王族【3】
アレスは実際、とても良い兄としてエルフリーデに接した。
勉強の合間に二人で過ごす時間を作り、王城を散歩したり、お茶会を開いたりと、宮殿に迎えられたばかりで出歩くことに気後れしているエルフリーデを、理由をつけては事あるごとに連れ回した。
エルフリーデは最初こそ戸惑ってはいたが、殆ど日課のようになったアレスとの散歩が、日を追うごとに欠かせないものになっていった。
今日はどこに連れて行ってもらえるのか、どんなものを見せてもらえるのか、何を話そうか、と勉強中も浮ついた気分でいるので、フリートヘルムが嗜めるほどだった。
兄妹の仲睦まじい様子はすぐに王城中に広まって、それをフリートヘルムは何か危ぶんでいるようだったが、エルフリーデに対しては心配させまいと、それを噯気にも出さなかった。
しかし、フリートヘルムの水面化の働きも虚しく、事態は既に動き始めているということを、彼はまだ知らなかった。
「──エルフリーデ様は、本日もアレス殿下とお散歩ですかな?」
その男がにこやかに話しかけてきたのは、エルフリーデが春を間近に迎えた庭園を見学している時だった。
アレスと待ち合わせた時間よりも早く来てしまい、時間を持て余したエルフリーデは、庭園の東屋に腰を下ろしてぼんやり庭を眺めていたのだが、急に知らないおじさんに話しかけられて、びっくりして飛び上がってしまった。
「ああ、驚かせてしまったようで申し訳ございません。私はドミニク・フィードラー。王室塔の侍従第三室、室長でございます」
侍従室というのは、王族の身の回りの世話をする従者達を管理する部門だと、エルフリーデは本で読んだ内容を思い出した。
王城の侍従は下働きを含めると、それこそ膨大な人数を抱えているため、侍従室は五つに分けられていると本には記されていた。
「第三室と言うと、妾妃達やその子供付きの侍従達の管理をなさっている部署ではありませんでしたか?」
「よくお勉強なさっておいででございますね。仰せの通りでございます。今はもう、公妾はどなたもおいでではないので、その他の部署の手伝いをするばかりの部屋でございますよ」
男は一見、人好きする笑顔を浮かべていたが、エルフリーデはどこか居心地悪く感じて、ベルタに習った愛想笑いを顔に貼り付けた。
「第三室の方が、私に何か御用事ですか?」
第三室は当然、妃でも、その子供でもない花の蜜は担当外の部署で、彼女に関わる仕事は無いはずだ。
「いえ、そんな。大したことではありません。ただ、エルフリーデ様はアレス殿下に気を許していらっしゃるようですから……王位継承争いについてご存知ないのではないかと、心配になりまして」
「たくさんの弟妹が亡くなったり、城を追われた中で、唯一お兄様だけが残ったという話はフリートヘルム様から耳にしています。しかし、私は花の蜜ですので、関わり合いのないことですわ」
「ええ、全く仰る通り。しかし、アレス様は件の血で血を洗う争いに大変心を痛めておいででしょうから、新しい家族として迎えられた貴女を、気慰みに都合よく愛でているだけではないか、と。それでは貴女様が余りにも不憫ではございませんか」
エルフリーデは、目の前の男がどうしてそんな話をしているのか、不思議でならなかった。
このおじさんがそんなことを心配して、一体何になるのだろうと、心の中でしきりに首を傾げる。
「失ってしまったものの代わりに何かを大事にする事は、悪いことなのですか?」
エルフリーデは思わず口を開いていた。
フィードラーは一瞬口を閉じて、哀れみの色を濃くした口調で、尚も続ける。
「それでは、犬や猫と同じではありませんか」
「人と、犬猫に限らず、草花や虫でさえも、生き物は全て同価値だと、妖精は考えるそうですよ。私は花の蜜ですから、彼らと考え方は同じです。そう考えると……何も問題ありませんね」
今度こそ、フィードラーは閉口してしまった。
返す言葉がなくなった男を、エルフリーデは不思議そうに見上げて、首を傾げた。
「心配してくださったのはありがとうございます。でも、私、お兄様が私を可愛がることで悲しい事を少しでも忘れられるなら、それでいいと思います」
「貴女は気慰みに利用されているだけだとしても、よろしいのですか?」
「お兄様はそんな器用な人ではございませんし、それに……」
エルフリーデはフィードラーを見据えて、にっこりと笑った。
「私も、妹になったからには、お兄様が私にしてくださったように、あの方の心の穴を埋めて差し上げたいのです」
初めて王城で迎えた夜を、エルフリーデは思い返す。
寂しくて泣きながら目を覚ました時、怪しさ満点の怪人さんが手を握ってくれていたのだった。
不思議と怖くなかったのは、何故だろうか。
「王族は、貴女様のような元平民を家族として扱いなど──」
「フィードラー卿、何をしている」
静かな声が東屋に届いて、フィードラーは慌てて口を閉じ、取ってつけたような笑みを浮かべて振り返った。
「これはこれは……アレス王太子殿下」
アレスはツカツカと歩み寄ると、エルフリーデとフィードラーの間に割り込むようにして立ち、彼女を背に隠す。
「第三室の侍従達は皆、第一室の補助に向かっていると聞いたが、卿は行かずとも良いのか?」
アレスの初めて聞く冷たい声に、エルフリーデは目を瞬かせた。
「は、それは……エルフリーデ様との話に時間を忘れておりましたな。それでは、私はこれで」
フィードラーがそそくさと東屋を立ち去り、庭から消えると、アレスは伸ばしていた背筋を力なく緩める。
エルフリーデを振り返らないまま、アレスはポツリと呟いた。
「其方は、犬猫なんかじゃないぞ」
「あ、聞いてたんですか?」
アレスは歯を食いしばり、震える両手を握りしめた。
「僕は、其方を利用しようなんて、そんなつもりは無かった──いや、自分でも気づいてなかっただけ、なのだろうか」
アレスは振り返ると、エルフリーデの両肩を掴んで、苦しそうに薄紫の瞳を歪めた。
「僕は、其方に優しくする度、謝る度、心が軽くなる。救われるような、許されるような、そんな気持ちになるんだ。それは其方を利用しているだけだと言われれば、僕は──否定できない」
いつの日か叔父に言われた言葉を、アレスは不意に思い出した。
自分の望みを押し付けてはいけない──彼が言った事は正しかった。
「其方に縋ってしまって、悪かった」
「……お兄様」
エルフリーデは目の前で打ちひしがれている兄に手を伸ばし、頬を両手で包んだ。
「兄妹なんですから、寄りかかってもいいんですよ」
ペパーミントグリーンの瞳が、真っ直ぐにラベンダー色の瞳を見上げる。
「寂しいじゃないですか」
「さみ、しい?」
エルフリーデは強く頷く。
「お兄様が辛い気持ちを抱えたまま、一人で立っているなんて、寂しいです。私、まだ妹になったばかりですけど、お兄様がとっても優しいって知ってますから……そんなお兄様が誰にも寄りかかれないなんて、そんなの嫌です」
エルフリーデはアレスの頬に添えていた両手を、そのまま彼の背に回して、力一杯抱きしめた。
「ですから、お兄様が苦しい時はこうして抱きしめて、妹を甘やかしてください」
「エルフリーデ……」
「私、七歳の誕生日までの記憶が無いですけど、妹は……私が抱きしめると嬉しそうだったので、きっと妹というのは抱きしめると喜ぶ生き物なんです。私を甘やかして救われるというなら、どんとこいです」
アレスは、エルフリーデを見下ろして、躊躇いがちにその背に手を回した。
柔らかな薔薇色の髪が頬をくすぐって、腕の中が暖かい。
初めはこわごわと触れていたアレスだったが、じわじわと内側から氷を溶かされる感覚に、思わず腕の力を強めた。
「……お兄様?」
アレスは返事ができなかった。両目からぼたぼたと大粒の涙が溢れ出ていた。
嗚咽をこらえる事で精一杯で、ただ目の前の温もりに縋り付くしかできなかった。
エルフリーデはじんわりと肩を濡らすものに気付いて、そっと兄の頭を撫でた。
「其方は、僕の光だ」
涙声で呟かれた言葉に、エルフリーデはキョトンと首を傾げる。
「妹ですよ?」
「あぁ──そうだな」
アレスは泣きながら笑って、力一杯抱きしめると、流石に苦しくて、エルフリーデはポカポカと背中を叩いて、抗議の声を上げた。




