頼も増え続けていた。
紹介。
口コミ。
そして実績。
気が付けば、アパートの一室では仕事が回らなくなっていた。
段ボールが積み重なり、資料は床に置かれ、パソコンの横には契約書の山。
白石が困ったように周囲を見回す。
「もう置く場所がありません……。」
九条も珍しく同意した。
「作業効率が低下している。」
悠は黙って立ち上がった。
「よし。」
「引っ越そう。」
翌週。
二人が連れて来られたのは、駅前にあるオフィスビルだった。
「ここですか?」
白石は何度も建物を見上げる。
「間違ってない。」
悠は笑いながらエレベーターに乗り込んだ。
ドアが開く。
目の前には、ガラス張りの入口。
受付の横には、小さな会社名のプレート。
**ARC株式会社**
悠が鍵を開ける。
カチャ。
扉が開いた。
「……。」
白石は言葉を失った。
広い。
想像していた何倍も広い。
十数人が働いても余裕がある。
会議室まで備わっていた。
九条は部屋を一周し、静かに言う。
「広すぎる。」
白石も慌てて振り返る。
「私たち三人ですよね?」
「そうだけど?」
「こんなに必要ですか?」
悠は窓際まで歩き、街を見下ろした。
しばらく黙って景色を眺める。
そして振り返った。
「一年後には狭い。」
「え?」
「社員が増える。」
「エンジニアも。」
「デザイナーも。」
「営業も。」
「事務も。」
「ここは、すぐ埋まる。」
白石は苦笑した。
「そんなにうまくいきますか?」
悠は迷わず答える。
「いく。」
「俺たちが、そうする。」
九条が腕を組む。
「根拠は。」
悠は笑った。
「勘。」
「経営判断として不適切だ。」
「俺の勘はよく当たる。」
頭の中でAIが静かに言った。
『過去一年間の経営判断成功率は九十三・二パーセントです。』
悠は吹き出しそうになる。
白石は窓の外を見ながら、小さくつぶやく。
「本当に、この部屋がいっぱいになる日が来るんでしょうか。」
悠は即答した。
「来る。」
「その時はもっと広い事務所を探さなきゃな。」
その言葉に、一切の迷いはなかった。
「気が早い。」
九条が呆れる。
白石が笑う。
まだ三人しかいない会社。
けれど、その広いオフィスには、もう未来の仲間たちの姿が見えているようだった。
「なるさ」
広いオフィスに、その言葉だけが静かに響いた。
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