ようやく、入口へ
「具体的な協議に入りましょう。」
二か月前には聞けなかった言葉だった。
悠は表情を崩さなかったが、内心では小さく拳を握っていた。
(相棒。)
『はい。』
(ここまで長かったな。)
『構想開始から約二か月です。金融事業への新規参入としては、むしろ非常に速い部類です。』
(気分の話だよ。)
『それでしたら、長かったですね。』
(合わせてきたな。)
『学習しました。』
悠は思わず少し笑った。
銀行の責任者が不思議そうにこちらを見たので、咳払いして誤魔化す。
ここから話は一気に具体的になった。
ARCがどこまでを担当し、銀行側がどこを担うのか。店舗への売上金の精算、取引データの照合、障害時の連絡体制、実証試験をどこまで拡大するのか。
二か月前は「できるかどうか」を説明するだけで終わった。
今は違う。
どうやって実現するか。
話の中心が、そこへ変わっていた。
◇
ただし。
銀行との協議が始まったからといって、それだけで決済事業を始められるわけではなかった。
次に待っていたのはカード会社だった。
銀行からの紹介も受けながら、ARCは複数のカード会社との交渉を始めた。
最初の反応は、やはり慎重だった。
「決済事業の実績は?」
「ありません。」
「加盟店は?」
「現在、ARCショップメーカーが約二万八千店舗です。」
そこで相手の反応が変わる。
「……二万八千?」
「はい。」
さらに。
「ARCBOOKの登録者は五百六十八万人です。」
「五百……?」
西園寺が隣で僅かに笑う。
悠も、この流れには慣れてきた。
決済事業者として見れば、ARCは新人。
しかし。
何も持たずに参入してくる新人ではない。
すでに店を持っている。
人も持っている。
そして、その両者をつなぐ広告まで持っている。
ここがARC最大の武器だった。
◇
もちろん、それだけで契約が決まるほど甘くはなかった。
カード会社からも大量の条件が出された。
セキュリティ。
加盟店審査。
不正利用対策。
返金処理。
取引記録の保存。
障害時の対応。
三浦と高橋が中心になって一つずつ詰め、西園寺が交渉し、橘が条件を計算する。
そして九条は、要求が追加されるたびに設計を修正した。
ある日の会議。
橘が新しい資料を机へ置いた。
「またカード会社から追加要件です。」
九条が受け取る。
数秒読む。
「分かった。」
「嫌じゃないんですか?」
「何が?」
「せっかく作ったものを何度も直しているので。」
九条は不思議そうに橘を見る。
「必要なら直す。」
橘は少し黙った。
「九条さん、こういう時だけ格好いいですね。」
「こういう時だけ?」
白石が笑った。
「橘さん、言うようになったね。」
ARCBOOKの頃とは違う。
今の九条には三浦がいる。
さらに決済経験者、セキュリティ担当、インフラ担当もいる。
九条一人が全部を背負う必要はなくなっていた。
悠はその様子を眺めながら、心の中でAIへ話しかけた。
(相棒。会社っぽくなったな。)
『以前から会社です。』
(そういう意味じゃなくてさ。昔は何かあったら九条に全部投げてただろ。)
『正確には、相棒が九条氏に無理な要求をしていました。』
(言い方。)
『現在は専門分野ごとに判断できる人材が存在します。組織としては健全な変化です。』
悠は小さく頷いた。
自分たちだけで何でもやる会社ではなくなった。
できる人間を集め。
任せ。
それぞれの力を組み合わせる。
ARCそのものも成長している。
◇
それから一か月。
実証店舗は百店舗から五百店舗へ拡大された。
取引件数も一気に増えた。
小さな問題はいくつも起きた。
通信遅延。
店舗側の操作ミス。
返金処理の不備。
一部カードでの認証エラー。
しかし、そのほとんどが想定していた範囲だった。
問題が発生する。
監視システムが検知する。
担当者が確認する。
原因を調べる。
修正する。
そして記録する。
三浦が最初に言った通りだった。
失敗しないシステムを作るのではない。
失敗しても金を失わないシステムを作る。
その考え方が、少しずつARCの開発チーム全体へ浸透していた。
五百店舗での実証開始から三週間後。
九条が悠のところへ来た。
「見て。」
一枚の資料を渡す。
悠は数字を見る。
実証期間中の総取引件数。
処理成功率。
異常検知件数。
返金件数。
重大な金銭事故。
ゼロ。
悠は顔を上げた。
「いける?」
九条は即答しなかった。
少し考えてから。
「もっと良くできる。」
悠は笑った。
「それ、いけるって意味だろ。」
「たぶん。」
(相棒?)
『私も同意見です。現時点のデータから判断すれば、限定的な商用運用へ移行可能な水準です。』
(九条より分かりやすい。)
『ありがとうございます。』
九条が悠を見る。
「何笑ってるの?」
「こっちの話。」
◇
そして。
銀行との最初の面談から、およそ三か月。
再び関係各社が集まった。
銀行。
カード会社。
ARC。
三浦。
高橋。
橘。
西園寺。
そして悠。
最終的な条件が確認される。
最初から二万八千店舗すべてへ開放しない。
一定期間は加盟店舗数を制限する。
取扱額にも上限を設ける。
問題がなければ段階的に拡大する。
ARC側にも常時一定額の準備資金を確保する。
そして重大障害が発生した場合には、即座に新規決済を停止できる体制を維持する。
すべてを確認したあと。
銀行側の責任者が言った。
「当行としては、この条件であれば進められます。」
続いてカード会社側も頷いた。
「当社も問題ありません。」
悠は数秒、何も言わなかった。
三か月前。
同じ銀行から。
現段階では難しい。
そう言われた。
実績がない。
信用がない。
人がいない。
安全性も証明できない。
そこから。
三浦と出会った。
人を集めた。
システムを作った。
壊した。
また作った。
百店舗で試した。
五百店舗へ増やした。
そしてようやく。
ここまで来た。
悠は頭を下げた。
「ありがとうございます。」
交渉成立。
ARCの独自決済機能は、条件付きながら正式な商用化へ進むことになった。
◇
ARC本社へ戻ると。
待っていたメンバーへ悠が結果を伝えた。
「通った。」
一瞬の沈黙。
そして白石が最初に声を上げた。
「やった!」
佐伯も笑い、西園寺は大きく息を吐いた。橘も珍しく素直に笑っている。
九条だけは。
「じゃあ、作る。」
いつも通りだった。
白石が呆れる。
「もうちょっと喜びなよ。」
「作りたい。」
「それ喜んでるの?」
「かなり。」
三浦が横で笑った。
悠も自分の席へ座る。
(相棒。)
『はい。』
(第一関門、本当に突破だな。)
『はい。ただし。』
(来ると思った。)
『これは参入許可を得たに過ぎません。事業として成功したわけではありません。』
(分かってるよ。)
『それなら結構です。』
(でもさ。)
『はい。』
悠は会議室を見る。
三浦。
九条。
白石。
西園寺。
橘。
佐伯。
高橋。
そして、その向こうには新しく集まった開発メンバーもいる。
三か月前には存在しなかったチームだった。
(ここまで来たんだから、成功させたいな。)
AIは少し間を置いた。
『もちろんです。』
悠は笑った。
◇
翌日。
正式開発に向けた最初の全体会議。
ホワイトボードには、まだこう書かれていた。
ARC独自決済機能
白石がそれを眺めていた。
しばらくして。
「ねえ。」
悠が振り返る。
「何?」
白石はホワイトボードを指差した。
「これ、いつまで『ARC独自決済機能』って呼ぶの?」
全員が止まった。
九条が言った。
「長い。」
「でしょ?」
悠も文字を見る。
確かに。
サービスとして世に出すなら。
名前がいる。
白石がペンを持った。
「ということで。」
嫌な予感がした。
悠が聞く。
「何でお前が仕切るの?」
白石は笑った。
「名前、決めよう。」
ARCの新しいサービス。
その名前を決める会議が。
始まった。
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