第9話 少しだけ変わった日常
新連載です。
10話まで一挙に公開します。
毎日17:30投稿
転石の洞を出た翌日。
エンはいつもより少し遅い時間にギルドへ向かっていた。
朝の通りは賑やかで、荷車の音や商人の呼び声があちこちから聞こえてくる。
冒険者として動き始めたばかりの頃は、こうした光景もどこか遠く感じていたが、今は少しだけ違った。
「……なんか、普通ですね」
隣を歩くカナがちらりと見る。
「何が?」
「いや。昨日、ダンジョンの主を倒したのに」
「ああ」
カナは納得したように頷いた。
「そんなものだよ。G級だし。日常に変化が起きるわけでもなし」
言い方はあっさりしていたが、不思議と嫌な感じはしなかった。
確かにそうだ。自分たちにとっては大きな出来事でも、街にとっては日常の一つに過ぎない。
ギルドの扉を押し開けると、いつも通りの喧騒が迎えた。
依頼書を見ている冒険者。受付で言い争っている新人。奥では誰かが笑っている。
何も変わっていない。
エンは少しだけ安心した。
「転石の洞の主、討伐確認しました」
受付の女性が淡々と書類をまとめる。
「報酬はこちらになります」
差し出された革袋は、今までより少しだけ重かった。
大金ではない。だが、確かにこれまでより多い。
「ありがとうございます」
エンが頭を下げると、受付は事務的に頷いた。
「G級はこれで一区切りですね。次はF級ダンジョンにも挑戦可能となりますが、無理はしないでくださいね」
「はい」
本当に、それだけだった。
特別な言葉も、周囲の視線もない。
それでも、エンの胸の中には静かな実感が残っていた。
――ここまでは来たんだな、と。
ギルドを出たあと、二人はカナの鍛冶場に戻った。
炉にはすでに火が入っている。カナは慣れた手つきで鉄球を作業台に置き、表面を確認していく。
「大球、少し擦れてる」
「何度もぶつけましたからね」
「うん。でも問題ない」
指でなぞると、滑らかな金属面が鈍く光る。均形鍛冶で作られた球は、大きな傷がつきにくい。
カナはしばらく黙って球を見ていた。
「……楽しかった?」
「え?」
「昨日」
不意の質問だった。
エンは少し考える。
怖かったかと聞かれれば、違う。苦しかったわけでもない。
「……楽しかったです」
素直に答える。
「考えた通りに動けたというか」
「そっか」
カナは小さく頷いた。
それ以上は何も言わなかったが、少しだけ表情が柔らいでいた。
昼過ぎ。
二人は珍しく、街の食堂に入っていた。
いつもより少しだけ値段の高い店だ。とはいえ、豪華というほどではない。
「……なんか、冒険者っぽいですね」
「今さら?」
カナが笑う。
運ばれてきた料理は、いつもより肉が多かった。エンはそれを見て、少しだけ実感が湧く。
自分たちで稼いだ金で食べる食事。
ただそれだけなのに、妙に満足感があった。
周囲では冒険者たちが別のダンジョンの話をしている。
「F級はゴブリン出るらしいぞ」
「数多いんだよな……」
「帰還石持っとけよ」
聞き慣れない単語が混じる。
F級。
次に行く場所だ。
エンは何気なくカナを見る。
「……行きます?」
カナは少しだけ考えてから、頷いた。
「うん。G級でやれることは、もうやったと思う」
否定も、迷いもない。
ただ事実を確認するような言い方だった。
---
夕方、ギルドへ戻ると、掲示板には新しい依頼が貼られていた。
F級ダンジョン――穿穴の洞。
エンはしばらくその紙を見上げる。
少し前までなら、遠い場所に見えていたはずだった。
けれど今は違う。
「……行けそうな気がします」
「たぶんね」
カナが隣で言う。
「でも、最初は様子見」
「はい」
短く答える。
強くなった実感はない。
特別な何かを手に入れたわけでもない。
それでも。
転石の洞で積み重ねたものが、確かに残っている。
エンは掲示板から視線を外し、軽く息を吐いた。
「じゃあ、次はF級ですね」
「うん」
二人は並んでギルドを出た。
街はいつも通りの夕暮れに包まれている。
ただ――。
明日から向かう場所だけが、少しだけ変わっていた。
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