願い【2】
窓もない牢獄の地下室に、一陣の風が吹いた。
招かれるように次々と風が吹き、エルフリーデの髪を弄ぶように通り抜ける。
クスクスと笑う少女の声がエルフリーデの耳をくすぐった。
部屋の中央で強く風が渦巻くと、そこから掌ほどの大きさの、白髪の少女の姿をした妖精が姿を現した。
雪肌の背中に生えた蜻蛉の羽が広げられると、妖精は空中を一回転して、愉しげに笑った。
「ふふふ、あははは! 必死な声が聞こえてきたから来てみれば……可哀想なあたしたちの花の蜜。小蝿どもに泣かされてしまったの? かあいそうに」
「なんなんだ……一体!?」
驚きのあまり、男たちは妖精を凝視したまま動かない──否、一歩も動けないでいた。
彼らの動物的本能が、頭の中で絶え間なく警鐘を鳴らしている。
一歩でも動けば、目障りな羽虫と同じように自分たちは潰されてしまうのだと。
妖精は男達を嘲笑うと、どうにか立ち上がったエルフリーデの周りをくるくると飛び回った。
「ねぇ、あなたのお兄様を助けてあげたら、なんでもくれるんですって? あたしは時の雄鶏と違って、押し売りなんか主義じゃないから、一応聞いてあげるわ。本気なのかしら?」
「……あなたは、誰ですか?」
「あたしは風の妖精。どこにでも現れて、どこへでも飛んで行けるわ。早く答えないと、どこかへ行ってしまうかも?」
風の妖精はそう言いながらも、その銀色の瞳をエルフリーデから逸らさず、はやくはやくと答えをせがんだ。
「やめろ! やめるんだ、エルフリーデ!! 其方さえ無事なら……僕は……大丈夫だから……っ!!」
アレスが悲鳴じみた声でエルフリーデを止めようとするが、彼女の心は揺るがなかった。
「──なんでもいい! なんだってあげます!」
その言葉を聞くと、風の妖精は歓喜に震えた。
「嗚呼、よくってよ、よくってよ! それじゃあ……あなたの"薔薇色"を貰うことにするわ」
風に色は無く、それ故に風の妖精は"色"に憧れていた。
平凡な色ではつまらない。美しく、高貴な色でなくては。
エルフリーデの薔薇色は妖精の女王が愛した色だと、風の妖精は知っていた。貰えるならば"その色"がよかった。
エルフリーデの髪が風に巻き上げられ、するすると色が風に吸い取られてゆき、雪のように白い髪がふわりと広がった。
そして今や風の妖精の髪に、エルフリーデの薔薇色は移っていた。
「素敵! なんて素敵な色なのかしら。気に入ったわ。ええ、あたし気に入ったわ!」
風の妖精が舞い踊ると、薔薇色の残光が尾を引いた。
風に色がつくとこの様な光景になるのかと、その場にいる者は、男達も含めた全員が目を奪われた。
「こんな素敵な"色"をもらったのだもの。きちんと働かなくてはね?」
風の妖精がちらりと男達を見やると、彼らはびくりと身を竦めた。
「せっかく綺麗な色になったのに、こんな小汚い小蝿をあたしの手で輪切りになんてしたくないわ。子供達の情操にも悪いし、困ったわね」
男達はホッと胸を撫で下ろそうとしたが、風の妖精は何か気づいたように手を叩き、無邪気な笑みを浮かべた。
「そういえば、怒り狂った騎士がお城に沢山いたわね! その中に放り込んでしまえば良いのだわ!」
今度こそ男達はアレスを放り出し、死に物狂いでその部屋から逃げ出そうとした。
無骨な指が扉に掠ったその瞬間、まず先頭にいた大柄な男が消えた。
次いで、目の玉が落ちてしまいそうなほど目を見開いた細身の男が消えた。
「一体何が……」
男達の消えた場所から目を離せず、呆然としていたアレスが、その次に消えた。
混乱したエルフリーデが妖精を振り返ると、彼女は嬉しそうに薔薇色の髪をくるくると指に巻きつけて、にっこりと微笑んだ。
「次はあなたよ、花の蜜」
瞬きした次の瞬間、頬を風が撫でた。
エルフリーデは空の下にいた。
日は中天にあり、足元は青々とした芝生が広がっている。
美しく整えられた花壇と生垣の向こう側で、白亜の宮殿が日の光を受けて白く輝いていた。
「王城だ……」
ぺたんと座り込み、晴れ渡る空を見上げた。
掌に触れた瑞々しい草とその青い匂いが、きっと丸一日も経っていない筈なのに、震えるほど懐かしかった。
「エルフリーデ、髪が……」
アレスの呆然とした声が隣から聞こえて、エルフリーデは我に返る。
「お兄様! 大丈夫ですか? なんともないですか?」
「大丈夫なんかじゃない! 其方の髪が……それに、あいつらに投げ飛ばされて、腕も踏まれていた!」
あいつら、と言われてようやく、エルフリーデは自分達を攫った男達のことを思い出した。
辺りを見渡してみると、少し離れたところに男達が転がっている。
両手足に見えない枷でもついているのか、芋虫のようにみっともなく地を這って、口汚く罵る声を上げていた。
「騎士さぁん、こっちよー!」
鈴の鳴るような風の妖精の声が何処かから響いて、バタバタと慌ただしい足音と鎧が鳴る音が近づいてくる。
助けが来たことを知り、エルフリーデはホッと息を吐いた。
「……守れなかった」
小さく呟く声がして、エルフリーデはアレスを振り向いた。
「こんなになってしまって」
アレスは震える手でエルフリーデの腕を掴む。
折れてはいなかったが、大の男に踏まれた箇所は、赤く腫れ上がっていた。
指摘されるまで忘れてしまっていたが、目にすると思い出したように痛みが襲ってきて、エルフリーデは思わず顔を顰めた。
「いたぞ! アレス殿下とエルフリーデ姫だ!」
「そこに転がっている蛆虫どもが犯人よ。可愛いあたしたちの花の蜜を痛めつけた虫ケラなんて、ストトンと輪切りにしてしまってね?」
「処刑するのは尋問の後だ、風の。庭で一番色の綺麗な花を持って行って良いから、ついでに衛生兵にも、ここへ来るように言伝を頼まれてくれ」
「これだから騎士さんは、妖精使いが荒くって嫌だわ。花の蜜のためなら、嫌とは言えないけど」
風の妖精がどこかへ消え去り、騎士達が駆けつけてきた。
エルフリーデは腕を掴んだまま固まっているアレスを覗き込んで、安心させるように微笑んで見せた。
「お兄様、もう大丈夫です。騎士達があの人達を捕まえてくれましたから」
アレスは力無く頷いて、しかしエルフリーデの腕を離そうとはしない。
「殿下、姫様、衛生兵が間もなく参ります。此方へ」
騎士がアレスの肩に手を触れた、その時だった。
アレスの顔から血の気がさっと引いて、彼はエルフリーデを隠すように腕の中に閉じ込め、悲鳴を上げた。
「僕たちに触るなッ!!」
「お、お兄様!?」
突然の彼の豹変にエルフリーデは困惑して、カチカチと歯が震える音が聞こえるほど近くにある彼の頬に手を伸ばした。
「お兄様、そこにいらっしゃるのは騎士の方です。大丈夫ですよ」
諭しても、恐怖の色に染まったままのラベンダーの瞳を見て、エルフリーデは気づいてしまった。
「私……お兄様のこと、助けてあげられなかったんですね」
──もっと早く、お兄様が別の部屋に連れて行かれてしまう前に風の妖精を呼べていたなら、男達をやっつけられるくらいもっと私が強かったなら、お兄様を助けてあげられたの?
酷い後悔が胸を押しつぶして、エルフリーデはアレスの額に自分の額を押しつけ、歯を食いしばって泣いた。
「どうして、泣いているんだ?」
アレスは目の前で泣きじゃくるエルフリーデを見て、落ち着きを取り戻したのか、静かに問いかけた。
「お兄様を……守れなかったから」
「其方は僕を救ってくれた。其方を守りきれなかった、僕とは違って」
「お兄様は……! お兄様は私を……守ってくれました!」
エルフリーデは涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、アレスを抱きしめ返した。
「今度は私が……お兄様を守りたい」
もっと強くなりたい。
もう誰にも、お兄様を傷つけさせないように。
エルフリーデがそう強く願った瞬間──エルフリーデの視界はぐにゃりと曲がり、ぐるりと世界が回る。
誰かが叫ぶ声も、遠く、遠く、離れていく。
背中から水の中に落ちたような感覚に襲われて、エルフリーデは意識を失った。




