願い【1】
次に目を覚ました時、エルフリーデは冷たい床に身を横たえていた。
明らかに、宮殿の鏡のように艶のある床とは違っていて、荒く塗られた漆喰が頬に刺さるようだった。
朦朧とした頭を振って、エルフリーデは身を起こす。
その部屋は、部屋というよりは牢だった。
漆喰で塗り固められた床と石の壁。その空間に窓はなく、所々錆びついた格子状の鉄格子が張り巡らされている。
光源は鉄格子の向こうの古びた棚の上に置かれたランタンが一つきりで、檻の向こうがどのような状況なのか、全くわからなかった。
エルフリーデが状況を飲み込めずに震えていると、檻の隅で呻き声がし、そこで誰か倒れていることに気がついた。
幸いと言うべきか、手足は自由だったので、フラつく足で恐る恐る近づいて見ると、それは意識を失ったアレスだった。
「お兄様! お兄様、しっかりしてください!」
無我夢中で揺りうごかすと、アレスはゆっくりと瞼を開き、エルフリーデを見た。
「エルフリーデ……? ここは、いったい……どこだ?」
「分かりません。気がついたらここにいました。お兄様は何か覚えていますか?」
アレスは起き上がると、目眩がするのか、頭を押さえて顔を歪めた。
「何も……。手洗いから出たところで、其方が二階の控え室にいると聞いて向かったところまでは、覚えているのだが」
「私はお兄様が控え室で待っていると、インメル卿に聞いたんですが……」
「僕もインメル卿から──そうか、そういう事か……っ!」
やってくれたな、とアレスは床で手が傷つく事も厭わず、床を殴りつけた。
エルフリーデが思わず身をすくめると、我に返ったアレスは、小さく謝りながら彼女を抱き寄せて、ゆっくり背中を撫でた。
「怖い思いをさせてすまない。おそらくこれは、王族を狙った者達によるものだ」
「でも、インメル卿は王室塔の方なのでは……?」
「前に其方に話しかけていたフィードラー卿もそうだったと聞いたが、内部に反王室派と呼ばれる者達が潜り込んでいたらしい」
反王室派? とエルフリーデが鸚鵡返しに尋ねると、アレスは頷く。
「国の政治を議会制とし、王はその承認のみを行うお飾りであることを望んでいる──要は、王家から権力を遠ざけることを狙いにしている者達だ。その考え方自体は何も間違ってはいないし、隣国にもそういったあり方の国家はある。しかし、この国は人によって成り立っている国ではない。妖精の女王、ティターニア様の領域に間借りしているだけの国だ。権力を分散させると、いずれ必ず、妖精の女王に反旗を翻し、この国を完全に人の手中に収めようとする愚か者が出てくるだろう」
アレスは次代の王となるべく、国の歴史は幼い頃から叩き込まれてきた。
決して誤った道を進まないよう、人の力を過信し、驕り、妖精の逆鱗に触れることがないよう、厳しく指導されてきた。
戴冠の日を迎えて玉座に座ろうとも、その椅子は借り物に過ぎないのだと、アレスは理解している。
「人と妖精がそれぞれを侵すことがないよう、国を保つことが王の使命だ。実際、これまでの歴史上で”人主義”の権力者がいなかったわけではない。だが、その権力者の時代、国は妖精達の怒りで惨憺たる有様になったそうだ」
エルフリーデは荒廃した国の光景を想像してしまって、ごくりと生唾を飲み込んだ。
彼女が恐ろしそうに身をすくめたので、アレスは宥めるように微笑んでみせた。
「そう怖がらずとも、妖精は己に降りかかった火の粉は払っても、望んで争うことはない。……人と違って」
ポツリと最後に呟かれた皮肉交じりの言葉に、エルフリーデはぎゅっと胸が締め付けられるような思いがした。
──ふいに、錆びた扉を開く音がどこかで響いた。
階段を降りる複数の足音が聞こえてくる。
どうやら、エルフリーデ達がいる場所は地下にあるようだった。
地下ならば逃げ場は殆ど無いに等しい。
エルフリーデは身を震わせながらアレスにしがみつき、アレスは彼女を抱きしめる腕に力を込めながら暗がりの向こうをじっと睨んだ。
「目を覚ましたようだ」
扉が開く音がして、ランタンの光が扉の隙間の向こうで揺れた。
聞いたことのない男の声がして、連れと何事か話し合いながら部屋に足を踏み入れた。
だらしなく無精髭を生やした大柄な男と、ひょろりとした長身の男が、檻の中のエルフリーデ達が身を寄せ合っているのを見てニタニタと笑った。
ランタンに照らされた顔に見覚えはない。王城のどこにも、彼らのような者はいなかったし、いるはずもなかった。
ツンと鼻をつく饐えた臭いと、薄汚い服装。身体中を値踏みするように這い回る視線に耐えられず、エルフリーデは声も出せずに涙ぐんだ。
「お前達の目的は何だ? インメル卿の仲間であろうが──誰に何をしたのか、その薄汚い頭は理解しているのか!?」
「こんなに小さくても王子様は王子様だな。勇ましいこった」
大柄な男が鉄格子に近づいてランプを掲げる。顔を照らされて、暗闇に慣れていた目には眩しく、アレスは思わず顔を背けた。
「俺たちの雇い主は……王子様には復讐と、お姫様には隷従をって言ってるな。難しいこたぁ分からんが、とにかく王子様は好きに嬲れと仰せつかってるもんでね、その通りにさせてもらうさ」
アレスが呆然としているうちに細身の男が牢の鍵を開ける。
細い少年の腕を男が掴み、引っ張り上げようとするが、エルフリーデは泣きながら抵抗する。
連れて行かれてしまったら、アレスがどんな目に合うかわからず、凍えるように恐ろしかった。
「や、やめてください……! お兄様、行かないで……!」
「おっと、お姫様はお利口にお留守番するんだ。うっかりお兄様のお綺麗な顔に、傷がついてほしくはねぇだろ?」
「エルフリーデ、手を離すんだ」
「い、いやです……嫌……お兄様……」
アレスはエルフリーデの震える手を解くと、自分を引っ張る男を睨みつけながら立ち上がる。
そのまま引きずられていくアレスの後ろ姿に追いすがるように、エルフリーデは鉄格子にすがりつき、額を押し付けて哀願した。
「お兄様……! 待って……!」
「ぴーぴーやかましいお姫様だな」
嘲笑うような声を残して、男達はアレスを連れて部屋を出る。
地下の中に別の部屋があるのか、別の場所で扉が開く音がして、それから沈黙が訪れた。
エルフリーデは檻の隅で膝を抱えて、ドレスに顔を埋めた。涙で染みが広がっていくが、そんなことはどうでもよかった。
ポケットの中を弄って、フリートヘルムに持たされたお守りのヒヨコちゃんを取り出すと、両手で握ってじっと見つめる。
これが無ければ、今すぐお兄様を助けることができるかもしれない。
エルフリーデはヒヨコを手で裂こうとするが、何かの呪いで守られているのか、びくともしない。
手が擦りむけてしまうことも厭わず何度も何度もぬいぐるみを地面に叩きつけても、やはり傷一つつかなかった。
「助けて……」
ヒヨコを両手で握りしめて、額に当てる。作った人達の顔を思い浮かべて、エルフリーデは大粒の涙を零した。
泣いているうちにいつの間にか気を失うように眠ってしまったエルフリーデだったが、扉が開く音で目が覚めた。
石の壁まで後ずさり、うずくまっていると、アレスが押されるようにして部屋に入れられ、そのまま牢に押し込められた。
ひょろりとした方の男が水差しとパンの乗った盆を床に置くと、さっと入口を閉める。
鍵を閉める重い音が部屋に響いて、男達は連れ立ってその部屋を出て行った。
「お、お兄様……?」
アレスは何も言わず、エルフリーデの側にフラフラした足取りで近寄る。
ぼうっとした空な瞳でエルフリーデを見下ろすと、その隣に腰を下ろして彼女を抱きしめ、一筋の涙を流した。
「お兄様、何があったんですか……?」
アレスはひどく震えていて、エルフリーデはどうにかその震えが治るように、彼の背を撫でた。
しばらくそうしているうちに、アレスはエルフリーデの頭に自分の頭をすり寄せて、ポツリと呟いた。
「其方は僕の光だ」
「お兄様……?」
「其方さえ無事でいてくれるなら……僕は、何だって耐えられる」
彼はそれきり、何も言わなかった。
エルフリーデは、アレスを助けることができなかったことが悔しくて、嗚咽をこらえることができなかった。
その後、見張りの男達は何度か部屋の様子を伺いに来た。
用を足したいと言えば、一人ずつではあるが外に出ることを許され、お腹が空いたと言えばパンを放り込まれたので、男が最初に言った通り、殺す気がないことだけが救いだった。
どうかアレスが再び傷つけられることがないようにと、エルフリーデはずっと祈っていたが──その願いは虚しく散った。
「王子様、外へ出ろ」
アレスを甚振る時間が来てしまったのだと、エルフリーデは男達の表情で悟った。
二度もアレスを行かせることなど耐えられるはずもなく、エルフリーデは今度こそ離しはしないと、細身の男に連れて行かれようとするアレスにしがみつくが、見かねたもう一人の男に加勢され、あっけなく引き剥がされる。
「大人しくしていろよ、お姫様。王子様が帰ってこなかったらどうするんだ」
「嫌、嫌、いやっ!! お兄様を連れて行かないで!! お兄様に触らないで!!」
諦められず、エルフリーデは牢を出ようとする大柄な男の足にしがみつく。
痺れを切らした男は、乱暴にエルフリーデの首根っこを掴むと、乱暴に放り投げた。
「エルフリーデっ!! 何をする!? エルフリーデには手を出さないと約束しただろう!? だから僕は何をされても耐えたのに──ッ」
「仕方ねぇだろ! 邪魔してくるんだからよ!」
頭を強かに打ち付けたエルフリーデは、起き上がることもできなかったが、必死でその細腕を伸ばした。
「お、にいさまを……つれてかないで……」
白い腕を、大きな足に踏みにじられる。
それでも諦められなくて、もう片方の手でその足を掴んだ。それも蹴飛ばされる。
エルフリーデは願った。
誰でもいい。なんでもいい。なにをあげてもいい。
「なんでも……いいから……」
ポケットの中が燃えるように熱かった。その中に入っているものが、限界を告げて熱を放っているのだ。
けれどエルフリーデには、そんなことはどうでもよかった。
男達に嬲られて戻って来たアレスの顔を二度と見なくて済むのなら、なんだってよかった。
「お兄様を……助けて……っ!!」
──力の限り叫んだ、その瞬間。
エルフリーデは、何かが砕ける音を耳にした。




