間話 理想と夢想
「また、お前を自由にしてもらえなかった」
張り出し窓の窓台に座り込んだクラウスは、両手の指を組み、懺悔するように俯いた。
ウェーブがかった藍色の髪が垂れて、窓から差し込む月光を遮る。
彼の表情を窺い知ることはできなかったが、どうせ彫刻のように冷淡な顔をして、そのくせ目だけは苦痛に揺れているのだと、その"隠し部屋"の主人には分かっていた。
「諦めの悪い奴だな」
「諦めていいはずがあるものか」
クラウスは僅かに顔を上げた。揺れた髪の隙間から覗いた瞳は、思った通りの色をしていた。
「昔から何十回と言ってるけど、いいんだよ、諦めて。あんたは少し潔癖すぎる」
部屋の主人は腕組みして、ため息混じりに嗜めた。
そう言ったところでクラウスの性格が柔くはならないと分かってはいたが、言わずにはいられない。
長い付き合いと浅からぬ縁故に彼に情を持っていたし、クラウスという男は、どうにも放っておけない奴なのだ。
部屋の主人はふわりと宙を蹴って、すうっと空を滑り、窓辺に腰掛けるクラウスの隣に音もなく着地した。
「あんた一人がそうやって悩んだところで、何もできないよ。どうしようもない天命ってのが、この世界にはあるのさ」
「お前がこうなってしまった事も、天命だと?」
部屋の主人は肩を竦めた。切り揃えられた白い髪がさらりと揺れる。
透けるような白い肌も、銀の瞳も、その月の光のような髪も、こうなってしまった時に変じたものだった。
それは別段、彼にとって気にするほどの事では無い。
見てくれが少年のまま成長しない事は多少不満に思っているが、瑣末な事だ。
しかし、こうなってしまったいうのは、外見の事だけを言っているわけではない。
部屋の主人は、学問塔の最上階、学長室の向かいに隠された秘密の部屋に封じ込められている。
学問塔の管理装置として役目の終わりを言い渡される日までそこに在る事──それが、彼の役割だ。
クラウスはそれがどうにも容認できず、折に触れて先王や兄王に彼の解放を直訴してきたが、未だ聞き入れられずにいる。
「オッサンになって忘れちゃったのかもしれないけど、俺が学問塔に縛り付けられてるのは自分から言い出した事だからね?」
オッサンと言われて、クラウスはほんの少し眉を寄せた。
ほとんどの人は彼の微妙な表情の違いを読み取ることができないのだが、部屋の主人には手にとるように分かる。
それだけ二人は、長い付き合いなのだった。
部屋の主人は、ニヤリと悪戯っぽく笑う。
「なんだよ? 本当のことじゃないか、オッサン」
「うるさい。私はまだ、惚けるような歳では無い」
クラウスは眉間を指で抑え、ため息をつく。
彼の肩の力が抜けたのを見てとって、部屋の主人は目を細めた。
「なら、そもそも俺が先王に申し出たんだって事も、ちゃんと覚えてるんでしょ?」
「……そうせざるを得ない状況だっただろう。強制も同然だ」
頑なな奴だな、と部屋の主人は呆れた顔をして頭の後ろで手を組んだ。
「否定はしないけど。そんな悪く無いもんだよ、塔の管理人生活も。精霊式設備改造研究もやり放題だしね! 昔と比べて随分と快適になったもんだろ? 特に王城全体に取り入れさせた精霊具による空調設備の完全自動化は自信作なんだけど、あれはもっとありがたがられていいと思うんだよね。外気温を感知して冷房と暖房を切り替える仕組みの微調整がむずかしくってさぁ。複数種の精霊石を組み合わせて、精霊具にアルコールを使用させたのがキモなんだけど、その発想、さすが天才! って感じじゃない?」
早口でぺらぺらと研究自慢をし終わると、部屋の主人はえっへんと得意げに胸を逸らす。
その表情に翳りはなく、むしろ恍惚としている節すらある。
彼が心から”悪く無い”と感じているのはクラウスも分かってはいたが、それでも、たとえ偽善と言われようが──許したくはなかった。
彼がいつ終わるとも分からない役目に縛られて学問塔の一室に封じ込められている事も、学問塔の塔主という立場にいながら、彼を解放する事ができないクラウス自身のことも。
自分は無力だ、とクラウスは思う。
先王の第二王子でありながら、学問塔の長でありながら、何も変えられない。
「そんな死んだ魚みたいな目をするの、やめなよ。辛気臭いったらない」
ずい、と身を乗り出した部屋の主人は、クラウスの藍色の瞳を覗き込んで彼の額を指先で弾いた。
軽い痛みが走って、クラウスは額を抑える。
「何を──」
「あんた、最近またなんか重たいもの抱え込んだろ?」
──彼の見透かすような銀の瞳を、クラウスは見ることができなかった。
「吐いちゃえよ。俺の退屈を紛らわせると思ってさ」
部屋の主人は膝に頬杖をついて、緩く微笑んだ。
クラウスは口を薄く開いて、しかし、唇は戦慄くばかりだった。
声を出そうにも、喉が熱く沸騰するようで、うまく声にならない。
それほど自分が思い詰めていたとは自覚していなくて、クラウスは戸惑い、目を伏せた。
浅い呼吸を繰り返しながら、胸元を握る。
「……兄上は、花の蜜をただの王族ではなく、王と並ぶ身分にしようとしている」
「そりゃ、大事だね」
部屋の主人は目を丸くして、姿勢を正した。
「政治的権力は与えられないが、妖精の国との親交を象徴する座とする、と。……そうなれば、妖精との関わりを更に深めることになるだろう。この国は、より精霊石の力に依存することになる」
「それの何が悪いんだ? 陛下は、別に妖精や精霊の力を取り入れるためにその法を制定しようとしているんじゃないだろ。むしろ、花の蜜の立場を固めるために──」
「分かっている!」
珍しくクラウスが声を荒げたので、部屋の主人は目を丸くして、口を閉じた。
「兄上が、先代の花の蜜が正妃になれなかった為に、立場が弱かった為に追い込まれたのだと考えている事は分かっている! だから、花の蜜に揺らぎようのない立場を与えようとしていることも……」
クラウスは一度大きく息を吸って、呼吸を整える。
頭を一度冷やそうとしてもなかなか熱が引かず、彼はこめかみを抑えた。
「分かっては、いるんだ。だが……立場あるものには毒虫も集る。それに、そもそも私は、花の蜜をそうやって特別扱いすること自体が気に食わないのだ」
クラウスが珍しく感情を露わにして憤っているのを見て、部屋の主人は言葉を失った。
躊躇いがちに彼の背中に手を伸ばすと、そっと摩る。
ひんやりとした手が触れると、連れてクラウスの背が曲がり、彼は顔を手で覆った。
俯いた彼の唇が震える。
「何故、幼い子供が……妖精の国で魂が育てられたというだけで、国のために家族と引き離されなければならない?」
妖精や精霊の力に頼り切っているから、精霊石ありきの国力だからこそ、一人の人間の生き死にで国が揺らいでしまう事になるのだ。
妖精と人の距離が近すぎる為に、犠牲になる子供がいる。
その現状が、クラウスには耐えがたかった。
「──いや、すまない。花の蜜だけではなかったな。とにかく、妖精と深い縁を持つ者を家族から引き離し、籠に入れて自由を奪うなど……間違っている。花の蜜がいても、いなくても、動じない国であるべきだ」
理想論だな、と部屋の主人は呟く。
それを否定できず、クラウスは手を膝の上に下ろし、硬く握りしめた。
「たとえ私の考えが理想に過ぎないにしても、そこから遠ざかるべきではない。少しずつ近づけてこその理想だ。新しい法が施行されれば、理想どころか、夢想と成り果てるだろう」
「今ある物を手放せったって、なかなか難しいだろ」
「それも、分かっている。だが、澱んだ宮殿に囚われる子供を見るのは……辛い」
クラウスが肩を落とすと、勇気づけるように部屋の主人はぽんぽんと彼の背を叩いた。
「あんたは花の蜜が傷つけられないように、宮殿を変えたかったんでしょ」
俯いたまま、クラウスは頷く。
「ああ。……私は汚れ切った宮殿を変えたかった。いずれ官吏となる子供達に人道を説けば城の毒は払い流されるだろう、と地道に勤めてきたが……老獪な古狸を前にしては若人にできる事は少ないと気づいた。あまりにも時間がかかる」
「まぁ、そうだろうね」
「それでもいつかは、と信じていた。母上が亡くなった事件を契機に、あの女を中心としていた宮殿を蝕む毒は勢いを失った。これでやっと、と思ったが……結局、毒の根を取り除くことはできなかった」
「ああ、あの誘拐事件か。花の蜜とアレス王子が襲われたっていう……」
部屋の主人は当時風に乗って舞い込んできた噂を思い出して顔を顰めた。
あれほど聞いていて胸糞が悪くなる話を、彼は他に知らない。
「あれがあって、私は気づいた。清浄な城など夢想にすぎないと。……あの事件の首謀者の一派には、私の教え子もいたのだ」
息を呑んだ部屋の主人に、クラウスは自嘲するように笑って見せた。
「新米教師だった私を、ずいぶんと慕ってくれていた生徒だった。良い子だと思っていたのだが……素直な子ほど、染められやすいのかもしれないな」
「それで、あんたは諦めたのか?」
「どうだろうな? ……その問いに頷けていたら、私はきっとここにはいない。いる資格がないだろう。”先生”を名乗る以上はな」
クラウスは窓にもたれて、ガラス越しの夜空を見上げた。
無数に瞬く光の粒を見上げていると、ひどく空虚な心地がした。
「いつか王城を美しい世界にできれば、そして、いつか金の卵を産む鳥を必要としなくなる国へ育てられれば……そう、心に決めていたのだが。ままならないな、ルカ」
部屋の主人──ルカは、夜空を見上げるクラウスの目に湛えられた涙がゆっくりと溢れていくのを、ただ、黙って見つめた。




