壊してから作る
一週間後。
三浦孝之は、本当にARCへやって来た。
外部顧問として週に数日。期間は三か月。
専用の席も用意されたが、初日の三浦が向かったのは自分の机ではなかった。
「九条さん。」
「何?」
「設計を見せてください。」
「これ。」
九条が分厚い資料を渡す。
三浦はその場で読み始めた。
十分。
二十分。
三十分。
ページをめくる音だけが続く。
近くでは悠と白石も仕事をしていたが、白石は何度も二人の方を気にしていた。
「ねえ。」
「何?」
「怖くない?」
「何が?」
「あそこ。」
九条は三浦の正面に座ったまま、ずっと無言で待っている。
「先生に答案返される生徒みたい。」
「九条が?」
「うん。」
悠は少し想像した。
「似合わないな。」
「でしょ?」
その瞬間。
三浦が資料を閉じた。
九条が聞く。
「どう?」
三浦は答えた。
「作り直しましょう。」
白石が吹き出した。
九条は無表情のままだった。
「全部?」
「全部ではありません。基本的な構成は悪くない。ただ、考え方を変えた方がいい。」
九条の目が少しだけ輝いた。
「どこ?」
落ち込むどころか、完全に興味を持っていた。
三浦は立ち上がった。
「まず、これです。」
ホワイトボードに一つの言葉を書く。
成功
「今の設計は、決済が正常に進むことを中心に作られています。」
九条が頷く。
「普通はそう。」
「普通のサービスなら、それでもいい。」
三浦は『成功』の横に、大きく別の言葉を書いた。
失敗
「金融システムは、こちらから考えます。」
九条が止まった。
◇
三浦はホワイトボードへ次々に状況を書いていった。
利用者が購入ボタンを押す。
ARCから外部へ決済要求を送る。
カード会社で処理される。
結果がARCへ返ってくる。
注文を確定する。
正常なら何も難しくない。
問題は、その途中で何かが壊れた時だった。
「決済要求を送った直後にARCのサーバーが落ちたら?」
九条が答える。
「復旧後に状態を確認する。」
「どこへ?」
「外部。」
「外部側も障害中なら?」
九条が少し考える。
「待つ。」
「その間、利用者には何と表示する?」
九条が黙る。
三浦は続けた。
「では、外部では決済成功。しかしARCが成功通知を受け取る前に通信が切れた場合は?」
「照合する。」
「いつ?」
「復旧後。」
「一分後? 一時間後? 翌日?」
九条の表情が変わっていく。
三浦はさらに続けた。
「利用者が待ちきれず、もう一度購入ボタンを押したら?」
「二重決済を防ぐ。」
「どうやって?」
九条はホワイトボードへ近づいた。
「取引ごとに識別子を持たせる。」
「外部側にも?」
「必要。」
「では、外部側がその方式に対応していなければ?」
九条が別の線を引く。
「ARC側で状態を保持する。」
「ARC側のデータベースが壊れたら?」
「複製する。」
「同時に壊れたら?」
「別拠点。」
三浦が初めて笑った。
「そうやって考えます。」
白石が小声で悠に言った。
「終わらないじゃん。」
悠も小声で返す。
「たぶん、終わらせないのが仕事なんだろ。」
◇
午後になっても二人は続けていた。
いつの間にか、ホワイトボードは文字と矢印で埋め尽くされていた。
正常処理より。
異常処理の方が多い。
白石がそれを見て呆れる。
「決済一回するだけだよね?」
三浦が答えた。
「利用者から見れば。」
「裏では?」
「失敗する可能性を全部考えます。」
「全部?」
「考えられる限り。」
白石はホワイトボードを見る。
「私、現金でいい気がしてきた。」
悠が笑った。
だが九条は笑っていなかった。
夢中だった。
「三浦さん。」
「はい。」
「これ。」
九条が一つの処理を指差す。
「外部から結果が返らなかった時、ARC側で成功か失敗か決めない方がいい?」
三浦の表情が変わった。
「なぜ?」
「分からないから。」
九条は新しい状態を書いた。
未確定
「成功か失敗か分からないなら、勝手にどっちかにしない。未確定のまま残して、あとで照合する。」
三浦は数秒、その文字を見る。
「いいですね。」
九条がさらに書き始める。
「注文側も同じ状態を持つ。決済と注文を無理に一回で終わらせない。」
「そうです。」
「じゃあ――」
そこから。
今度は九条が止まらなくなった。
三浦が問題を出す。
九条が仕組みを作る。
三浦が穴を見つける。
九条が塞ぐ。
また三浦が壊す。
また九条が作る。
悠はその様子を眺めながら、少し笑った。
今までの九条は、ARCで最も技術に詳しい人間だった。
誰かに教わる場面など、ほとんどなかった。
だが今。
九条は楽しそうだった。
自分の知らない世界がある。
そして、その世界を知っている人間が目の前にいる。
それだけで十分らしい。
◇
夕方。
佐伯が会議室へ入ってきた。
「三浦さん、少しいいですか?」
「はい。」
佐伯は数枚の履歴書を机へ置いた。
「三浦さんからご紹介いただいた方々ですが、三名が面談を受けてくださることになりました。」
悠が反応した。
「もう?」
「はい。」
一人目。
四十六歳。
カード会社系システム企業で、決済基盤の開発経験十四年。
二人目。
三十九歳。
金融系セキュリティ会社で、不正アクセス対策と認証システムを担当。
三人目。
四十三歳。
大手金融機関のシステム運用部門で、二十四時間監視と障害対応を経験。
九条が三枚を見る。
「全員欲しい。」
橘がちょうど会議室へ入ってきた。
「九条さん、まだ面接もしていませんよ。」
「経歴いい。」
「だからといって全員採用ではありません。」
九条が橘を見る。
「必要。」
「人件費というものがありまして。」
悠が笑う。
「まあ、会ってから決めよう。」
橘は悠を見る。
「社長まで九条さん側に行かないでください。」
「まだ何も言ってないだろ。」
「顔が採用する顔です。」
「どんな顔だよ。」
久しぶりに会議室に笑いが起きた。
三浦はその様子を黙って見ていた。
◇
数日後。
三人との面談が行われた。
今回は以前とは少し違った。
佐伯だけではない。
三浦が同席した。
候補者たちはARCを知らないわけではなかった。
だが、やはり不安はある。
若い会社。
学生社長。
金融事業の実績なし。
そこで三浦が言った。
「私も三か月だけ、この会社を見ることにしました。」
それだけだった。
しかし。
金融システムの世界で二十七年働いてきた三浦が参加している。
その事実は、悠が何十分説明するより効いた。
最終的に。
三人のうち二人がARCへの入社を前向きに検討。
残る一人も、外部契約なら参加できると答えた。
佐伯が会社へ戻るなり言った。
「なるほど。」
悠が聞く。
「何が?」
「信用を借りるって、こういうことなんですね。」
悠も気づいた。
ARCにはない。
二十年。
三十年。
金融業界で積み重ねた実績。
それを。
三浦が持っている。
ARC自身がまだ持っていない信用を、経験者から借りる。
それによって。
また次の経験者が集まる。
(相棒。)
『はい。』
(これか。)
『はい。』
AIが以前言った言葉。
時間をかけて得るはずだった信用を。
別の信用で補う。
その意味が。
ようやく分かった。
◇
一か月後。
ARCの社員数は百人を超えた。
決済開発の専任チームも形になり始めていた。
金融システム経験者。
セキュリティ担当。
インフラ担当。
データベース担当。
そして。
九条。
その中心に三浦がいる。
悠は新しく作られた開発チームを眺めた。
「これならいけそうだな。」
しかし。
三浦は首を振った。
「まだです。」
悠が振り返る。
「まだ?」
「今いるのは、作る人間です。」
「うん。」
「神谷社長。」
三浦は壁に貼られた銀行からの条件を指差した。
安全性。
運用体制。
責任能力。
実証。
一つ目。
安全性。
ようやく、その形が見え始めた。
三浦はその下。
二つ目を指差した。
運用体制。
「決済は、完成したら終わりではありません。」
悠は黙って聞く。
「夜中の二時に障害が起きたら?」
「対応する。」
「元日の朝なら?」
「対応する。」
「ゴールデンウィークでも?」
「……対応する。」
三浦は頷いた。
「誰が?」
悠が止まった。
「九条?」
九条が即答した。
「嫌。」
悠が九条を見る。
「そこは頑張れよ。」
「寝たい。」
三浦が少し笑った。
「そういうことです。」
そして、ホワイトボードに大きく書いた。
24時間365日。
「システムを作るだけでは足りません。」
三浦は悠を見る。
「次は、これを守り続ける会社を作ります。」
悠はその文字を見上げた。
決済システムを作る。
その意味を。
自分たちはまだ半分も理解していなかった。
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