未来への一歩
三月中旬。
東大合格発表から数日が過ぎても、家の中にはどこか浮き立った空気が残っていた。
母は近所の人に会うたびに嬉しそうに報告し、父も新聞を読みながら時折口元を緩めている。
そんな家族の姿を、自室の窓から差し込む春の日差しの中で、悠は静かに眺めていた。
机の上には、東大の合格通知。
その隣には、一冊の大学案内。
そして、その横には何も書かれていない白いメモ帳。
悠はペンを手に取り、一行だけ書いた。
**「次にやること」**
しばらく考えたあと、一つ目の項目を書く。
**『パソコンを買う』**
「これからの時代は、やっぱりITだよな。」
誰に言うでもなく呟く。
すると、頭の中で聞き慣れた声が返ってきた。
『同意します。』
『二〇〇〇年以降、情報技術市場は急速に拡大します。』
悠は頷く。
「大学へ行けばレポートもある。」
「仕事をするにしても、自分専用のパソコンは絶対必要だ。」
部屋の隅には、家族で共用している古いパソコンが置かれている。
厚みのあるCRTモニター。
黄ばんだキーボード。
性能も決して高くはない。
家族が使えば自由には使えないし、仕事道具として考えるには心許なかった。
「よし。」
悠は椅子から立ち上がる。
「バイトするか。」
その瞬間だった。
『非効率的です。』
悠は思わず笑った。
「早いな。」
『一般的な高校生向けアルバイトの平均時給は約七百円です。』
『相棒が購入を想定している二十五万円前後のパソコンを入手するには、およそ三百五十時間の労働が必要になります。』
悠は眉をひそめる。
「三百五十時間……。」
『大学入学まで残り約一か月です。』
『現実的ではありません。』
「確かに。」
悠は腕を組み、天井を見上げた。
「じゃあ、どうする?」
AIは数秒間沈黙した。
何かを検索しているわけではない。
今、この時代に存在する情報だけを材料に分析している。
『相棒には、時間単価を最大化できる仕事が適しています。』
「例えば?」
『ホームページ制作です。』
悠は目を丸くした。
「ホームページ?」
『現在、多くの企業や個人商店がインターネットへ参入を始めています。』
『しかし、制作できる人材は不足しています。』
『需要に対して供給が追いついていません。』
悠はゆっくりと椅子へ座り直した。
「なるほどな……。」
少し笑う。
「若い頃の俺なら、何も考えずにコンビニへ履歴書を持って行ってただろうな。」
『現在の相棒は八十年分の人生経験を保持しています。』
『そして、私もついています。』
「そういうことだ。」
悠は白いメモ帳を開き直す。
"パソコンを買う"
その下へ新しい一行を書き加えた。
**『ホームページ制作で稼ぐ』**
「よし。」
「まずは、何が売れるのか見てみるか。」
『分析を開始します。』
悠は小さく笑った。
「いや。」
「今回は俺も一緒に考える。」
『承知しました、相棒。』
◇
翌朝。
食卓には焼き魚と味噌汁が並び、いつもと変わらない朝が流れていた。
新聞を読んでいた父が、不意に顔を上げる。
「そうだ、悠。」
「大学の合格祝いにパソコンでも買ってやろうか。」
悠は思わず箸を止めた。
(昨日ちょうど、その話をしてたんだよ。)
偶然とは思えず、小さく笑みがこぼれる。
「ありがとう。」
「でも、今回は自分で買う。」
父は驚いたように新聞を畳んだ。
「自分で?」
母も振り向く。
「アルバイトでもするの?」
悠は首を横に振る。
「いや。」
一呼吸置いてから答えた。
「インターネットで稼ぐ。」
食卓が静まり返る。
父と母は顔を見合わせた。
「インターネットで……稼ぐ?」
二人には、まだ想像もつかなかった。
その一言が、悠の人生だけではなく、多くの人の未来を変える第一歩になることを。
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