九条が欲しがった男
三日後。
ARC本社の会議室に、一人の男が座っていた。
五十二歳。
名前は三浦孝之。
濃紺のスーツに、少し白髪の混じった短い髪。派手さはなく、第一印象だけならどこにでもいる会社員に見える。
だが、その経歴はまったく普通ではなかった。
金融システム開発、二十七年。
銀行の勘定系システムから始まり、カード決済、大規模課金システム、金融機関とのシステム接続、セキュリティ設計、障害対応まで経験している。
大手通信会社の課金システムにも関わり、数年前に独立。現在は企業向けに金融・決済システムの設計支援を行っている。
そして何より。
九条が経歴書を見て、
「会いたい。」
と即答した人物だった。
会議室には悠、九条、佐伯、高橋がいた。
三浦は渡された資料を読み終えると、静かに机へ置いた。
「面白いですね。」
悠が少し笑う。
「ありがとうございます。」
「褒めてはいません。」
「違うんですか?」
「危なっかしくて面白い、と言いました。」
高橋が僅かに笑った。
悠は苦笑する。
「やっぱり、そう見えます?」
「見えますね。」
三浦はもう一度資料を見る。
「二万八千店舗のネットショップ。五百万人を超える利用者。そして広告。この状態から決済へ進みたいという考え自体は分かります。むしろ自然でしょう。」
そこで悠を見る。
「ただ、決済を少し甘く見ている。」
悠の表情が変わった。
銀行でも似たようなことを言われた。
「どの辺りですか?」
「全部です。」
「全部?」
「はい。」
三浦は平然と答えた。
◇
三浦は立ち上がると、ホワイトボードを借りた。
「例えば、一万人が同時に買い物をしたとします。」
利用者。
店舗。
ARC。
金融機関。
カード会社。
それぞれを書き、線でつなぐ。
「九千九百九十九件、正常に処理できました。一件だけ失敗しました。」
悠は頷く。
「一万件中、一件。」
「成功率九九・九九パーセントです。」
白石がいれば十分高いと言いそうな数字だった。
だが三浦は続けた。
「では、一日百万件なら?」
悠が少し考える。
「百件。」
「一か月なら三千件。」
会議室が静かになった。
三浦はホワイトボードの数字を丸で囲んだ。
「普通のWebサービスなら九九・九九パーセントは優秀と言われるかもしれない。しかし金を扱うシステムでは、残った〇・〇一パーセントの中に何が起きるかを考えなければならない。」
決済したのに注文がない。
注文されたのに決済されていない。
二重に請求された。
返金したのに戻っていない。
誰の金か分からなくなった。
一つ一つ書き加えていく。
「利用者にとって、自分の一万円が消えた時に『九九・九九パーセント正常でした』と言われても関係ありません。」
悠は黙って聞いていた。
「その人にとっては。」
三浦が言った。
「百パーセント事故なんです。」
九条だけが、ホワイトボードをじっと見ていた。
◇
三浦は九条へ視線を向けた。
「あなたが九条さんですね。」
「はい。」
「ARCBOOKの基盤を作った?」
「一人じゃない。」
「当然です。ただ、中心だったと聞いています。」
九条は頷いた。
三浦が聞く。
「決済システムを作った経験は?」
「ない。」
「金融機関との接続は?」
「ない。」
「カード決済は?」
「ない。」
「不正取引検知は?」
「ない。」
佐伯が少し心配そうに九条を見る。
だが九条はまったく気にしていなかった。
三浦が続ける。
「では、なぜ自分に作れると思う?」
九条は少し考えた。
「作れるとは言ってない。」
今度は三浦が止まった。
「作るだけならできる。でも、人の金を任せられるものにするのは別。」
悠はその言葉を覚えていた。
数日前、九条が悠に言った言葉そのものだった。
九条は三浦を見る。
「だから経験がある人が必要。」
「なるほど。」
「分からないものを、分かったふりして作りたくない。」
三浦はしばらく九条を見ていた。
そして初めて、ほんの少しだけ笑った。
「それなら、まだマシですね。」
九条が聞く。
「教えてくれる?」
「まだ引き受けるとは言っていません。」
「じゃあ、何で来たの?」
三浦が一瞬言葉に詰まった。
悠は思わず笑った。
「九条、それ面接で言うことじゃない。」
「でも来てる。」
「まあ、そうだけど。」
三浦も呆れたように息を吐いた。
「大手通信会社の役員から、面白い会社があると言われたからです。それに、ARCBOOKは知っています。」
「使ってます?」
悠が聞く。
「妻が。」
「三浦さんは?」
「使っていません。」
「そうですか……。」
「なぜ残念そうなんです?」
「いや、別に。」
少しだけ空気が和らいだ。
◇
その後、話は二時間以上続いた。
三浦が聞いたのは待遇よりも、ARCが何を作ろうとしているのかだった。
なぜ決済なのか。
どこまでやるのか。
誰を対象にするのか。
何件の取引を想定するのか。
事故が起きた時、誰が責任を取るのか。
そして最後に。
「神谷社長。」
「はい。」
「この事業で、何をしたいんです?」
悠は少し考えた。
手数料を稼ぎたい。
それもある。
ARCの売上を増やしたい。
もちろんそれもある。
だが、それだけではなかった。
「今のARCには店があります。そこへ人を連れていく場所もあるし、広告もある。でも買い物をする最後のところだけ、外に任せている。」
三浦は黙って聞いている。
「俺は、それをARCの中につなぎたい。」
悠は資料に描かれた事業図を指差した。
「今はまだ、それぞれ別のサービスです。でも全部つながったら、ARCは今よりずっと強くなる。」
「決済会社を作りたいわけではない?」
「それだけなら、たぶんやりません。」
悠は少し笑った。
「俺が欲しいのは、決済そのものじゃなくて、これをつなぐ最後の一本です。」
三浦の目が、事業図へ向いた。
ARCBOOK。
広告。
ショップメーカー。
その間を走るいくつもの矢印。
まだ決済だけが空白だった。
三浦はしばらくその図を眺めていた。
「……なるほど。」
◇
面談が終わる頃には、外は暗くなっていた。
三浦が立ち上がる。
「今日はありがとうございました。」
悠も立つ。
「こちらこそ。」
「話は面白かったです。」
「では――」
「ただし。」
悠の言葉を三浦が止めた。
「私はARCへ入社するつもりはありません。」
佐伯の表情が僅かに変わった。
悠も少し驚いた。
「理由を聞いても?」
「私は今の働き方が気に入っています。それに五十二歳です。今さら若い会社へ入って社員として出世したいとも思いません。」
悠は頷いた。
無理に誘っても仕方がない。
「分かりました。」
三浦はそこで鞄を持った。
しかし。
帰らなかった。
「ただ。」
今度は九条を見る。
「この計画には興味があります。」
九条が顔を上げる。
「ですから、条件があります。」
悠も三浦を見る。
「聞かせてください。」
「外部顧問としてなら参加します。」
佐伯の表情が変わった。
三浦は続ける。
「設計段階から入り、金融システムとして必要な条件を私が提示する。銀行やカード会社との接続についても支援します。」
悠にとっては十分すぎる提案だった。
だが、三浦の話はまだ終わっていなかった。
「そして、私一人では作れません。」
「もちろんです。」
「知り合いに何人かいます。」
佐伯が反応した。
「決済経験者ですか?」
「決済だけではありません。セキュリティ、金融ネットワーク、運用監視。今の会社に少し疲れている人間もいる。」
悠と佐伯が顔を見合わせた。
数週間探しても見つからなかった人材。
それを三浦は。
持っている。
「ただし。」
三浦が悠を見る。
「声をかけるかどうかは、ARCをもう少し見てから決めます。」
悠は笑った。
「分かりました。」
「随分あっさりですね。」
「信用してない会社に知り合いを紹介しろって言っても無理でしょう。」
三浦が少し目を細める。
悠は続けた。
「なら、信用してもらえばいい。」
数秒。
三浦は何も言わなかった。
やがて手を差し出した。
「三か月。」
悠がその手を見る。
「三か月?」
「三か月だけ、顧問として付き合います。その間に、私が人を紹介してもいい会社か判断します。」
悠も手を出した。
「十分です。」
握手を交わした。
◇
三浦が帰ったあと。
九条はまだホワイトボードを見ていた。
悠が隣へ立つ。
「どうだった?」
「すごい。」
珍しく即答だった。
「そんなに?」
「俺が考えてなかったこと、いっぱいあった。」
悠は少し笑う。
「よかったな。」
「うん。」
そして九条は三浦が残していったメモを見る。
決済状態管理。
照合。
監査ログ。
障害復旧。
不正検知。
外部接続。
それまで九条が描いていた設計図に、まったく新しい視点が加わっていた。
九条が呟く。
「作りたい。」
悠はその横顔を見た。
さっきまでの慎重な表情とは違う。
知らないものに出会った時の九条だった。
悠は笑った。
「じゃあ作ろう。」
九条が頷く。
ただし。
まだ足りない。
銀行から求められた安全性。
運用体制。
責任能力。
実証。
ようやく、その最初の一つへ手を伸ばしただけだった。
それでも。
ARCは確実に前へ進み始めていた。
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