大学三年、春
四月。
東京大学の構内には桜が咲き、新入生らしい学生たちが案内図を覗き込みながら歩いていた。あちこちからサークルの勧誘が聞こえ、履修登録について話す学生たちの声が飛び交っている。
一年前とほとんど変わらない春の光景だった。
ただ一つ違うのは、その中を歩く神谷悠を見る周囲の目だった。
「……あれ、神谷じゃない?」
すれ違った学生の声が聞こえた。
「ARCの?」
「そう。ARCBOOK作った人。」
悠は聞こえないふりをして、そのまま歩いた。しかし少し進むと、今度は新入生らしい二人組がこちらを見ている。
「本物じゃない?」
「たぶん。」
「話しかけてみる?」
「無理無理。」
悠は前を向いたまま、心の中でAIへ話しかけた。
(相棒、前よりも見られてない?)
『見られています。』
(そこは気のせいって言ってくれよ。)
『事実と異なる回答になります。』
(このポンコツが。)
大学二年生の一年間で、ARCはあまりにも大きくなった。
ARCショップメーカーは二万八千店舗を超え、ARCBOOKの登録者は五百六十八万人。年間売上は四十二億円に達し、社員は八十七人まで増えた。さらに大手通信会社との資本・業務提携まで発表されたことで、新聞や経済誌に悠の名前が載ることも珍しくなくなっている。
もはや大学の中でも、ただの学生として歩くことは難しくなっていた。
「神谷君。」
突然名前を呼ばれ、悠が振り返ると見覚えのある教授が立っていた。
「お久しぶりです。」
「三年生になったそうだね。」
「一応。」
教授が笑った。
「一応?」
「最近、大学より会社にいる時間の方が長いので。」
「大学も忘れないでくれよ。」
「努力します。」
「努力じゃ困るんだが。」
悠も苦笑する。
教授はそのまま通り過ぎようとしたが、何かを思い出したように足を止めた。
「そうだ、神谷君。今度、学生向けに起業について話してくれないか?」
「俺がですか?」
「君以外に誰がいる。」
悠は思わず周囲を見た。
普通に講義へ向かう学生たちがいる。サークルへ新入生を勧誘している上級生もいる。
自分も三年前までは、ただの高校生だった。
それが今では、大学から学生に起業を教えてほしいと言われている。
(変な感じだな。)
『三年前の相棒が見れば、かなり驚くでしょう。』
(お前もな。)
『私は三年前もいました。』
(そういう意味じゃない。)
悠は小さく笑い、講義へ向かった。
◇
午後。
大学から戻った悠は、そのままARC本社の会議室へ向かった。
新年度最初の経営会議には、悠、九条、白石、西園寺、橘、佐伯、高橋の七人が揃っていた。
一年前と比べれば会社は何倍もの規模になったが、この顔ぶれで集まると不思議と昔と変わらない。
悠は席に座ると、全員を見回した。
「さて。今年は何をやる?」
橘が早速眉を寄せた。
「もう少し経営会議らしい始め方はできませんか?」
「新年度最初の重要な話だぞ。十分経営会議らしいだろ。」
「内容ではなく、言い方の問題です。」
白石が笑った。
「私は分かりやすくて好きだけど。」
悠はホワイトボードの前へ立ち、中央に大きく『ARCBOOK』と書いた。その下には『登録者五百六十八万人』と続ける。
「去年はこいつを作った。結果は見ての通り、俺たちの予想を遥かに超えて大きくなった。会社も黒字になったし、人も増えた。大手通信会社との提携でインフラも強くなった。」
悠はそこで振り返った。
「だから今年は、次に何をやるかを決めたい。」
最初に手を挙げたのは白石だった。
「動画は?」
「動画?」
「ARCBOOKに動画を載せられるようにするの。写真だけじゃなくて動画も共有できたら面白いでしょ?」
九条が即答した。
「重い。」
白石が九条を見る。
「却下早くない?」
「五百万人が動画を上げ始めたら、今とは必要な容量が全然違う。」
「大手通信会社と組んだじゃん。」
「それでも重い。」
「じゃあ九条君が頑張ればいいじゃん。」
「嫌。」
「即答!?」
会議室に笑いが起きた。
悠も笑いながら、ホワイトボードに『動画』と書き加えた。
「まあ、却下はしない。候補の一つだ。」
続いて西園寺が口を開いた。
「求人はどうでしょう。ARCBOOKには学生も社会人もいますし、HP制作を通じて企業との接点も増えています。人と企業をつなぐサービスなら、今ある資産をかなり活用できます。」
悠は『求人』と書く。
佐伯も興味を示した。
「それなら人事としても面白いですね。企業側がどんな人材を求めているかという情報も、かなり集まっています。」
高橋からは企業向けサービス、西園寺からはオークション、白石からはコンテンツ系サービスが出た。検索という案も挙がった。
話し始めれば、次から次へと候補が出てくる。
一年前なら、一つの新規事業を始めるだけでも会社の命運を賭ける大勝負だった。しかし今は違う。金がある。人がいる。技術がある。そして何より、五百六十八万人の利用者と二万八千店舗の顧客基盤をすでに持っている。
できることが、あまりにも増えていた。
◇
一時間後。
ホワイトボードには、動画、求人、検索、オークション、企業向けサービスなど、いくつもの候補が並んでいた。
白石がそれを眺めながら言った。
「いっぱい出たね。それで、どれやる?」
悠はすぐには答えなかった。
どれも悪くない。
むしろ、どれを選んでも一定の成功は狙えるように思えた。
だからこそ迷う。
悠は椅子にもたれ、心の中でAIへ問いかけた。
(相棒、お前ならどれだ?)
『質問の条件が不足しています。何を目的とするかによって、最適な選択は変わります。』
(出たよ。じゃあ、日本一のIT企業になるために一番いいもの。)
『それは最終目標です。もう少し条件を限定してください。』
悠は少し考えた。
(今のARCを、一番強くできるもの。)
AIは少し間を置いてから答えた。
『その条件であれば、新しいものを増やす前に、現在のARCがすでに持っているものを確認することを推奨します。』
(今持ってるもの?)
『はい。現在のARCには、すでに複数の流れが存在しています。』
悠は身体を起こした。
ホワイトボードの空いている場所に、現在の主要事業を書いていく。
ARCショップメーカー。
HP制作。
ARCBOOK。
広告。
「社長?」
橘が不思議そうに見る。
「ちょっと待って。今考えてる。」
悠は四つの事業を眺めた。
(相棒、複数の流れって何だ?)
『例えば情報です。ARCBOOKには大量の情報が集まっています。そして人。五百万人以上の利用者がいます。企業との接点はHP制作とARCショップメーカーによってすでに存在しています。さらに広告によって、企業と利用者の間にも流れが生まれました。』
悠はホワイトボードに矢印を引き始めた。
企業。
広告。
ARCBOOK。
利用者。
ARCショップメーカー。
確かに、以前は別々だった事業が少しずつつながり始めている。
企業がARCでホームページを作る。
店がARCショップメーカーでネットショップを作る。
ARCBOOKには五百万人以上の人が集まり、その人たちへ企業が広告を出す。
広告を見た利用者が店へ向かう。
そして、商品を買う。
そこで悠の手が止まった。
商品を買う。
つまり、金を払う。
だが、その最後の部分だけはARCではない。
クレジットカード会社。
銀行。
外部の決済サービス。
店を作るところから客を連れてくるところまでARCが関わっているのに、最後の最後、金が動く瞬間だけARCの外へ出ている。
悠はゆっくり身体を起こした。
(……あ。)
AIは何も言わなかった。
悠はもう一度、事業同士をつなぐ矢印を見る。
白石が気づいた。
「どうしたの?」
悠はホワイトボードの前へ立つと、ARCショップメーカーの横に大きく『金』と書いた。
西園寺の表情が変わった。
橘もその文字を見る。
悠は全員へ向き直った。
「俺たちは店を作る仕組みを持ってる。ARCBOOKには五百万人以上の客がいて、その客を店へ連れていく広告まで持ってる。」
そこで『金』という文字を丸で囲んだ。
「なのに商品を買う最後の瞬間だけ、俺たちは何も持ってない。客が払った金はカード会社や銀行、外部の決済サービスを通っていく。」
橘が小さく呟いた。
「……決済。」
悠は頷いた。
「そうだ。」
会議室が静かになった。
今までARCが作ってきたものが、ホワイトボードの上で一本につながっていく。
店。
企業。
人。
広告。
そして、その最後にあるもの。
金。
悠は空いている場所に、大きく二文字を書いた。
決済。
(相棒、これだろ。)
『有力な選択肢です。』
悠はその答えを聞いて、小さく笑った。
「今年は、これでいこう。」
大学三年生。
ARCの新しい一年が、動き始めた。
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