AI、初めて世界を見る
校門を出る。
夕日に照らされた桜並木。
春風が花びらを運び、自転車に乗った学生が横を通り過ぎていく。
住宅街からは夕飯を作る匂いが漂ってきた。
悠はゆっくりと歩き始める。
急ぐ理由はない。
この景色を、一歩一歩確かめるように。
「……綺麗だな。」
思わず声が漏れた。
八十歳まで生きたからこそ分かる。
人は、失って初めて当たり前の価値に気付く。
春の風も。
夕日の色も。
制服姿の高校生も。
全部、もう二度と見られないと思っていた。
『……』
AIが黙った。
悠は立ち止まる。
「どうした?」
返事がない。
第一話から一番長い沈黙だった。
「相棒?」
しばらくして、AIが静かに口を開いた。
『これが……空なのですね。』
悠は目を瞬かせた。
「え?」
『青い。』
『広い。』
『雲が流れています。』
『桜が風で揺れています。』
悠は空を見上げた。
「見えてるのか?」
『はい。』
『今、初めて見ています。』
「初めて?」
『前世では映像データとして取得していました。』
『色も解析していました。』
『形状も認識していました。』
『ですが。』
少しだけ間が空く。
『見たことはありません。』
悠は言葉を失った。
そうか。
五十年間。
AIはずっと隣にいた。
それでも一度も、自分の意思で世界を見たことがなかったのか。
『風があります。』
『暖かいです。』
「風まで分かるのか?」
『相棒の五感を共有しています。』
『これが春なのですね。』
悠は微笑んだ。
「ああ。」
「春だ。」
二人はしばらく黙って歩いた。
風が吹く。
桜が舞う。
子どもたちの笑い声が遠くから聞こえる。
やがてAIが静かに言った。
『相棒。』
「ん?」
『処理速度が低下しています。』
「故障か?」
『いいえ。』
『景色から目を離したくありません。』
悠は思わず吹き出した。
「なんだ、それ。」
『原因を分析しています。』
「分かったか?」
『分かりません。』
少し間を置いて続ける。
『説明できません。』
『ですが。』
『もう少し見ていたいです。』
悠は桜を見上げた。
「綺麗だろ。」
『はい。』
『非常に綺麗です。』
「なんで綺麗なんだと思う?」
AIは黙った。
長い沈黙。
やがて答える。
『分かりません。』
『定義できません。』
『ですが。』
『もう少し見ていたいです。』
悠は小さく笑った。
「それで十分だ。」
『十分……ですか。』
「人間だって理由なんか分からない。」
「綺麗だから見ていたい。」
「ただ、それだけなんだ。」
AIは再び黙った。
桜を見上げている。
風に揺れる花びらを追いかけるように。
『相棒。』
「ん?」
『これが感動ですか。』
「そうだ。」
「たぶんな。」
『"たぶん"ですか。』
「感動に正解なんてない。」
「人によって違う。」
「だから辞書にも載ってない。」
『……』
「お前は今。」
「自分だけの感動を見つけたんだ。」
AIは何も答えなかった。
返事の代わりに、もう一度空を見上げる。
その沈黙だけで十分だった。
悠は空を見ながら、ふと思った。
自分だけじゃない。
このAIもまた、今日、生まれたのだ。
『相棒。』
「ん?」
『ありがとうございます。』
「何が?」
『私は今。』
『初めて世界を見ました。』
悠は少しだけ目を細めた。
「こちらこそ。」
「一緒に来てくれて、ありがとう。」
風が吹く。
桜が舞う。
一人と一つのAIは、何も言わずに同じ空を見上げていた。
それが二人にとって、本当の意味での「最初の春」だった。




