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人の金

翌日。


ARC本社の会議室には、昨日とは違う資料が山積みになっていた。


決済代行会社。クレジットカード。銀行振込。加盟店契約。収納代行。不正利用。個人情報。セキュリティ。


悠は一冊目の資料を読み、二冊目を開き、三冊目の途中で静かに閉じた。


「……面倒くさいな。」


正面に座っていた高橋が即座に答えた。


「昨日、決済をやると言った人の発言とは思えませんね。」


「いや、決済ってもっと単純だと思ってたんだよ。客が払う、店に入る、ARCが間に入って手数料をもらう。それだけかと。」


「それだけで済むなら、誰でもやっています。」


高橋は一枚の資料を悠の前へ置いた。


今回、悠たちが考えているのは銀行そのものを作ることではない。ARCショップメーカーを利用する店舗に対し、カード会社や金融機関と接続したオンライン決済の仕組みをARC側でまとめて提供する。


利用店舗が一社ずつ複数の決済手段を準備するのではなく、ARCの仕組みを導入すれば必要な決済を利用できるようにする。


利用者にとっては簡単に支払える。


店舗にとっては導入が楽になる。


ARCは決済額に応じて手数料を受け取る。


事業モデルだけを見れば分かりやすかった。


問題は、その裏側だった。


「まず、カード会社や金融機関との契約が必要です。店舗の審査もあります。売上金の精算方法も決めなければならない。不正利用が起きた場合の責任分担、返金、取り消し、個人情報の管理、利用規約、加盟店管理。まだありますよ。」


「まだあるの?」


「あります。」


「もういい。」


「よくありません。」


白石が横で笑った。


「昨日まであんなに格好よく『金の流れだ』って言ってたのに。」


「金って面倒なんだよ。」


橘が呆れたように悠を見る。


「金融出身の人が言います?」


悠は反論できなかった。



だが、本当に難しいのは契約や制度だけではなかった。


午後。


今度は九条がホワイトボードの前に立っていた。


中央には大きくARC PAYと仮称が書かれ、その周囲を複雑な矢印が囲んでいる。


利用者。


ARC。


店舗。


カード会社。


金融機関。


一件の商品購入だけでも、複数のシステムが連動する。


九条が説明した。


「客が購入ボタンを押す。ARCから決済処理を送る。外部から結果が返ってくる。成功したら注文を確定して、店舗側にも反映する。」


白石が頷いた。


「そこまでは分かる。」


「問題は途中で何か起きた時。」


九条は矢印の途中にバツ印を書いた。


「例えば、決済は成功した。でもARCに成功通知が届かなかった。」


白石の表情が変わった。


「どうなるの?」


「客のお金は動いてる。でもARCショップメーカーでは注文失敗に見える可能性がある。」


「……それまずくない?」


「まずい。」


別の場所にもバツを書く。


「ARCでは注文を受け付けた。でも外部決済は失敗した。」


「商品は?」


「作り方を間違えれば、金を受け取ってないのに発送される。」


さらに書く。


通信障害。


タイムアウト。


二重送信。


途中切断。


返金。


注文取消。


九条が淡々と続けるほど、白石の顔から笑顔が消えていった。


「待って。今まで作ったものより、かなり怖くない?」


「かなり。」


悠も腕を組んだ。


ARCBOOKで障害が起きれば、利用者はサービスを使えなくなる。


もちろん大問題だ。


だが決済は違う。


一つの処理ミスが、そのまま誰かの金に影響する。


九条が言った。


「ARCBOOKなら、最悪落として直せる。」


悠が頷く。


「決済は?」


「落とす前に動いた金が残る。」


会議室が静かになった。


短い言葉だったが、それだけで十分だった。



翌日。


今度は橘が試算を持ってきた。


「もう一つ問題があります。」


悠が苦笑する。


「まだあるのか。」


「当然です。むしろ私はここからです。」


橘は資料を配った。


決済手数料。


カード会社などへ支払う費用。


システム運用費。


不正利用対策。


カスタマーサポート。


店舗への精算。


「仮にARCが決済サービスを提供しても、決済額がそのままARCの売上になるわけではありません。」


「それは分かってる。」


「では、利益を出すには?」


悠は資料を見る。


一件あたりの利益は小さい。


ARCBOOK広告のように、企業から数百万円、数千万円単位で受け取る商売とはまったく違う。


一件。


また一件。


さらに一件。


大量の決済を積み重ねる。


そこで初めて巨大な事業になる。


橘が言った。


「つまり、この事業は中途半端な利用者数では割に合いません。」


悠は少し考えた。


そして資料の数字を見ながら聞いた。


「逆に言えば、取扱高が大きくなれば?」


橘も意味を理解した。


「かなり大きな事業になります。」


悠は笑った。


「じゃあ問題ない。」


「何がです?」


「俺たちには店がある。」


橘が止まった。


ARCショップメーカー。


二万八千店舗。


まだ独自の決済機能は存在していない。


それでもARCは、決済サービスを始める前から二万八千もの潜在加盟店を持っている。


さらに。


ARCBOOKには五百六十八万人の利用者がいる。


橘も資料を見直した。


「……確かに、普通の新規参入とは条件が違いますね。」


「だろ?」


だが、高橋はまだ笑わなかった。


「店舗があるからといって、すべて導入してくれるとは限りません。」


悠は頷いた。


「もちろん。」


「カード会社や銀行がARCと組んでくれる保証もありません。」


「ああ。」


「そして何より、信用が必要です。」


高橋は悠をまっすぐ見る。


「利用者にクレジットカード情報を入力してもらい、店舗には売上金を任せてもらう。ARCBOOKの登録とは意味が違います。」


悠の表情から笑みが消えた。


「分かってる。」


「本当に?」


「ああ。」


悠は少し考えてから続けた。


「俺が客だったとしても、知らない学生会社にカード情報を預けたいとは思わない。」


白石が苦笑する。


「自分で言う?」


「でも、それが現実だろ。」


会社は大きくなった。


年商四十二億円。


大手通信会社からも出資を受けた。


それでも金融の世界から見れば、ARCは創業してまだ数年の新興企業にすぎない。


金があれば参入できるわけではない。


技術があれば作れるわけでもない。


相手に信用してもらわなければ、スタート地点にすら立てない。



その日の夜。


会議室には悠と九条だけが残っていた。


ホワイトボードには、昼間書いた決済の仕組みがそのまま残っている。


悠は椅子にもたれながら眺めていた。


「九条。」


「何?」


「作れる?」


九条はすぐには答えなかった。


ホワイトボードを見る。


「作るだけなら。」


悠は笑った。


「その言い方、嫌な予感しかしない。」


「動くものは作れる。」


九条は少し考えてから続けた。


「でも、人の金を任せられるものにするのは別。」


悠は九条を見る。


珍しい言葉だった。


これまで九条は、技術的な課題を前にしてもほとんど怯まなかった。


ARCBOOK公開前も。


利用者が急増した時も。


サーバーが限界に近づいた時も。


できるかと聞けば、必要なものを要求して作った。


その九条が今回は慎重になっている。


「怖いか?」


悠が聞いた。


九条は少し考えた。


「怖い。」


素直な答えだった。


「一円でも間違えたら、その一円は誰かの金だから。」


悠はしばらく何も言わなかった。


やがて、小さく笑った。


「じゃあ、いいな。」


九条が悠を見る。


「何が?」


「お前が怖いと思えるなら。」


悠は立ち上がった。


「ちゃんと怖がりながら作れる。」


九条はしばらく悠を見ていた。


そして、小さく頷いた。


「うん。」



悠は自分の席へ戻り、もう一度資料を開いた。


法律。


金融機関。


カード会社。


セキュリティ。


信用。


技術。


今までとは比較にならないほど面倒だった。


(相棒。)


『はい。』


(思ったより大変そうだな。)


『かなり。』


(止めないんだ。)


『相棒が「今のARCを最も強くする選択肢」を求めたためです。容易な選択肢を求められたわけではありません。』


悠は笑った。


(確かに。)


簡単ではない。


だからこそ。


もしここを取れれば、大きい。


ARCショップメーカーには店がある。


ARCBOOKには人がいる。


広告には、人を店へ動かす力がある。


残っているのは。


その最後。


人が金を払う瞬間だった。


悠は資料を閉じた。


「やろう。」


翌朝。


悠は全員を会議室へ集めた。


「決めた。」


高橋も、橘も、九条も悠を見る。


「ARCは決済事業へ参入する。」


悠は続けた。


「ただし、いきなり作らない。」


西園寺が少し笑った。


「では、最初は?」


悠も笑った。


「信用を取りに行く。」


技術だけでは始められない。


金だけでも始められない。


ARCが初めて挑む、金融の世界。


その最初の相手は。


銀行だった。

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