たった一つの望み
アレスはその日の晩も、エルフリーデの部屋へ足を運んだ。
フリートヘルム以外の誰かに知れる前に、彼女の元へ通う頻度を減らす事も頭を過ぎったが、悩むまでもないことだ。
”妹”が待っていてくれるのだから。
アレスは精霊塔の外壁にある、人一人が辛うじて立っていられるほどの狭さの足場に立つと、外套のフードをしっかりと被ってエルフリーデの部屋の窓に手をかける。
最初のうちはその不用心さを多少訝しく思っていたが、フリートヘルムの警報装置の話からして開くことのできる人物に制限があるのだろう。
何にせよ、アレスは拒まれることなく窓を開けてくぐり抜けると、毛足の長い絨毯に足を下ろした。
「あら、怪人フードマント様!」
エルフリーデはカウチで本を開いていたが、窓が開く音がすると、顔を上げて本を置いた。
「今日もきっといらしてくださると、心待ちにしておりました」
アレスはニコニコと嬉しそうにしているエルフリーデの隣に腰を下ろすと、柔らかな薔薇色の頭を撫でた。
「其方は会う度に、言葉遣いが姫らしいものに変わっていくな。よく頑張っていて偉いぞ」
「フードマント様には、練習台になっていただいて感謝しております」
「僕と話している間くらいは、気を抜いてもらっても構わないんだが」
「それでは練習にはなりませんもの」
この部屋にアレスが通うようになって、一月が過ぎた。
言葉遣いの練習は、アレスがこの部屋に頻繁に通う良い口実だった。
言い出したのはエルフリーデだ。
『この部屋に怪人さんを入れても許してもらえそうな、とっても良い言い訳を思いつきました!』
と、ペパーミントグリーンの瞳を輝かせて、彼女は宣った。
素性の知れない子供を部屋に入れるのは褒められることではないと、二度目にこの部屋に訪れた際にアレスはエルフリーデにはきちんと伝えた。
当のアレスが後から言っても説得力がないことは、もちろん彼自身分かっていた。
しかしエルフリーデは、それでも彼に話し相手になってもらうことを望んだ。
『怪人さんとお話ししていると、寂しい気持ちが消えていくんです。怪人さんも、私とお話ししていて寂しい気持ちがなくなってくれていたらいいんですけど』
エルフリーデはそう言ったが、アレスにはよく分からなかった。
彼女に寂しい、なんていう弱音を吐いたことは無い。”兄”としてそんな情けないことはできない、と彼は思う。
けれど、エルフリーデが寂しくないと言ってくれた時、なんだか胸の内がポカポカして、いつも感じていた寒々しさが薄れていった。それだけは確かに、感じたのだった。
「……寂しい思いはしていないか?エルフリーデ」
これは、アレスが彼女の部屋に来る度に欠かさず掛ける言葉だった。
勿論、今日も。
「はい! 精霊塔のみなさんもいらっしゃいますし、怪人さんと今日もお話しできるのですから!」
アレスが部屋を訪れるたびにエルフリーデに笑顔が増えていく。きっと自惚れではないと、アレスは思う。
ただ言葉遣いだけは、怪人フードマントが部屋に招かれる言い訳として決めた通り、エルフリーデは習ったばかりの丁寧な口調を徹底していたけれども。
「その本は何を読んでいたのだ?」
「これは暁の国の成り立ちについての本ですわ。息抜きに読んでいるものですが……今読んでいるところは、施政機関の”塔”について書かれています」
エルフリーデは本を膝の上に乗せ、アレスにも読めるように広げた。
「暁の国の王城は大小様々な塔の集まりであり、中でも最も権威ある”王室塔”の下、施政を担う塔は”精霊塔”、”財務塔”、”軍事公安塔”、”学問塔”の四つである。また、”学問塔”は教育機関としても……ん?」
アレスは読み上げると、エルフリーデの顔をまじまじと見つめた。
エルフリーデが首をかしげると、アレスは呆れの混じった声で、心底不思議そうに問いかけた。
「其方、これは”息抜き”に読んでいるのか?」
「え? ええ、はい。フリートさんが、『息抜きにぴったりな子供向けの本』ですからと、私にくださったのです」
「叔父上は何故、学問塔の初年度の教科書を”息抜き”などに渡しているのだ……」
はぁ、とため息をついて、頭をかかえるアレスだったが、エルフリーデはコテリと首を傾げた。
「叔父上?」
「え? あ、──ッ! いや! そ、そ、その……その……っ! き、聞き間違いだ!!」
自分の失言に気がついてサッと顔を青くしたアレスは、どうにか言い訳を考えようとしたが、とっさに何も思い浮かばず、口をついて出たのはそれだけだった。
もちろん、そんな言い訳ではエルフリーデも納得はしない。
エルフリーデは新しい事実に興味津々といった風に身を乗り出した。
「わぁ、フリートさんに甥っこさんがいるなんて初めて知りました! フリート叔父さんですね!」
「こ、言葉が、崩れているぞ……エルフリーデ……! そ、そもそもだな、怪人に叔父なんていない!」
間近にエルフリーデの顔が迫って、アレスはラベンダー色の瞳を泳がせ、しどろもどろに誤魔化す。
一向に認めないアレスに、エルフリーデは身を引くと、お姫様らしく手に口を当てて笑った。
「ふふふ。怪人様がそう仰るのであれば、きっとその通りなのでしょう」
「わ、笑わないでくれ……」
エルフリーデは耳を赤くして顔を手で覆っているアレスを覗き込んだ。
怪人を名乗っているくせして、彼はとても素直な反応を見せる。
彼のそんな一面こそがエルフリーデの心を暖めていることを、アレス自身は気づいてはいない。
「怪人フードマント様がいらしてくださると、いつも笑って眠ることができるので、私、あなたにはとても感謝していますの」
「其方が穏やかに眠れるのなら……それなら、多少笑われても、構わないか」
アレスは初めてこの部屋を訪れた時の事を思い出す。
彼はあの日、いずれ近いうちに妹となる者が精霊塔へ到着したと聞いて、いてもたってもいられず、こっそり様子を確かめにやってきた。
精霊塔の客間の場所は、王子という立場上、公務で何度も通されたことがあるために知っていた。
最初は、アレスは部屋に入るつもりはなくて、窓の外から顔を見たらすぐに帰ろうと決めていた。
しかし、窓から様子を伺うと──その決心は揺らいだ。
窓の側の寝台の上で、一人の少女が眠っている。
月明かりを受けて艶を放つその髪は、祖父と眺めた絵画と同じ薔薇の色をしていた。
──やはり、僕の髪色とは全然違う。
アレスは呆然と見惚れながら、小さく呟いた。
早く帰らなければいけないのに、アレスはその場を動けず、そうしているうちに少女は寝返りを打つ。
反対側を向いていて見えなかった少女の顔が見えた。その、閉じられた瞼から、宝石のような涙が溢れた。
ポロポロと少女が眠りながらも泣きじゃくる姿を見て──気がつくと、アレスは彼女の部屋の中で、彼女の脇に跪き、その手を握っていた。
『すまない』
口から自然と発せられた言葉は、不思議と、口にするだけでアレスの中に重くのしかかっていた鉛の塊をじわりと溶かすようだった。
目の前の少女に向けて発せられたはずの言葉だった。
国の、王家のために、家族から引き離された少女に対する言葉だったはずだった。
しかし、アレスはずっと”家族”に対して謝りたかった。
継承争いによって命を奪われていった兄弟たちへ、自分のために手を染めたというのに、最後の瞬間まで会いに行けなかった母親へ、自分の赤髪が誰かを彷彿させるために狂わせた祖父母へ、家族を失わせてしまった父へ。
アレスの罪の意識は全く彼が負う必要のない物で、むしろ彼は被害者だったが、継承争いに生き残った王子は完全に腫れ物扱いとなり、それを彼に諭す者は誰もいなかった。
『……すまない、エルフリーデ』
気づけばアレスも、その薄紫の瞳から大粒の涙をあふれさせていた。
彼は何度も謝りながら、自分が今詫びているのは、彼女を家族から引き離してしまったためなのか、それとも新しい"妹”へ、失った家族の身代わりに詫びているのか、分からなくなってしまった。
──ただ、彼女の手を握っていると、どこか許された気持ちになれる。
小さな星明かりのようなものを手のひらの内に捕まえられた気がして、アレスはそれに縋った。縋るしか、なかった。
そうしているうちに、アレスも泣き疲れてしまって、エルフリーデの右手を握ったままストンと眠りに落ち──気がついたら彼は、怪人フードマントと名乗る羽目になっていたのだった。
「……フードマント様? いかがされましたか?」
ぼうっと思い返していたアレスの顔を、エルフリーデが覗き込む。
彼はエルフリーデの視線に気がつくと、青緑の瞳から逃れるようにフードをぐいっと深くかぶり直した。
「なんでもない……。初めてあった日のことを思い返していただけだ。……其方が泣きながら眠っていた日のことを」
「まぁ、懐かしいですわね。どこぞの怪人様のおかげで、最近は安眠できておりますけれど……この日々も直に終わってしまうのですね」
エルフリーデは寂しそうに目を伏せた。
彼女の王女としての教育はあと数日で終わり、近いうちに正式に養子縁組の手続きが取られることになっている。
そうすればこの客間とはお別れだ。
怪人フードマントの正体を知らないエルフリーデは、彼がこれから会いに来ることができるのだろうか、きっと難しいだろうなと、半ば諦めていた。
「あの、フードマントさん。これからもずっと、私の友達でいてくれますか?」
ふいに普段の口調に戻ってエルフリーデが問うと、当然だがアレスは言葉に詰まる。
彼は王子なので、友人ではなく兄になるのだから。
「む、難しい。……難しいが、案ずるな。私は其方と会えなくなるわけではない。むしろよく顔を合わせることになるというか……傍にいられるというか……」
「あ、やっぱり王城に住んでいる子だったんですね」
「そうやって正体を探ろうとするんじゃない!」
悪戯っぽく笑うエルフリーデに、アレスは、まったく、と困ったように笑って彼女の頭を撫でた。
──彼女の笑顔を見ているだけで、少し苦しいくらいに、胸が熱くなる。
”妹”に対する気持ちにしてはどこか熱の籠った感情だったが、アレスにはよく分からなかったので、今は考えないことにした。
「大丈夫だ、エルフリーデ。僕はずっと一緒だ」
友人として傍にいられなくても、これからは兄妹になる。
この小さな光を誰より側で守ることが、彼には許されるのだ。
エルフリーデを守る。いつの間にかそれが、彼の唯一の望みとなっていた。
──ふとアレスは、フリートヘルムの言葉を思い出す。
『貴方の望みを、押し付けてはいけませんよ』
彼は押し付けているつもりなどない。
ただ”妹”を守りたいだけだ。それだけが、何か悪いことのはずがない。
アレスは、叔父の言葉をそっと頭の隅へ押しやった。




