知らない誰かの人生
三月。
東京から遠く離れた、小さな町。
一人の高校生が自分の部屋でパソコンを開いていた。
学校から帰れば、一人でゲームをする。
休日もほとんど外へ出ない。
学校に友達がいないわけではない。ただ、自分が本当に好きなものについて話せる相手はいなかった。
彼が好きだったのは、古い海外映画だった。
同級生に話しても誰も知らない。少し熱く語れば、「また始まった」と笑われる。
だから、いつしか話さなくなった。
そんな彼が、ARCBOOKで一つのコミュニティを見つけた。
**『昔の映画が好きな人』**
参加者、四十三人。
最初は見るだけだった。
誰かが好きな映画について書く。
誰かがコメントする。
知らない作品を教えてもらう。
それだけで楽しかった。
ある日、勇気を出して一つの記事を書いた。
『この映画、知ってる人いますか?』
十分後。
コメントが付いた。
『知ってます! ラストが最高ですよね。』
彼は画面を見つめた。
もう一件。
『自分も好きです。』
さらに一件。
『監督の前作もおすすめですよ。』
気付けば、一時間以上返信していた。
学校では一度も話したことがないような内容だった。
その夜。
彼は初めて思った。
自分がおかしいわけではなかった。
ただ。
近くに同じものを好きな人がいなかっただけだった。
翌日から、学校から帰るのが少し楽しみになった。
◇
東京。
小さなアパート。
二十三歳の女性が机に向かっていた。
仕事から帰ったあと、毎晩イラストを描いている。
絵を描くことが好きだった。
だが、それだけだった。
美術大学を出たわけでもない。
仕事にした経験もない。
誰かに見せる場所もなかった。
ARCBOOKを始めた理由も、友人に誘われたからだった。
最初は普通の日記を書いていた。
今日食べたもの。
仕事の愚痴。
休日の出来事。
ある日、何となく自分の描いたイラストを載せた。
『休日に描きました。』
それだけだった。
翌日。
コメントが十件付いていた。
『すごい。』
『かわいい!』
『もっと見たいです。』
嬉しくなって、また載せた。
次も。
その次も。
少しずつ読者が増えた。
数か月後。
一通のメッセージが届いた。
『突然のご連絡失礼いたします。』
小さな出版社だった。
雑誌の挿絵を描いてほしい。
最初は詐欺だと思った。
何度も読み返した。
電話で確認した。
本物だった。
初めて受け取ったイラストの報酬は、大きな金額ではなかった。
それでも。
振り込まれた通帳を見た時。
彼女はしばらく動けなかった。
自分の好きだったものが。
初めて。
仕事になった。
◇
地方都市。
駅から少し離れた商店街。
小さな洋食店があった。
夫婦二人で経営している。
味には自信がある。
だが、客は少なかった。
大通りから外れている。
広告を出す金もない。
このまま続けられるのか。
二人は何度も話し合っていた。
そんなある日。
一人の大学生が店に来た。
オムライスを食べた。
写真を撮った。
そしてARCBOOKに書いた。
『駅からちょっと歩くけど、ここのオムライス本当にうまい。』
それだけだった。
翌日。
若い客が二人来た。
「ARCBOOK見ました。」
店主はよく分からなかった。
その次の日。
四人。
週末。
店の外に。
初めて列ができた。
妻が厨房から外を見る。
「あなた。」
「何?」
「並んでる。」
店主も見る。
本当に人が並んでいた。
「……何で?」
「ARCBOOK。」
「ああくぶっく?」
「昨日のお客さんも言ってた。」
二人には最後までよく分からなかった。
ただ。
その日。
開店以来初めて用意していた米がなくなった。
◇
ARC本社。
一通のメールが届いた。
『ARCBOOKを作ってくれた皆さんへ。』
広報担当が偶然見つけたメールだった。
それが社内で共有され、最後に悠のところへ回ってきた。
悠は何となく開いた。
地方に住む高校生からだった。
長い文章ではなかった。
好きな映画の話をできる友達ができたこと。
毎日が少し楽しくなったこと。
そして最後に、一行だけ書かれていた。
**『ARCBOOKを作ってくれて、ありがとうございます。』**
悠はしばらく画面を見ていた。
白石が横から覗く。
「どうしたの?」
「これ。」
白石も読む。
少しして笑った。
「よかったね。」
悠は椅子にもたれた。
これまで、数字ばかり見てきた。
百万人。
五百万人。
アクセス数。
滞在時間。
売上。
利益。
市場シェア。
数字が増えれば喜んだ。
減れば原因を探した。
だが。
その数字の一つ一つの向こう側には。
人がいる。
悠の知らない人。
一生会うこともないかもしれない人。
その誰かの生活を。
ARCBOOKは少しずつ変え始めていた。
(相棒。)
『はい。』
(こういうの、考えたことあった?)
少し間があった。
『可能性としては。』
悠は笑う。
(相変わらずだな。)
『ですが。』
AIが続けた。
『実際に言葉として受け取ることには、別の価値があります。』
悠は少し驚いた。
(お前も嬉しい?)
今度は少し長い間があった。
『……はい。』
悠は笑った。
「そっか。」
◇
三月三十一日。
大学二年生、最後の日。
悠は夜のオフィスを歩いていた。
社員は増えた。
机も増えた。
知らない顔も増えた。
一年前とは、何もかも違う。
ARCBOOKを作った。
競合と戦った。
交流機能を作った。
コミュニティを作った。
広告事業を始めた。
会社は黒字になった。
大手企業とも手を組んだ。
だが。
今日。
悠が一番覚えていたのは。
売上でも。
利益でも。
利用者数でもなかった。
**『ARCBOOKを作ってくれて、ありがとうございます。』**
その一行だった。
悠は誰もいないオフィスで、小さく笑った。
(相棒。)
『はい。』
(二年生、終わったな。)
『はい。』
(結構やったな。)
『かなり。』
悠は笑った。
(自分で言うんだ。)
『事実です。』
「ははっ。」
窓の外には。
東京の夜景が広がっていた。
明日から。
大学三年生。
そしてARCも。
次の一年へ進む。
悠は電気を消した。
大学二年目。
いよいよ終わり。
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