夢を買わない男
昼休み。
悠は再び情報工学研究室を訪れた。
相変わらず、九条は画面と向き合っている。
キーボードを叩く音だけが静かな部屋に響いていた。
「また来た。」
画面を見たまま、九条が言う。
「邪魔だったか?」
「別に。」
「コードは逃げない。」
悠は笑った。
「話がある。」
「会社に来ないか。」
九条の指が止まることはない。
「断る。」
あまりにも速い返事だった。
悠は苦笑する。
「理由を聞いてもいいか。」
「一人の方が速い。」
「会議。」
「報告。」
「人間関係。」
「全部、処理効率が悪い。」
「会社は嫌い。」
まるで事前に用意していた答えだった。
悠は椅子を引き、勝手に腰を下ろす。
「給料は出す。」
「興味ない。」
「好きなだけプログラムを書ける。」
「今も書いてる。」
「会社を大きくしたい。」
「俺はしたくない。」
一歩も譲らない。
悠は思わず笑ってしまう。
「頑固だな。」
「よく言われる。」
その返事だけは少し早かった。
しばらく沈黙が流れる。
キーボードの音だけが部屋に響く。
悠は何気なくモニターを見る。
四台のパソコン。
LANケーブルで接続され、それぞれが同じプログラムを動かしている。
画面には、見慣れないログが高速で流れていた。
昨日見た時よりも、コードはさらに洗練されている。
悠は小さく呟いた。
「その分散処理。」
その瞬間だった。
カタカタと鳴り続けていたキーボードの音が、ぴたりと止まる。
静寂。
九条がゆっくりと振り返った。
その目は、さっきまでとは明らかに違っていた。
「……今、何て言った?」
「分散処理。」
九条は悠をじっと見つめる。
「分かるのか?」
悠は苦笑した。
「全部は分からない。」
「でも。」
「複数のコンピューターで処理を分散して、一つの結果を返そうとしてる。」
「違うか?」
数秒の沈黙。
九条はゆっくり画面へ視線を戻した。
「……。」
「教授にも話してない。」
「研究室でも、まだ誰も気付いてない。」
「どうして分かった?」
悠は肩をすくめる。
「コードは読めない。」
「でも。」
「やろうとしてることくらいは分かる。」
九条は初めて興味を示した。
「普通は。」
「負荷分散とか、並列計算くらいしか思いつかない。」
「そこから『分散処理』って言葉は出てこない。」
悠はモニターへ近づく。
「企業でも、まだほとんど研究段階だろ。」
九条は目を見開く。
「……知ってるのか。」
「少しだけ。」
九条は椅子を回し、初めて悠の方へ体を向けた。
さっきまで画面しか見ていなかった男が。
今は悠を見ている。
悠は静かに尋ねる。
「何に使うつもりなんだ?」
九条は少し考えた。
「もっと大きな計算をしたい。」
「もっと速く。」
「もっと効率よく。」
「一台じゃ限界があるから。」
悠は頷いた。
「なるほど。」
「でも。」
「その技術の本当の価値は、そこじゃない。」
九条の眉がわずかに動く。
「違う?」
悠は四台のパソコンを見渡した。
「今は四台。」
「百台になったら?」
「千台になったら?」
「一万台になったら?」
九条は即答した。
「理論上は動く。」
「ネットワークが追いつけば。」
悠は静かに笑う。
「じゃあ。」
「世界中に何百万台のコンピューターがあったら?」
九条は一瞬、言葉を失った。
「……何をする気だ。」
悠は少しだけ笑みを浮かべる。
「例えば。」
「世界中の人が、好きな時に動画を見る。」
「テレビじゃない。」
「自分で選んで。」
「好きな時間に。」
九条は首を振る。
「無理だ。」
「通信速度が足りない。」
「今はな。」
悠は続ける。
「音楽も。」
「検索も。」
「買い物も。」
「地図も。」
「全部ネットになる。」
九条は黙って聞いている。
「その時。」
「世界中から何億件もアクセスが来る。」
「一台のサーバーじゃ耐えられない。」
「だから。」
悠は四台のパソコンを指差した。
「お前の技術が必要になる。」
九条は画面を見る。
四台のパソコンを見る。
もう一度、悠を見る。
「……。」
「そんな時代。」
「本当に来ると思う?」
悠は迷わなかった。
「来る。」
「絶対に。」
九条は静かに尋ねる。
「どうして言い切れる。」
悠は少しだけ笑った。
「勘だ。」
九条は何も言わなかった。
長い沈黙が流れる。
やがて、小さく口を開く。
「……面白い。」
悠は笑う。
「会社に来るか?」
九条は少しだけ口元を緩めた。
「まだ断る。」
「でも。」
「話の続きを聞いてみたい。」
読んでいただきありがとうございます!
もし面白いと思ってくれたら、ブクマや評価で応援してもらえると執筆の励みになります!




