新たな始まり
終業を告げるチャイムが鳴った。
その瞬間、止まっていた教室の空気が一気に動き出す。
椅子を引く音。
机の中に教科書を押し込む音。
部活の予定を話す声。
廊下を駆けていく足音。
神谷悠は、自分の席に座ったまま、そのすべてを眺めていた。
懐かしい。
そんな一言では足りなかった。
黒板に残った白いチョークの跡も、窓から差し込む夕日も、教室の隅に積まれた古いプリントも。
八十歳まで生きた自分にとっては、とうの昔に失われた景色だった。
もう二度と戻ることはない。
そう思っていた世界が、今は目の前にある。
「神谷!」
突然、肩を叩かれた。
悠が振り返ると、見覚えのある男子生徒が立っていた。
短く刈った髪。
少し着崩した制服。
いつも何か面白いことを探しているような顔。
「帰るぞ。今日も駅前寄るだろ?」
後ろには、同じように鞄を肩にかけた二人が待っている。
悠は三人の顔を順番に見た。
名前も覚えている。
話し方も。
笑い方も。
放課後になると、毎日のように一緒にゲーセンへ行った。
腹が減れば安いラーメンを食べて、金がなくなれば誰かの家に集まった。
くだらない話で笑い、将来のことなどほとんど考えていなかった。
楽しかった。
間違いなく、あの頃の自分にとって大切な友人たちだった。
だが、その先も知っている。
四人とも受験に失敗した。
浪人して、別々の大学へ進み、社会人になった頃には連絡も減った。
誰かと喧嘩をしたわけではない。
裏切られたわけでもない。
ただ、それぞれの人生が始まった。
そして気がつけば、誰とも会わなくなっていた。
人生では、そんな別れの方が多い。
八十年も生きれば、それくらいは分かる。
「どうした?」
友人が不思議そうに顔を覗き込む。
「いや」
悠は小さく笑った。
楽しかった時間を否定するつもりはない。
だが、同じ時間をもう一度繰り返すつもりもなかった。
悪いな。
今回は、俺は先に行かせてもらう。
「今日はやめとく」
「は?」
「家に帰るよ」
三人が揃って目を丸くした。
「神谷がまっすぐ帰る?」
「雪でも降るんじゃねえか?」
「もう春だぞ」
「春でも降るときは降るだろ」
勝手な会話を始める三人を見て、悠は思わず吹き出した。
こういうところも変わっていない。
「また今度な」
「絶対だぞ」
「ああ」
悠は軽く手を上げた。
三人も深く考えることなく、笑いながら教室を出ていった。
その背中を見送る。
『友人との交流を減らすのですか』
頭の中に声が響いた。
「減らすっていうより、優先順位を変えるだけだ」
『優先順位』
「あいつらには、あいつらの人生がある」
悠は机の横にかけてあった鞄を持ち上げた。
「俺には俺の人生がある。それだけだよ」
『理解しました』
一瞬の間を置いて、AIが続ける。
『では、今後の友人関係を効率化します』
「やめろ」
『なぜですか』
「人間関係を業務みたいに言うな」
『業務ではないのですか』
「違う」
『承知しました。では、非業務的に効率化します』
「もっと悪くなったぞ、このポンコツ」
『ありがとうございます』
反射的に返ってきた答えに、悠は足を止めた。
「褒めてないからな」
『記録しました』
本当に分かっているのか。
悠は小さくため息をつきながら、教室を出ようとした。
「神谷」
今度は背後から低い声が飛んできた。
振り返ると、担任が教卓の横に立っていた。
四十代半ば。
少しくたびれた背広。
片手には出席簿を抱えている。
悠はその顔を見て、胸の奥に小さな懐かしさを感じた。
この教師とも、卒業後に会うことはなかった。
「お前、受験まで一年ないからな」
担任は呆れたように言った。
「遊ぶなとは言わん。だが、後悔だけはするなよ」
前の自分なら、面倒そうに返事をして終わっていた。
分かってる。
うるさいな。
きっと、そんな態度だった。
だが今は、その言葉の重さが分かる。
後悔した。
何度も。
数え切れないほど。
だから、ここへ戻ってきた。
「はい」
悠はまっすぐに答えた。
担任がわずかに眉を上げる。
「今日はやけに素直だな」
「たまには」
「毎日そうしてくれ」
「努力します」
「そこは、やりますと言え」
「それは難しいですね」
「やっぱりいつもの神谷か」
担任は苦笑し、手を振った。
「早く帰れ」
「はい。さようなら」
悠は教室を出た。
廊下には、まだ多くの生徒が残っていた。
部活へ急ぐ者。
友人と笑い合う者。
窓際に立って話し込んでいる者。
誰もが、自分の未来を知らない。
明日が当然来ると思っている。
かつての自分も、そうだった。
悠は廊下を歩きながら、自分の手を見た。
若い手。
皺も、染みもない。
何度握っても痛まない。
階段を下りても膝が軋まない。
それだけのことが、たまらなく嬉しかった。
『相棒』
「ん?」
『心拍数が上昇しています』
「懐かしいんだよ」
『先ほどから同様の反応が複数回確認されています』
「何十年ぶりの高校だからな」
『正確には——』
「細かい計算はいらない」
『まだ計算していません』
「しようとはしただろ」
『はい』
「するな」
『承知しました』
昇降口で靴を履き替える。
校舎を出る直前、悠は一度だけ振り返った。
夕日に染まった古い校舎。
開け放たれた窓。
遠くから聞こえる運動部の掛け声。
ここから、もう一度始まる。
だが、前と同じ道を歩くつもりはない。
悠は校門へ向かって歩き出した。
序盤はほのぼの進めていきます。




