初めて売れた日
それから一週間。
狭いワンルームには、朝からキーボードを叩く音が響いていた。
「ここのボタン、もう少し大きくしてください。」
白石が画面を指差す。
「十分大きい。」
九条は画面から目を離さずに答えた。
「十分じゃありません。」
「数値で言え。」
「あと三ミリくらいです。」
「画面上の単位で言え。」
「押したくなる大きさです。」
「それは数値じゃない。」
「でも、見れば分かります。」
九条の手が止まった。
しばらく白石を見つめたあと、無言で修正する。
ボタンが少しだけ大きくなった。
白石は画面を見て、すぐに首を振った。
「もう少しです。」
「さっき三ミリと言った。」
「今見たら四ミリでした。」
「……。」
悠は少し離れたところから、二人のやり取りを眺めていた。
最初の頃とは違う。
九条は白石の言葉を否定しなくなった。
納得できなければ理由を聞き、理解すればすぐに直す。
白石もまた、九条の技術を信頼していた。
曖昧な要求を投げても、九条なら形にしてくれると分かっている。
「次です。」
白石が別の画面を開く。
「この設定は最初から見せなくていいです。」
「必要な機能だ。」
「必要な人だけ見ればいいんです。」
「全員が使う可能性はある。」
「でも、全員が最初に見る必要はありません。」
九条は少し考えたあと、設定項目を別の画面へ移した。
「これでいいか。」
白石は操作を確認する。
「はい。」
「これなら迷いません。」
『開発速度が向上しています。』
AIが悠にだけ聞こえる声で告げた。
『九条玲司は、白石美咲の判断を信頼し始めています。』
(分かってる。)
悠は心の中で答えた。
二人はもう、互いに相手の才能を疑っていない。
九条はコードを書く。
白石は、人がどう動くかを考える。
その二つが重なるたびに、ソフトは目に見えて変わっていった。
そして一週間後。
九条が静かにエンターキーを押した。
「終わった。」
部屋からキーボードの音が消えた。
悠と白石が九条の後ろへ集まる。
画面に表示されたのは、以前とはまるで違う管理画面だった。
最初に見える項目は三つだけ。
商品を登録する。
注文を見る。
売上を見る。
余計な説明はない。
意味の分からない項目も並んでいない。
悠はマウスを握り、商品登録を選んだ。
商品名。
価格。
写真。
必要な情報を入力すると、一番下に大きなボタンが現れる。
登録する。
悠が押す。
画面が切り替わった。
商品一覧に、今入力した商品が表示されている。
「……終わりか?」
「終わりです。」
白石が答える。
悠はもう一度、最初の画面へ戻った。
以前は触るだけで疲れるようなソフトだった。
どこを押せばいいのか分からない。
何を入力すればいいのか分からない。
説明書を読まなければ、一歩も進めない。
だが今は違う。
画面を見るだけで、次に何をすればいいか分かる。
「機能は減ってないんだよな?」
悠が聞く。
「ああ。」
九条が答える。
「むしろ増えている。」
「でも、前より簡単だ。」
「必要のないものを最初に見せていないだけだ。」
九条はそう言って、隣に立つ白石を見た。
白石は満足そうに画面を眺めている。
「これなら売れます。」
彼女は自信満々に言った。
九条も頷く。
「前のものとは違う。」
二人の目に迷いはなかった。
悠は画面を見つめながら、静かに息を吐いた。
「じゃあ、行こう。」
「どこへですか?」
「最初に断られた店だ。」
その日の午後。
三人は、以前訪れた洋菓子店の前に立っていた。
九条はノートパソコンを抱えている。
白石はどこか楽しそうだった。
二人とも、自分たちが作ったものが評価されると信じている。
悠もソフトには自信があった。
ただし。
店主が同じように思っているとは限らない。
一度、使いにくいものを見せられている。
二度目だからこそ、警戒される。
悠は店の扉を開いた。
小さな鈴が鳴る。
「いらっしゃいませ。」
奥から出てきた店主が、三人の顔を見て足を止めた。
「あら。」
すぐに誰なのか思い出したらしい。
笑顔ではあったが、どこか困ったような表情だった。
「また来たんですか。」
「はい。」
悠が頭を下げる。
「先日は、ありがとうございました。」
「いえ。」
店主は苦笑した。
「でも、あれは私には難しいですよ。」
断られた理由を、もう一度言われた。
悠が口を開く前に、九条が一歩前へ出た。
「作り直しました。」
店主が九条を見る。
「前とは違います。」
「五分だけでいいので、使ってみてください。」
九条にしては、かなり強い言葉だった。
自分の作ったものに、それだけ自信があるのだろう。
しかし店主の表情は変わらなかった。
「そう言われてもねえ。」
「前も、使えば分かるって言われましたから。」
九条の言葉が止まる。
「今度は説明書も必要ありません。」
「前も、説明してもらえば簡単だと言われました。」
店主の声は穏やかだった。
だが、拒絶の意思ははっきりしている。
九条は、それ以上続けられなかった。
技術の話なら何時間でもできる。
しかし、一度失った信用をどう取り戻すかは分からない。
白石も困ったように悠を見る。
店の空気が重くなった。
ここで引けば、もう三度目はない。
悠は一歩前へ出た。
「店長さん。」
店主が悠を見る。
「今回も使いにくいと思われたら。」
悠は店主の目をまっすぐ見た。
「一円もいただきません。」
九条が勢いよく悠を振り返った。
白石も目を見開いている。
「神谷。」
九条が低い声で呼ぶ。
悠は振り返らなかった。
「導入費も、利用料も、全部です。」
「使いにくいと思われたら、契約は必要ありません。」
店主の表情が少し変わる。
「無料で使わせるってことですか?」
「違います。」
悠は首を振った。
「使いにくいものに、お金を払ってもらうつもりがないだけです。」
店主は黙った。
悠は続ける。
「前回、僕たちは自分たちが作ったものを見せることしか考えていませんでした。」
「でも今回は違います。」
「店長さんが使えるものを作りました。」
「だから、もう一度だけ。」
悠は頭を下げた。
「五分だけ、時間をください。」
しばらく誰も話さなかった。
店の奥から、焼き菓子の甘い香りが流れてくる。
店主は三人の顔を順番に見た。
九条。
白石。
そして悠。
「そこまで言うなら。」
店主が小さく息を吐いた。
「五分だけですよ。」
「ありがとうございます。」
悠はすぐに頭を上げた。
カウンターの奥へ通される。
九条がノートパソコンを開いた。
新しい管理画面が表示される。
店主は画面を見て、わずかに眉を上げた。
「前と違いますね。」
「はい。」
九条が答える。
「使ってみてください。」
店主は椅子に座ったが、すぐにはマウスを握らなかった。
画面をじっと見ている。
商品を登録する。
注文を見る。
売上を見る。
しばらくして、店主が口を開いた。
「商品を入れるなら、これですか?」
「はい。」
九条が答えようとする。
だが悠は、手で制した。
「説明はしなくていい。」
九条が悠を見る。
「店長さんだけで使ってみてください。」
店主は少し不安そうに笑った。
「間違えても大丈夫ですか?」
「大丈夫です。」
白石が答える。
「壊れません。」
店主はようやくマウスを握った。
商品を登録する。
クリックする。
画面が切り替わる。
商品名。
価格。
写真。
店主は項目を一つずつ見た。
「商品名は……。」
今日、店頭に並んでいた焼き菓子の名前を入力する。
次に価格。
数字を入力する。
写真の項目で少し止まったあと、保存されている画像を選ぶ。
そして、画面の下に表示された大きなボタンに気付いた。
「登録する。」
店主が読み上げる。
クリックする。
画面が変わる。
登録完了。
商品一覧に、たった今入力した焼き菓子が表示されていた。
店主の手が止まった。
「あれ?」
画面を見つめる。
「もう終わりですか?」
悠は答えない。
店主は商品一覧を開く。
今入力した商品が、一番上に並んでいる。
もう一度詳細を開く。
名前も価格も写真も、正しく登録されている。
「できてる。」
店主の声が少し弾んだ。
「これだけ?」
「はい。」
白石が笑顔で答える。
「基本的な登録は、それだけです。」
「ほかの設定は?」
「必要になったときだけ開けます。」
店主は画面を操作し始めた。
今度は注文画面。
次に売上画面。
悠たちは何も説明しない。
それでも店主は、ほとんど迷わず次の画面へ進んでいく。
「ああ。」
「これは今日の売上ですね。」
「こっちは商品ごとか。」
「昨日の分も見られるんですか?」
「見られます。」
九条が答える。
店主はしばらく画面を触り続けた。
五分と言っていた時間は、とっくに過ぎている。
それでも店主はパソコンから手を離さなかった。
最後にもう一度、商品登録の画面へ戻る。
別の商品を入力する。
登録する。
再び、問題なく一覧へ追加された。
店主が椅子にもたれた。
「前とは、全然違いますね。」
九条は何も言わない。
だが、その表情には隠しきれない自信が浮かんでいた。
白石も嬉しそうに店主を見ている。
悠は店主の正面に立った。
「どうでしょう。」
店主は画面を見た。
それから悠を見る。
少しだけ口元を緩める。
「これじゃあ。」
一拍置いて、笑った。
「ただで使わせてもらうのは、申し訳ないですね。」
悠は息を止めた。
店主は続ける。
「契約します。」
その言葉が、すぐには現実のものに思えなかった。
九条が僅かに目を見開く。
白石は口元を押さえた。
悠は店主を見つめたまま、聞き返す。
「本当に、よろしいんですか?」
「ええ。」
店主は頷いた。
「これなら私でも使えます。」
「それに。」
画面に登録された二つの商品を見ながら言う。
「ちゃんと、私たちのことを考えて作り直してくれたんでしょう?」
悠はゆっくり頷いた。
「はい。」
「だったら、お願いします。」
悠は深く頭を下げた。
「ありがとうございます。」
ARCのソフトが初めて受注した瞬間だった。
店を出ると、夕方の商店街に柔らかな光が差していた。
三人はしばらく無言で歩いた。
誰も、最初の言葉を決められない。
やがて白石が小さく呟く。
「売れましたね。」
「ああ。」
九条が答える。
悠も頷く。
「売れた。」
その一言を口にした瞬間、ようやく実感が湧いた。
自分たちが作ったものに、初めて誰かがお金を払ってくれた。
未来の知識でもない。
AIの予測だけでもない。
九条の技術。
白石の感覚。
そして、自分の決断。
その全部が合わさって、ようやく一件の契約になった。
しばらく歩いたところで、九条が口を開く。
「神谷。」
「何だ?」
「さっきの保証。」
九条は前を向いたまま言った。
「本当に使いにくいと言われたら、どうするつもりだった。」
「無料にした。」
「開発にどれだけ時間がかかったと思っている。」
「分かってる。」
「分かっていて、あんなことを言ったのか。」
悠は少し笑った。
「それくらい、自信があったからな。」
九条は黙った。
悠は続ける。
「それに、もし駄目だったら。」
「また作り直せばいい。」
九条が足を止める。
「また?」
「売れない理由が分かるなら、直せる。」
「分からないまま売れないより、ずっといい。」
九条は悠を見た。
悠も立ち止まり、九条を見る。
「商品を信じるのは当然だ。」
「でも最後に信じてもらうのは、商品じゃない。」
夕日が三人の影を長く伸ばしていた。
「人だ。」
九条は何も答えなかった。
だが、やがて小さく息を吐き、再び歩き始めた。
『分析完了。』
AIの声が静かに響く。
『神谷悠は、ソフトウェアだけを販売したのではありません。』
『失われた信用を、自身の責任によって補いました。』
(大げさだ。)
悠は心の中で答える。
『いいえ。』
AIは即座に否定した。
『経営者として、正しい行動です。』
悠は少しだけ笑った。
(そうかよ。)
三人は並んで歩く。
技術を作る九条。
人が使える形にする白石。
そして、それを信じてもらう悠。
ARCはこの日、初めて自分たちの商品を売った。
同時に。
初めて、会社になった。
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