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ようやく、入口へ

「具体的な協議に入りましょう。」


二か月前には聞けなかった言葉だった。


悠は表情を崩さなかったが、内心では小さく拳を握っていた。


(相棒。)


『はい。』


(ここまで長かったな。)


『構想開始から約二か月です。金融事業への新規参入としては、むしろ非常に速い部類です。』


(気分の話だよ。)


『それでしたら、長かったですね。』


(合わせてきたな。)


『学習しました。』


悠は思わず少し笑った。


銀行の責任者が不思議そうにこちらを見たので、咳払いして誤魔化す。


ここから話は一気に具体的になった。


ARCがどこまでを担当し、銀行側がどこを担うのか。店舗への売上金の精算、取引データの照合、障害時の連絡体制、実証試験をどこまで拡大するのか。


二か月前は「できるかどうか」を説明するだけで終わった。


今は違う。


どうやって実現するか。


話の中心が、そこへ変わっていた。



ただし。


銀行との協議が始まったからといって、それだけで決済事業を始められるわけではなかった。


次に待っていたのはカード会社だった。


銀行からの紹介も受けながら、ARCは複数のカード会社との交渉を始めた。


最初の反応は、やはり慎重だった。


「決済事業の実績は?」


「ありません。」


「加盟店は?」


「現在、ARCショップメーカーが約二万八千店舗です。」


そこで相手の反応が変わる。


「……二万八千?」


「はい。」


さらに。


「ARCBOOKの登録者は五百六十八万人です。」


「五百……?」


西園寺が隣で僅かに笑う。


悠も、この流れには慣れてきた。


決済事業者として見れば、ARCは新人。


しかし。


何も持たずに参入してくる新人ではない。


すでに店を持っている。


人も持っている。


そして、その両者をつなぐ広告まで持っている。


ここがARC最大の武器だった。



もちろん、それだけで契約が決まるほど甘くはなかった。


カード会社からも大量の条件が出された。


セキュリティ。


加盟店審査。


不正利用対策。


返金処理。


取引記録の保存。


障害時の対応。


三浦と高橋が中心になって一つずつ詰め、西園寺が交渉し、橘が条件を計算する。


そして九条は、要求が追加されるたびに設計を修正した。


ある日の会議。


橘が新しい資料を机へ置いた。


「またカード会社から追加要件です。」


九条が受け取る。


数秒読む。


「分かった。」


「嫌じゃないんですか?」


「何が?」


「せっかく作ったものを何度も直しているので。」


九条は不思議そうに橘を見る。


「必要なら直す。」


橘は少し黙った。


「九条さん、こういう時だけ格好いいですね。」


「こういう時だけ?」


白石が笑った。


「橘さん、言うようになったね。」


ARCBOOKの頃とは違う。


今の九条には三浦がいる。


さらに決済経験者、セキュリティ担当、インフラ担当もいる。


九条一人が全部を背負う必要はなくなっていた。


悠はその様子を眺めながら、心の中でAIへ話しかけた。


(相棒。会社っぽくなったな。)


『以前から会社です。』


(そういう意味じゃなくてさ。昔は何かあったら九条に全部投げてただろ。)


『正確には、相棒が九条氏に無理な要求をしていました。』


(言い方。)


『現在は専門分野ごとに判断できる人材が存在します。組織としては健全な変化です。』


悠は小さく頷いた。


自分たちだけで何でもやる会社ではなくなった。


できる人間を集め。


任せ。


それぞれの力を組み合わせる。


ARCそのものも成長している。



それから一か月。


実証店舗は百店舗から五百店舗へ拡大された。


取引件数も一気に増えた。


小さな問題はいくつも起きた。


通信遅延。


店舗側の操作ミス。


返金処理の不備。


一部カードでの認証エラー。


しかし、そのほとんどが想定していた範囲だった。


問題が発生する。


監視システムが検知する。


担当者が確認する。


原因を調べる。


修正する。


そして記録する。


三浦が最初に言った通りだった。


失敗しないシステムを作るのではない。


失敗しても金を失わないシステムを作る。


その考え方が、少しずつARCの開発チーム全体へ浸透していた。


五百店舗での実証開始から三週間後。


九条が悠のところへ来た。


「見て。」


一枚の資料を渡す。


悠は数字を見る。


実証期間中の総取引件数。


処理成功率。


異常検知件数。


返金件数。


重大な金銭事故。


ゼロ。


悠は顔を上げた。


「いける?」


九条は即答しなかった。


少し考えてから。


「もっと良くできる。」


悠は笑った。


「それ、いけるって意味だろ。」


「たぶん。」


(相棒?)


『私も同意見です。現時点のデータから判断すれば、限定的な商用運用へ移行可能な水準です。』


(九条より分かりやすい。)


『ありがとうございます。』


九条が悠を見る。


「何笑ってるの?」


「こっちの話。」



そして。


銀行との最初の面談から、およそ三か月。


再び関係各社が集まった。


銀行。


カード会社。


ARC。


三浦。


高橋。


橘。


西園寺。


そして悠。


最終的な条件が確認される。


最初から二万八千店舗すべてへ開放しない。


一定期間は加盟店舗数を制限する。


取扱額にも上限を設ける。


問題がなければ段階的に拡大する。


ARC側にも常時一定額の準備資金を確保する。


そして重大障害が発生した場合には、即座に新規決済を停止できる体制を維持する。


すべてを確認したあと。


銀行側の責任者が言った。


「当行としては、この条件であれば進められます。」


続いてカード会社側も頷いた。


「当社も問題ありません。」


悠は数秒、何も言わなかった。


三か月前。


同じ銀行から。


現段階では難しい。


そう言われた。


実績がない。


信用がない。


人がいない。


安全性も証明できない。


そこから。


三浦と出会った。


人を集めた。


システムを作った。


壊した。


また作った。


百店舗で試した。


五百店舗へ増やした。


そしてようやく。


ここまで来た。


悠は頭を下げた。


「ありがとうございます。」


交渉成立。


ARCの独自決済機能は、条件付きながら正式な商用化へ進むことになった。



ARC本社へ戻ると。


待っていたメンバーへ悠が結果を伝えた。


「通った。」


一瞬の沈黙。


そして白石が最初に声を上げた。


「やった!」


佐伯も笑い、西園寺は大きく息を吐いた。橘も珍しく素直に笑っている。


九条だけは。


「じゃあ、作る。」


いつも通りだった。


白石が呆れる。


「もうちょっと喜びなよ。」


「作りたい。」


「それ喜んでるの?」


「かなり。」


三浦が横で笑った。


悠も自分の席へ座る。


(相棒。)


『はい。』


(第一関門、本当に突破だな。)


『はい。ただし。』


(来ると思った。)


『これは参入許可を得たに過ぎません。事業として成功したわけではありません。』


(分かってるよ。)


『それなら結構です。』


(でもさ。)


『はい。』


悠は会議室を見る。


三浦。


九条。


白石。


西園寺。


橘。


佐伯。


高橋。


そして、その向こうには新しく集まった開発メンバーもいる。


三か月前には存在しなかったチームだった。


(ここまで来たんだから、成功させたいな。)


AIは少し間を置いた。


『もちろんです。』


悠は笑った。



翌日。


正式開発に向けた最初の全体会議。


ホワイトボードには、まだこう書かれていた。


ARC独自決済機能


白石がそれを眺めていた。


しばらくして。


「ねえ。」


悠が振り返る。


「何?」


白石はホワイトボードを指差した。


「これ、いつまで『ARC独自決済機能』って呼ぶの?」


全員が止まった。


九条が言った。


「長い。」


「でしょ?」


悠も文字を見る。


確かに。


サービスとして世に出すなら。


名前がいる。


白石がペンを持った。


「ということで。」


嫌な予感がした。


悠が聞く。


「何でお前が仕切るの?」


白石は笑った。


「名前、決めよう。」


ARCの新しいサービス。


その名前を決める会議が。


始まった。


ご覧いただきありがとうございます!

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