魔の手【3】
アレスの十歳の誕生日を祝う式典は、彼の誕生日の夜、宮殿の大広間で開かれた。
大広間はアーチ型の大きなガラス窓が壁に並び、窓には金の装飾がふんだんに使われている、宮殿で最も煌びやかな部屋だ。
磨き上げられた寄木細工の床がシャンデリアの灯りを反射し、夜だというのにその広間の中だけは昼間のように明るかった。それゆえに、その大広間の別名を、白夜の間という。
着飾った貴族達や各塔の官吏達がその絢爛さに見惚れている頃──エルフリーデは、自室で掌の上に乗せた小さな包みを、溜息混じりに眺めていた。
「もうすぐお兄様の誕生日が終わってしまうのに、まだプレゼントを渡せていない……なんて……」
当日の朝に渡すはずだったのだが、式典の主役に空き時間などあるはずがない。
エルフリーデ自身も、式典用の新しいドレスに袖を通したり、身支度を整えなければならず、アレスを探す暇もなかった。
初めての公式の場ということもあり、色々な飾りを、あれやこれやと付けたり外されたりされるがままになっていると、時間はあっという間に過ぎていき──今に至る。
「エルフリーデ様、お時間ですよ」
ベルタが呼びかけると、エルフリーデは途方に暮れて彼女を振り返った。
「ベルタさん、どうしましょう。お兄様のプレゼントがまだ渡せていないのです。このままだと明日になってしまいます」
「あら、そのくらいの大きさであれば、ヒヨコちゃん一号のために作ったポケットに一緒に入りますから。式典へ持っていかれるとよろしいかと」
ベルタはドレスの支度のために机の上に置いていたヒヨコちゃんをエルフリーデのドレスに特別にあしらえたポケットの中に仕舞うと、同じようにプレゼントもその中に入れた。
「ドレスにポケットなんてあったのですね」
「もちろん、普通はございません。ヒヨコちゃんのための特別仕様でございます。このようなぬいぐるみではなく、もっと身につけ易いアクセサリーにしてはいかがですか、と散々ドレヴァンツ閣下にはお伝えしているのですが……」
「フリートさんはこのヒヨコちゃんを気に入っているようなので、二号も同じようなものだと思います」
そうでしょうね、とベルタは不満げに眉を寄せながら、エルフリーデの身支度の出来栄えを確認した。
薄桃色の袖口が広がったドレスは、フリルがふんだんにあしらわれており、薔薇の飾りが腰元に縫い付けられている。
このドレスは王族へ迎えられた記念に、国王陛下がエルフリーデへ贈ったものだった。
一通り確認が終わると、ベルタはエルフリーデへ部屋を出るよう促す。
アレスと共に大広間へ入場する時間まで、もう間も無くだ。
外で待機していた兵士へエルフリーデの護衛を任せると、ベルタは忙しそうに次の仕事場へ向かっていった。
慣れない靴のせいで、エルフリーデは何度かつまずきそうになりながらも、なんとか大広間の前までたどり着いた。すると、妹に気づいたアレスが、廊下の反対側から手を振りながら小走りに走ってくる。
流石は王子と言うべきか、アレスは細やかな刺繍の入ったチャコールグレイのシルクのコートを、一寸の隙もなく着こなしていた。
胸元の華やかなスカーフも、中性的で麗しいアレスの容姿をよく引き立てている。
王子様が、駆けてくる……。
何も間違っておらず、全くその通りでしかない感想が頭をよぎった。
ひどく現実離れした存在が目の前にいる気がして、エルフリーデは思わずごしごしと目を擦った。
「どうした、エルフリーデ。目にゴミが入ってしまったのか? 見てやろうか?」
心配そうにエルフリーデの目を覗き込もうとするアレスだったが、急に目と鼻の先までアレスの顔が近づいたものだから、エルフリーデは思わず後ずさる。
「だ、大丈夫です! 大丈夫ですから……その……その、あんまり顔を近づけないでください……」
「そうか? 目が傷ついてしまってはいけないから、あまり擦らないようにな」
「気をつけます」
「そうしてくれ。今日の其方はせっかく花のように愛らしく着飾っているのだから、目を腫らしてしまってはもったいない」
「う、眩しい……!」
直視することが難しくて、エルフリーデは手の隙間越しにアレスを覗く。
彼女の奇行に、新しい遊びでも思いついたのか、とアレスは気にする風でもなく、ただニコニコ微笑んで見守るに徹した。
「アレス殿下、エルフリーデ様、そろそろお時間でございます」
護衛の言葉に、アレスはエルフリーデの手を取って広間へ進み出る。
エスコートされながら、エルフリーデはまたプレゼントを渡しそびれてしまったことに気づき、内心で頭を抱えた。
広間に入ってしまったからには、アレスと二人きりになれる時間など、おそらくは無い。
手作りの品ということもあり、人前で渡すには恥ずかしかった。
周囲に生暖かい目で見られようものなら、きっと恥ずかしさのあまり逃げ出してしまうに違いない。
お行儀よく周囲に微笑みながらも、どうにか今日中に渡せないものかとエルフリーデがぐるぐる考えを巡らせていると、彼女にしか聞こえない声でアレスは耳打ちする。
「これが終わったら、二人で城下の灯りを見るのが楽しみだな」
それだ、と、エルフリーデはハッとする。
朝から慌ただしくしていたせいで、ほとんど頭から締め出されていた約束を思い出して、エルフリーデはその時に渡すしかない、と心に決めた。
「待ち遠しいですね、お兄様」
やっとプレゼントを渡せる目処がついたエルフリーデは、嬉しそうにアレスを見上げて顔を綻ばせた。
アレスはわずかに目を見張った後、顔を逸らして片手で顔を覆った。
微かに耳が赤く染まっていて、どうしたんだろうとエルフリーデは首を傾げた。
「おやおや、挨拶に参りましたが……お邪魔でしたか?」
フリートヘルムはグラスを片手に持ち、二人の背後からひょっこりと顔をのぞかせた。
びっくりして飛び上がりそうになったアレスは、どうにか取り繕おうと咳払いをした。
「じゃ、邪魔なんて……とんでもないです、叔父上」
「フリートさん! こんばんは、ご機嫌麗しゅう」
エルフリーデがお行儀よくご挨拶をすると、フリートヘルムもそれに倣って恭しくお辞儀を返した。
正装を見にまとったフリートヘルムは、周りの女性客の目を惹くようで、あちこちから小さな感嘆の声が上がった。
「はい、こんばんは。本日はいつにも増して、可憐でいらっしゃいますね」
「このドレス、可愛らしいので私も気に入っています。選んでくださった陛下には、きちんとお礼申し上げましたよ!」
えらいですね、とフリートヘルムは自慢げなエルフリーデの頭を撫で、アレスに向き直る。
「本日はお誕生日おめでとうございます」
「ありがとうございます。……今年も、叔父上のプレゼントは精霊学の教本ですか?」
「ご名答です。勉学は身を助くものですから、決して嫌がらせなどではありませんとも。そういえば、エルフリーデ様のぷ──」
「あ、あー! あちらでご挨拶したそうな方が見ていらっしゃいますよお兄様! さぁ! 行ってらっしゃいませ! さぁ、さぁ!」
フリートヘルムが言いかけた言葉を遮るように、エルフリーデは声を上げると、アレスの背を押して、こちらの様子を伺っている貴族の方へ押し出した。
怪訝そうに後ろを振り返りながらもアレスは挨拶を受けに貴族の人垣へ向かう。その後ろ姿を見送って、エルフリーデはほっと胸をなでおろした。
「まだ渡せていないのですか?」
笑いを噛み殺しながらフリートヘルムが尋ねると、エルフリーデは返答に詰まって目を逸らす。
「な、なかなか今日は忙しくて……。でも、ちゃんと渡します。絶対に!」
渡す時間も場所も決まったので、もう心配はいらない。
エルフリーデが気合を入れて拳を握ると、その肩を兵士が叩いた。
「エルフリーデ様、あちらにご挨拶したいと仰る財務塔の方が」
「行って差し上げなさい。今日は色々と声をかけられると思いますが、一人になってはいけませんよ」
「護衛の兵士さんがいらっしゃいますから、大丈夫ですよ。フリートさんは心配性ですね」
「精一杯お守り致します!」
お任せください、と胸を張る兵士に念を押して、フリートヘルムは別の貴族達に呼ばれて行ってしまった。
その後、エルフリーデは、初めて会う大人達にどぎまぎしながら挨拶を交わした。
一言二言言葉を交わし、お辞儀をしてまた別の人に声をかけられ──ということを何度か繰り返すうちにどんどん時間が過ぎてゆき、気づけばエルフリーデは、アレスを見失ってしまっていた。
式典はもうじきお開きになる頃合いで、下女達が空いたグラスや皿を下げて行く。
その合間を縫ってアーチ窓へ近づき、窓の外を見ると、馬車が宮殿の外に集まりつつあった。
別行動をとったことを後悔しながらアレスを探していると、鼻髭をきっちりと切りそろえた鷲鼻の初老の男性が、ニコニコしながらエルフリーデに声をかけてきた。
「エルフリーデ様、こちらにいらっしゃいましたか」
「インメル卿、なにかご用でしょうか?」
インメル卿は、王室塔の催事室という、文字通り催し事を取りまとめる部署の室長だ。
今回の式典の責任者の一人でもあるインメル卿は、準備の段階でエルフリーデも何度か顔を合わせていた。
「アレス殿下が、エルフリーデ様を二階の控えの間でお待ちですよ。本日は多くの来賓がいらっしゃっておりましたから、人酔いされてしまったようで、休んでおいでなのです」
「まぁ、お兄様は大丈夫なのですか?」
「ええ。少し、ご気分が優れないだけとのことです。たまたま殿下が広間をご退出されるところへ居合わせまして、僭越ながら私がエルフリーデ様へ伝言を承ったのです」
「知らせていただき、ありがとうございます」
エルフリーデが礼儀正しくお辞儀をすると、インメル卿は鼻髭を指先で撫で付けながら、ニコリと笑んだ。
「アレス殿下は、毎年あの部屋で城下をご覧になるのがお好きでして。少しでも心が休まるかと思い、そちらへお連れしたのです。エルフリーデ様とご覧になるのを、準備の間中、それは楽しみにしておいででしたので、どうか行って差し上げてください」
「わかりました。では、急いで参りますわね」
護衛の兵士を連れてエルフリーデが広間を退出すると、インメル卿はその出口をじっと眺め──その唇を歪めた。
二階の控え室は、宮殿の中では比較的こじんまりとした部屋だった。
床の寄木細工はシンプルな柄で、アーチ型の窓は他の部屋とも似通っていたが、ガラスが嵌められておらず、バルコニーに抜けられるようになっている。
エルフリーデは部屋に入ると、キョロキョロと辺りを見回した。僅かな蝋燭の灯りが窓辺の壁にかかった燭台に灯るばかりで、部屋の中は薄暗い。
兵士は、エルフリーデを手の届く範囲に引き寄せると、じっと暗闇に目を凝らした。
「お兄様、いらっしゃるのですか?」
声をかけるが、返答はない。
おかしい、と思うのと、甘い匂いが鼻を掠ったのは同時だった。
不意に背後で鎧が軋む音がした。鉄が床に叩きつけられる音がして、鎧の兜が転がる。
エルフリーデには、その兜がなぜか二重、いや三重にぼやけて見えた。
ぐるりと一回転するように地面が近づいてきて、手を突こうとしたが、なぜか指先ですら思うようにならず、鈍い衝撃と同時に目の前が暗くなる。
エルフリーデは、濃厚な甘い水の中に溺れてしまったような気がした。
息を吸っても吸っても甘い匂いしかしない。
そして甘い匂いを吸い込むたびに、脳髄が痺れ、何も考えることができなくなっていく。
声を上げることも、目蓋を開けることもできず、エルフリーデはついに意識を手放した。




