表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
32/119

ようこそ

翌日の夕方。


悠の携帯電話が鳴った。


『九条だ。』


「分かってる。」


『昨日の話。』


少しだけ間が空いた。


『続きを聞かせてくれ。』


悠は口元を緩めた。


「研究室じゃ長くなる。」


『どこに行けばいい。』


「会社に来い。」


『会社?』


「今から住所を送る。」


電話が切れた。


AIが静かに告げる。


『九条玲司が自発的に接触してきました。』


「分かってる。」


『勧誘成功率が上昇しました。』


「まだ早い。」


『現在の推定成功率は――』


「言うな。」


『承知しました。』


・・・


三十分後。


九条は古びたアパートの前に立っていた。


二階建て。


色あせた外壁。


錆びた階段。


一階の郵便受けには、企業名らしいものは何もない。


九条は携帯電話に表示された住所を、もう一度確認した。


間違っていない。


階段を上がり、指定された部屋の前に立つ。


ドアの横には、一枚の紙が貼られていた。


株式会社ARC。


手書きだった。


九条は数秒、その紙を見つめた。


「……ここが会社?」


ドアが開く。


「ようこそ。」


悠が立っていた。


九条は部屋へ入る。


六畳一間。


PCとプリンターが一台ずつ。


壁際には段ボール。


電話機が一台。


コピー機もなければ、応接室もない。


もちろん社長室もない。


九条は部屋を一周見回した。


「思ったよりボロい。」


「正直だな。」


「会社っていうから。」


「何を想像してた。」


「少なくとも。」


九条は手書きの社名を指差した。


「紙じゃないと思ってた。」


悠は笑った。


「看板に使う金があったら、パソコンを買う。」


九条の視線が、机の上の機材へ移る。


どれも高価なものではない。


だが、無駄なものもなかった。


「売上はあるんだろ。」


「ああ。」


「先月は百万円を超えた。」


九条は悠を見る。


「それなら。」


「もう少しましな場所に移れる。」


「移らない。」


「何で。」


「会社の金だからだ。」


「社長の金じゃないのか。」


「違う。」


悠はインスタントコーヒーを二つ作り、一つを九条の前へ置いた。


「会社の金は。」


「次の売上を作るために使う。」


「設備。」


「人。」


「開発。」


「俺がいい部屋に住むための金じゃない。」


九条は紙コップを手に取った。


「社長なのに。」


「社長だから。」


九条は何も言わなかった。


そのまま近くの椅子へ座る。


悠も向かいに座った。


「昨日の続きをしよう。」


九条が先に口を開く。


「世界中が使うサービス。」


「具体的に何だ。」


「まだ決めてない。」


九条の眉が動く。


「決めてない?」


「ああ。」


「なのに。」


「世界中からアクセスされると言った。」


「必ずそういうサービスが生まれる。」


「根拠は。」


悠は紙コップを机へ置いた。


「人間は。」


「便利になったら戻れない。」


九条は黙って聞いている。


「電話で話せるようになった人間は。」


「手紙だけの生活には戻らない。」


「テレビを知った人間は。」


「ラジオだけでは満足しない。」


「欲しい商品を家から買えるようになれば。」


「店を何軒も回らなくなる。」


「知りたいことを一瞬で探せるようになれば。」


「図書館へ行く前に、まずネットを開く。」


九条が小さく息を吐く。


「全部ネットになると?」


「全部ではない。」


「でも。」


「生活の中心にはなる。」


九条は少し考えたあと、机の上のノートを引き寄せた。


「だったら。」


ペンを手に取る。


「昨日の続きだ。」


悠は九条を見る。


「分散処理は。」


「台数を増やせば速くなるわけじゃない。」


九条は紙へ四つの四角を描いた。


「処理を分ける。」


「結果を集める。」


「状態を合わせる。」


「ノードが増えるほど、通信が増える。」


悠は頷く。


「これ。」


九条のペンが止まる。


悠は紙に描かれた四角を指差した。


「ノードが百台になったら。」


「同期はどうする。」


九条は顔を上げた。


「……。」


「何でそこを聞く?」


「一台なら速い。」


「十台でも速い。」


「でも。」


悠は紙に描かれた線を見る。


「百台になった瞬間。」


「計算より。」


「通信待ちの方が長くならないか。」


九条は動かなかった。


悠の顔をじっと見つめる。


やがて、低い声で答えた。


「……そこが一番難しい。」


「やっぱり。」


「やっぱり?」


九条の声に鋭さが混じる。


「知ってたのか。」


「いや。」


「人間と同じだと思っただけだ。」


「人が一人なら、すぐ決められる。」


「十人になれば、確認が増える。」


「百人になれば。」


「仕事をする時間より、話し合う時間の方が長くなる。」


九条は悠を見つめたまま、ゆっくりペンを置いた。


「コンピューターの問題を組織で考えたのか。」


「俺には、その方が分かりやすい。」


九条は小さく笑った。


「変な考え方だ。」


「間違ってるか。」


「いや。」


九条は紙へ視線を落とす。


「合ってる。」


悠は続ける。


「あと。」


「一台落ちたら?」


九条が顔を上げる。


「何?」


「この中の一台が壊れたら。」


悠は紙の四角を一つ指で隠した。


「全部止まるのか。」


「今は止まる。」


「冗長化は。」


「まだしてない。」


「危ないな。」


「研究だから問題ない。」


「今はな。」


悠は九条を見る。


「でも。」


「商用になった瞬間。」


「一秒止まるだけでも信用を失う。」


九条の表情が変わった。


「一秒で?」


「利用者は中で何が起きたかなんて知らない。」


「サーバーが壊れた。」


「回線が切れた。」


「同期に失敗した。」


「そんな理由は関係ない。」


悠は淡々と続ける。


「使えなければ。」


「使えないサービスだと思われる。」


九条は黙り込んだ。


研究では、結果さえ出ればいい。


途中で止まっても、再実行すればいい。


だが。


社会で使われるサービスは違う。


速いだけでは足りない。


止まらないことも、性能の一部になる。


悠はさらに紙を指差した。


「あと。」


「データ。」


「データ?」


「全部同じ場所に置くのか。」


「今はそうだ。」


「危ないな。」


九条が眉をひそめる。


「今度は何だ。」


「世界中からアクセスが来るなら。」


悠は紙の端と端を指差す。


「データも利用者の近くに置いた方が速い。」


「東京のサーバーに。」


「海外から毎回取りに来させるのか。」


九条の動きが完全に止まった。


「……。」


「データまで分けるのか。」


「必要になる。」


「でも。」


九条は再びペンを取った。


先ほどより速い手つきで線を引き始める。


「同じデータを複数の場所に置けばどれが最新か分からなくなる。」


「同時に更新されたら競合する。」


「一か所が落ちても動かすなら別の場所が代わりに処理しないといけない。」


「でも切り替えにも時間がかかる。」


「同期を強くすれば遅くなる。」


「弱くすればデータがずれる。」


ペンが紙の上を走る。


九条の目はもう、悠を見ていなかった。


頭の中に浮かぶ設計を、必死に書き出している。


「ノードを増やす。」


「障害に備える。」


「データを分散する。」


「全部。」


九条は勢いよく顔を上げた。


「全部繋がってる。」


悠は静かに頷く。


九条の呼吸が少し速くなっていた。


研究室で一人、考え続けていた時とは違う。


目の前の男は答えを持っているわけではない。


だが。


九条がまだ見ていなかった問題を、次々に投げ込んでくる。


技術の中からではない。


技術が社会に出た、その先から。


「お前。」


九条が低い声で尋ねる。


「どこまで考えてる。」


「俺は考えてない。」


「は?」


「困る人間を見てるだけだ。」


悠は九条の書いた図を見る。


「サービスを使う人間は。」


「同期方式なんて知らない。」


「冗長化も知らない。」


「データの整合性も知らない。」


「ただ。」


「速くて。」


「いつでも使えて。」


「どこからでも同じように動くことを求める。」


九条は言葉を失った。


悠は技術者ではない。


だからこそ。


技術者が見落としやすい場所を見ている。


「……お前。」


「プログラム書けるのか。」


「全然。」


九条は本気で呆れた顔をした。


「じゃあ。」


「何で分かる。」


悠は少し考えた。


「俺は。」


「使う側だから。」


九条は黙る。


「技術を見てるんじゃない。」


「問題を見てる。」


部屋に沈黙が落ちた。


窓の外から、車の音が聞こえる。


九条は紙に描かれた大量の線を見つめていた。


同期。


通信。


障害。


データ。


九条は技術から未来を見ようとしていた。


悠は未来から、必要になる技術を見ている。


見ている方向は逆だった。


だが。


二人の視線は、同じ場所へ向かっていた。


悠は静かに口を開く。


「お前は。」


「速いコンピューターを作ろうとしてる。」


九条が悠を見る。


「俺は。」


悠は九条の目を真っ直ぐ見返した。


「世界を速くしたい。」


九条は何も言わなかった。


ただ。


しばらく悠を見つめ続けていた。


初めて会った時。


九条は悠を、勢いだけの人間だと思っていた。


未来を語る人間は多い。


夢を口にする人間も多い。


だが。


この男は違う。


未来を語るだけではない。


その未来で起きる問題まで見ている。


しかも。


自分ではコードを書けないことを、隠そうともしない。


九条は静かに聞いた。


「もし。」


「俺がここに入ったら。」


悠は返事をせず、続きを待った。


「何をさせる。」


「好きなものを作れ。」


九条の眉が動く。


「会社なのに?」


「会社だからだ。」


「意味が分からない。」


「世界一のサービスは。」


悠は即答する。


「やらされて作るもんじゃない。」


「作りたい人間が。」


「本気で作るもんだ。」


九条は少しだけ笑った。


「社長らしくない。」


「よく言われる。」


「誰に。」


「今、お前に。」


九条が鼻で笑う。


張り詰めていた空気が、少しだけ緩んだ。


だが。


九条の目はまだ真剣だった。


「条件がある。」


「聞こう。」


「コードは俺が決める。」


「任せる。」


「技術を知らない人間に途中で口を出されたくない。」


「出さない。」


「納期だけで設計を曲げたくない。」


「必要なら、俺が客を説得する。」


九条は悠を見つめる。


「会議。」


「必要なら俺が出る。」


「営業。」


「俺がやる。」


「採用。」


「俺。」


「資金。」


「俺が集める。」


九条は一つずつ確認するように問い続けた。


悠は一度も迷わなかった。


やがて九条が最後の質問を投げる。


「失敗したら。」


悠は九条の目を見る。


「俺の責任だ。」


「俺が作ったものでも?」


「作らせたのは俺だ。」


「売ると決めるのも俺。」


「会社として世に出すのも俺。」


悠は一度言葉を切る。


「技術の責任はお前が持て。」


「会社の責任は俺が持つ。」


九条は黙った。


自分の技術を理解する人間は、今までいなかった。


自分に自由を与えると言う人間も、いなかった。


だが。


自由だけを渡すのではない。


責任は自分が背負うと言っている。


九条は視線を落とした。


紙の上には、分散された無数のノードが描かれている。


一人では作れない。


技術だけでも、世界には届かない。


九条はゆっくりと立ち上がった。


「一つだけ訂正する。」


「何だ。」


「好きなものを作れって言ったな。」


「ああ。」


「違う。」


九条は悠を見る。


「お前が見てる未来に必要なものを。」


「俺が作る。」


悠の口元が緩む。


九条は右手を差し出した。


「その条件なら。」


短い沈黙。


「入る。」


悠は立ち上がり、その手を握った。


「歓迎する。」


「ようこそ、株式会社ARCへ。」


九条は狭い部屋を見回す。


「本当に。」


「ここから日本一になるつもりか。」


「ああ。」


「この部屋から。」


AIの声が頭の中に響く。


『勧誘成功。』


悠は小さく笑った。


「違う。」


『訂正しますか。』


「ああ。」


悠は九条の手を強く握る。


「ここからが。」


「本当の創業だ。」


六畳一間。


机が二つ。


中古のパソコンが数台。


株式会社ARC。


最初の仲間が加わった。


読んでいただきありがとうございます!

もし面白いと思ってくれたら、ブクマや評価で応援してもらえると執筆の励みになります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ