名前を決めよう
「名前、決めよう。」
白石がそう言った瞬間、悠は少し嫌な予感がした。
ARCでは新しいサービスを作るたびに、この時間がやってくる。
ARCショップメーカー。
ARCBOOK。
今では当たり前のように呼んでいる名前も、最初から存在していたわけではない。
そして今回も、ホワイトボードには味も素っ気もない文字が残っている。
ARC独自決済機能。
西園寺がそれを見て苦笑した。
「確かに、このままサービス開始は無理ですね。」
「分かりやすいけどな。」
悠が言うと、白石が即座に否定した。
「長いし、名前じゃない。」
九条も頷く。
「長い。」
「お前まで。」
橘が資料を閉じた。
「私も正式名称は必要だと思います。銀行やカード会社との資料も、いつまでも『ARC独自決済機能』では困ります。」
全員の視線が悠へ向いた。
「……俺が決めるの?」
白石が笑った。
「社長でしょ?」
悠は腕を組んだ。
(相棒、何かある?)
『候補の提示は可能です。』
(お、頼む。)
『ARC PAYMENT SYSTEM。ARC PAYMENT SERVICE。ARC ONLINE PAYMENT――』
(待て待て。)
『はい。』
(お前も意外とそのままだな。)
『機能を正確に表現することを優先しました。』
(白石に怒られるぞ。)
『では、相棒に任せます。』
(逃げたな?)
『適材適所です。』
悠は小さく笑った。
◇
そこから、思いついた名前を片っ端から出すことになった。
白石がホワイトボードの前に立ち、候補を書いていく。
西園寺は利用者に覚えてもらいやすい名前。
橘は企業相手でも使いやすい名前。
高橋は商標や既存サービスとの衝突を確認しやすい名前。
それぞれ見るところが違う。
そして九条は。
「ARC決済。」
白石が振り返った。
「却下。」
「なんで?」
「そのまますぎる。」
「分かりやすい。」
「サービス名なんだから、もうちょっと格好よくしたいの。」
九条は少し考える。
「ARCお会計。」
「悪化した!」
会議室に笑いが起きた。
三浦まで笑っている。
悠が九条を見る。
「お前、絶対適当に言ってるだろ。」
「分かりやすい。」
「分かりやすければ何でもいいわけじゃないんだよ。」
「じゃあ悠が考えて。」
「俺?」
悠はホワイトボードを見る。
ARC。
決済。
支払い。
金。
買い物。
難しく考える必要はない気がした。
これから何百万人もの利用者が使うかもしれない。
店員も使う。
企業も使う。
誰でも一度聞けば覚えられる名前の方がいい。
そこで、一つ浮かんだ。
「PAY。」
白石が悠を見る。
「ペイ?」
「ああ。支払うって意味。そのままだけど。」
悠は立ち上がり、ホワイトボードへ二つの単語を書いた。
ARC PAY
白石が黙った。
西園寺も見る。
橘も見る。
九条が言った。
「短い。」
「そこ?」
「いいと思う。」
白石が何度か口にする。
「ARC PAY……ARC PAY……。」
そして頷いた。
「覚えやすい。」
西園寺も賛成した。
「何のサービスなのかも想像できますね。広告でも使いやすそうです。」
橘は少し考えてから言う。
「企業向けの資料に書いても違和感はありません。」
高橋だけは冷静だった。
「名称そのものは悪くありません。ただし、既存の商標や類似名称の調査は必要です。」
悠が頷く。
「そこは頼む。」
「もちろんです。」
白石がホワイトボードの『ARC独自決済機能』に大きな線を引いた。
その下に改めて書く。
ARC PAY
「じゃあ、仮決定。」
悠が文字を見る。
ARCBOOKの時もそうだった。
最初はただの文字。
だが、これから。
この名前を何万人。
何十万人。
何百万人が見ることになるかもしれない。
(相棒。)
『はい。』
(どう?)
『簡潔であり、機能も推測しやすい名称です。良いと思います。』
(珍しく素直だな。)
『相棒が褒められると疑う傾向があるため、今後は改善を検討します。』
(そのままでいい。)
『承知しました。』
悠は笑った。
こうして。
ARCの新しいサービスに。
初めて名前がついた。
ARC PAY。
◇
名前が決まると、開発は一気に加速した。
九条たちが決済基盤を作り込み、三浦と金融システム経験者が異常処理を徹底的に洗い出す。
白石は利用者側と店舗側の画面を作った。
ここでも重要視されたのは、簡単さだった。
商品を選ぶ。
購入画面へ進む。
支払い方法を選ぶ。
確認する。
完了。
利用者から見れば、それだけ。
その裏で銀行やカード会社、ARCの複数システムが動いていることなど、意識する必要はない。
白石は完成した画面を悠へ見せた。
「どう?」
悠は実際に操作する。
「簡単。」
「でしょ?」
「もっと色々入力すると思ってた。」
「必要なものは最初に登録するの。一度登録すれば、次からはできるだけ少ない操作で買えるようにしたい。」
悠の表情が変わった。
「それ、かなり大事かも。」
(相棒。)
『はい。購入までの操作が複雑になるほど、途中離脱が増加する可能性があります。』
(やっぱり。)
『ARCショップメーカー側にも利点があります。購入完了率が上昇すれば、店舗の売上増加につながります。』
悠は白石を見る。
「これ、店側にも説明しよう。」
「簡単に買えること?」
「ああ。ARC PAYを入れるメリットは、決済手段が一つ増えるだけじゃない。買いやすくなれば、店にも得がある。」
白石が笑った。
「じゃあ、もっと簡単にする。」
九条が遠くから言った。
「簡単にしすぎて安全性落とさないで。」
「分かってるよ!」
三浦が笑った。
技術。
金融。
デザイン。
商売。
少しずつ、全部が一つのサービスへまとまり始めていた。
◇
そして二か月後。
正式な商用開始へ向けた準備が整った。
ただし、最初から二万八千店舗すべてには開放しない。
銀行やカード会社との約束通り、段階的に増やす。
最初の募集。
三千店舗。
西園寺がARCショップメーカーの管理画面から、対象店舗へ案内を出した。
悠は数字を見ながら聞く。
「どれくらい来ると思う?」
「実証の時は百店舗募集で千七百件以上来ましたからね。三千なら埋まるとは思います。」
「何日?」
「一週間程度を想定しています。」
(相棒は?)
『過去の応募率をそのまま適用することは適切ではありません。今回は実証ではなく商用利用であり、手数料等の条件も異なります。』
(じゃあ予想は?)
『三千店舗への到達確率は高いと判断します。』
(そこは西園寺と同じか。)
『はい。』
午後一時。
募集開始。
最初の一時間。
百八十二店舗。
三時間。
四百九十一店舗。
西園寺が言った。
「悪くないですね。」
夕方六時。
九百三十七店舗。
白石が画面を見る。
「一日で千近いじゃん。」
悠も頷いた。
予想以上だった。
そして翌朝。
悠が出社すると、西園寺がすでに待っていた。
「社長。」
「おはよう。」
「これ。」
画面を見せる。
申請店舗数――二千四百八十一店舗。
悠の眠気が消えた。
「もう?」
「夜の間にも増え続けました。」
九条も画面を見る。
「今日埋まりそう。」
(相棒。)
『はい。』
(店を持ってるって、やっぱり強いな。)
『非常に大きな優位性です。通常、新規決済サービスは加盟店獲得そのものに相当な時間と費用を必要とします。ARCはその工程の一部を、すでに終えています。』
悠はその言葉を聞いて、少しだけ考えた。
ARCショップメーカー。
大学一年生の頃。
まだARCBOOKすら存在しなかった時代に作ったサービス。
あの頃は。
ただネットショップを作るための事業だった。
それが今。
二年後。
新しい事業を一気に広げる最大の武器になろうとしている。
午後二時十三分。
西園寺が声を上げた。
「三千、到達しました。」
募集開始から。
二十五時間十三分。
三千店舗。
予定していた初期枠が、すべて埋まった。
白石が笑う。
「一週間じゃなかった?」
西園寺も苦笑した。
「その予定だったんですけどね。」
悠は画面に並ぶ店舗名を眺めた。
三千店舗。
まだ。
ARCショップメーカー全体の一割ほどにすぎない。
その後ろには。
残り二万五千店舗がいる。
そしてARCBOOKには。
五百六十八万人。
(相棒。)
『はい。』
(始まるな。)
『はい。』
悠は小さく笑った。
ARC PAY。
いよいよ。
正式サービス開始の日を迎える。




