社長の1日
朝六時三十分。
目覚ましが鳴る前に、悠は目を開けた。
『睡眠時間、四時間二十七分です。』
「……言わなくていい。」
『慢性的な睡眠不足です。』
「知ってる。」
布団から起き上がり、カーテンを開ける。
春の日差しが部屋へ差し込んだ。
机の上には昨日の仕事の資料が積み重なっている。
会社を作ったからといって、仕事が減るわけではない。
むしろ増えていた。
「さて。」
「今日も頑張るか。」
午前中は大学。
講義を受けながらノートを取る。
教授の話は面白い。
前世では気にも留めなかった内容が、今では仕事と結び付いて見える。
『分析。』
「何。」
『この理論は二十年後の検索アルゴリズムにも応用されています。』
「……未来を知ってると授業も贅沢だな。」
昼休み。
学食は今日も賑わっていた。
「神谷。」
後ろから声を掛けられる。
入学式で知り合った同じ学部の学生だった。
「今日、このあと空いてる?」
「サークルで新歓やるんだけど。」
悠は少し申し訳なさそうに笑う。
「悪い。」
「仕事がある。」
「仕事?」
「アルバイト?」
「いや。」
悠は少し照れながら答えた。
「会社。」
「……え?」
「会社?」
「うん。」
「昨日作った。」
相手は数秒黙ったあと、大笑いした。
「またまた。」
「エイプリルフールじゃないぞ。」
「もう四月も終わる。」
「本当なんだけどな。」
笑われても仕方がない。
大学一年生が会社を作ったと言われて、信じる方が珍しい。
午後の講義を終えると、悠はすぐにアパートへ戻った。
スーツへ着替え、パソコンの電源を入れる。
メールは二十三件。
そのうち、新規問い合わせが六件。
『本日の受注予定。』
『ホームページ制作、一件。』
『更新案件、四件。』
『デザイン修正、三件。』
『打ち合わせ、一件。』
悠はスケジュール帳を見て苦笑した。
「昨日より増えてるな。」
『法人化の効果です。』
実際、「株式会社ARC」という肩書きが付いただけで、問い合わせの質が変わっていた。
個人では断られていた企業からも相談が届く。
「肩書きってすごいな。」
『信用とは目に見えない資産です。』
夕方。
一本の電話が鳴る。
悠は深呼吸をして受話器を取る。
「お電話ありがとうございます。」
「株式会社ARCの神谷です。」
その一言を口にした瞬間、少しだけ胸が熱くなった。
株式会社ARC。
昨日までは存在しなかった名前。
それを今、自分が名乗っている。
「はい。」
「承知いたしました。」
電話を終える。
思わず一人で笑ってしまった。
『何がおかしいのですか。』
「いや。」
「まだ慣れなくて。」
「株式会社ARCの神谷です、か。」
「なんか、くすぐったい。」
AIは少しだけ間を置いた。
『そのうち自然になります。』
夜九時。
最後のメールを送り終える。
売上管理ソフトを開く。
今月の数字が表示された。
売上。
百十二万円。
利益。
七十八万円。
大学一年生としては、十分すぎる数字だった。
しかし、悠は数字を眺めるだけで画面を閉じる。
『利益は前月比二十八パーセント増加です。』
「そうか。」
『嬉しくありませんか。』
「もちろん嬉しい。」
「でも。」
悠は窓の外を見る。
「会社の価値は、売上じゃない。」
「何人の人生を変えられるかだ。」
AIは静かに記録する。
『経営理念として保存します。』
「いや。」
悠は笑った。
「まだ理念なんて大げさなものじゃない。」
「ただの目標だ。」
時計を見る。
午後十一時四十分。
今日もよく働いた。
布団へ向かおうとした、その時。
メール受信音が鳴る。
件名。
**ホームページ制作のご相談。**
さらにもう一件。
**お見積りのお願い。**
そして、また一件。
『新規案件、三件追加。』
悠は苦笑した。
「今日は終わったと思ったんだけどな。」
AIは淡々と言う。
『現在の処理能力を超え始めています。』
悠はまだ笑っていた。
「何とかなる。」
そう答えながらも、その視線はメール一覧から離れなかった。
部屋の静けさの中で、新しい依頼だけが増え続けていく。
その時、悠はまだ知らなかった。
この小さな違和感が、近い将来、自分一人では越えられない壁になることを。
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