人の金
翌日。
ARC本社の会議室には、昨日とは違う資料が山積みになっていた。
決済代行会社。クレジットカード。銀行振込。加盟店契約。収納代行。不正利用。個人情報。セキュリティ。
悠は一冊目の資料を読み、二冊目を開き、三冊目の途中で静かに閉じた。
「……面倒くさいな。」
正面に座っていた高橋が即座に答えた。
「昨日、決済をやると言った人の発言とは思えませんね。」
「いや、決済ってもっと単純だと思ってたんだよ。客が払う、店に入る、ARCが間に入って手数料をもらう。それだけかと。」
「それだけで済むなら、誰でもやっています。」
高橋は一枚の資料を悠の前へ置いた。
今回、悠たちが考えているのは銀行そのものを作ることではない。ARCショップメーカーを利用する店舗に対し、カード会社や金融機関と接続したオンライン決済の仕組みをARC側でまとめて提供する。
利用店舗が一社ずつ複数の決済手段を準備するのではなく、ARCの仕組みを導入すれば必要な決済を利用できるようにする。
利用者にとっては簡単に支払える。
店舗にとっては導入が楽になる。
ARCは決済額に応じて手数料を受け取る。
事業モデルだけを見れば分かりやすかった。
問題は、その裏側だった。
「まず、カード会社や金融機関との契約が必要です。店舗の審査もあります。売上金の精算方法も決めなければならない。不正利用が起きた場合の責任分担、返金、取り消し、個人情報の管理、利用規約、加盟店管理。まだありますよ。」
「まだあるの?」
「あります。」
「もういい。」
「よくありません。」
白石が横で笑った。
「昨日まであんなに格好よく『金の流れだ』って言ってたのに。」
「金って面倒なんだよ。」
橘が呆れたように悠を見る。
「金融出身の人が言います?」
悠は反論できなかった。
◇
だが、本当に難しいのは契約や制度だけではなかった。
午後。
今度は九条がホワイトボードの前に立っていた。
中央には大きくARC PAYと仮称が書かれ、その周囲を複雑な矢印が囲んでいる。
利用者。
ARC。
店舗。
カード会社。
金融機関。
一件の商品購入だけでも、複数のシステムが連動する。
九条が説明した。
「客が購入ボタンを押す。ARCから決済処理を送る。外部から結果が返ってくる。成功したら注文を確定して、店舗側にも反映する。」
白石が頷いた。
「そこまでは分かる。」
「問題は途中で何か起きた時。」
九条は矢印の途中にバツ印を書いた。
「例えば、決済は成功した。でもARCに成功通知が届かなかった。」
白石の表情が変わった。
「どうなるの?」
「客のお金は動いてる。でもARCショップメーカーでは注文失敗に見える可能性がある。」
「……それまずくない?」
「まずい。」
別の場所にもバツを書く。
「ARCでは注文を受け付けた。でも外部決済は失敗した。」
「商品は?」
「作り方を間違えれば、金を受け取ってないのに発送される。」
さらに書く。
通信障害。
タイムアウト。
二重送信。
途中切断。
返金。
注文取消。
九条が淡々と続けるほど、白石の顔から笑顔が消えていった。
「待って。今まで作ったものより、かなり怖くない?」
「かなり。」
悠も腕を組んだ。
ARCBOOKで障害が起きれば、利用者はサービスを使えなくなる。
もちろん大問題だ。
だが決済は違う。
一つの処理ミスが、そのまま誰かの金に影響する。
九条が言った。
「ARCBOOKなら、最悪落として直せる。」
悠が頷く。
「決済は?」
「落とす前に動いた金が残る。」
会議室が静かになった。
短い言葉だったが、それだけで十分だった。
◇
翌日。
今度は橘が試算を持ってきた。
「もう一つ問題があります。」
悠が苦笑する。
「まだあるのか。」
「当然です。むしろ私はここからです。」
橘は資料を配った。
決済手数料。
カード会社などへ支払う費用。
システム運用費。
不正利用対策。
カスタマーサポート。
店舗への精算。
「仮にARCが決済サービスを提供しても、決済額がそのままARCの売上になるわけではありません。」
「それは分かってる。」
「では、利益を出すには?」
悠は資料を見る。
一件あたりの利益は小さい。
ARCBOOK広告のように、企業から数百万円、数千万円単位で受け取る商売とはまったく違う。
一件。
また一件。
さらに一件。
大量の決済を積み重ねる。
そこで初めて巨大な事業になる。
橘が言った。
「つまり、この事業は中途半端な利用者数では割に合いません。」
悠は少し考えた。
そして資料の数字を見ながら聞いた。
「逆に言えば、取扱高が大きくなれば?」
橘も意味を理解した。
「かなり大きな事業になります。」
悠は笑った。
「じゃあ問題ない。」
「何がです?」
「俺たちには店がある。」
橘が止まった。
ARCショップメーカー。
二万八千店舗。
まだ独自の決済機能は存在していない。
それでもARCは、決済サービスを始める前から二万八千もの潜在加盟店を持っている。
さらに。
ARCBOOKには五百六十八万人の利用者がいる。
橘も資料を見直した。
「……確かに、普通の新規参入とは条件が違いますね。」
「だろ?」
だが、高橋はまだ笑わなかった。
「店舗があるからといって、すべて導入してくれるとは限りません。」
悠は頷いた。
「もちろん。」
「カード会社や銀行がARCと組んでくれる保証もありません。」
「ああ。」
「そして何より、信用が必要です。」
高橋は悠をまっすぐ見る。
「利用者にクレジットカード情報を入力してもらい、店舗には売上金を任せてもらう。ARCBOOKの登録とは意味が違います。」
悠の表情から笑みが消えた。
「分かってる。」
「本当に?」
「ああ。」
悠は少し考えてから続けた。
「俺が客だったとしても、知らない学生会社にカード情報を預けたいとは思わない。」
白石が苦笑する。
「自分で言う?」
「でも、それが現実だろ。」
会社は大きくなった。
年商四十二億円。
大手通信会社からも出資を受けた。
それでも金融の世界から見れば、ARCは創業してまだ数年の新興企業にすぎない。
金があれば参入できるわけではない。
技術があれば作れるわけでもない。
相手に信用してもらわなければ、スタート地点にすら立てない。
◇
その日の夜。
会議室には悠と九条だけが残っていた。
ホワイトボードには、昼間書いた決済の仕組みがそのまま残っている。
悠は椅子にもたれながら眺めていた。
「九条。」
「何?」
「作れる?」
九条はすぐには答えなかった。
ホワイトボードを見る。
「作るだけなら。」
悠は笑った。
「その言い方、嫌な予感しかしない。」
「動くものは作れる。」
九条は少し考えてから続けた。
「でも、人の金を任せられるものにするのは別。」
悠は九条を見る。
珍しい言葉だった。
これまで九条は、技術的な課題を前にしてもほとんど怯まなかった。
ARCBOOK公開前も。
利用者が急増した時も。
サーバーが限界に近づいた時も。
できるかと聞けば、必要なものを要求して作った。
その九条が今回は慎重になっている。
「怖いか?」
悠が聞いた。
九条は少し考えた。
「怖い。」
素直な答えだった。
「一円でも間違えたら、その一円は誰かの金だから。」
悠はしばらく何も言わなかった。
やがて、小さく笑った。
「じゃあ、いいな。」
九条が悠を見る。
「何が?」
「お前が怖いと思えるなら。」
悠は立ち上がった。
「ちゃんと怖がりながら作れる。」
九条はしばらく悠を見ていた。
そして、小さく頷いた。
「うん。」
◇
悠は自分の席へ戻り、もう一度資料を開いた。
法律。
金融機関。
カード会社。
セキュリティ。
信用。
技術。
今までとは比較にならないほど面倒だった。
(相棒。)
『はい。』
(思ったより大変そうだな。)
『かなり。』
(止めないんだ。)
『相棒が「今のARCを最も強くする選択肢」を求めたためです。容易な選択肢を求められたわけではありません。』
悠は笑った。
(確かに。)
簡単ではない。
だからこそ。
もしここを取れれば、大きい。
ARCショップメーカーには店がある。
ARCBOOKには人がいる。
広告には、人を店へ動かす力がある。
残っているのは。
その最後。
人が金を払う瞬間だった。
悠は資料を閉じた。
「やろう。」
翌朝。
悠は全員を会議室へ集めた。
「決めた。」
高橋も、橘も、九条も悠を見る。
「ARCは決済事業へ参入する。」
悠は続けた。
「ただし、いきなり作らない。」
西園寺が少し笑った。
「では、最初は?」
悠も笑った。
「信用を取りに行く。」
技術だけでは始められない。
金だけでも始められない。
ARCが初めて挑む、金融の世界。
その最初の相手は。
銀行だった。
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