三、 1986.04①
無機質な白い壁。
リノリウム貼りの廊下。
いびつなH形の建物の中に俺はいた。ベンチが備え付けられたピロティの壁に設置されている掲示板には、
〝入学おめでとうございます!〟
から始まる挨拶文が貼られている。
そのベンチにぼんやりと座る〝おれ〟は、真新しい紺色のブレザーを着込み、同じ紺色のネクタイを緩く締めていた。
今度はどうやら、入学直後の高校の記憶らしい。
実は、俺は高校の記憶をほとんど持っていない。理由はわからないが、現在交流のある友人もおらず、学校生活の思い出もない。
そう思っていたのだが、どうやら思い出さない、或いは思い出したくない記憶として、脳内には収まっていたのだろう。朧げながら覚えていた、さっき見た最初の記憶とはまた違う観方をすることになりそうだ。
俺はこの異様な現象に対して、既に腹を括ってしまったので、もはやすっかり観客気分である。
ピロティというのは言ってみれば踊り場のようなものだ。そこには簡易的なベンチが置かれ、そこでクラスを超えた友人と昼食を共にしたり、恋人と待ち合わせて一緒に帰ったり遊びに行ったりするために使われる。
俺は今、そんなピロティのベンチの隅に、柱に身体を預けて座っている。
そうだ。俺はこの場所でボーッとしていたんだった。その目に映るのは様々な行き交う生徒達。笑ったり揉めたり無表情だったり、バラエティに富んだ彼らの様子を、何の気なしに眺めるのが好きだった。
校内スピーカーの電源が静かに入る。数秒後に鳴り始めたチャイムは恐らく、午後の授業開始の合図だ。とはいえ今は恐らく入学仕立てのタイミング、授業といってもまだ本格的なものではない。
案の定、授業の前半は中学で履修した英文法の小テスト、後半はその答え合わせという流れで終わった。
午後2つ目の授業は委員を決めるロングホームルームとなっており、俺は無難な役職に収まった。
――つまらんな。
正直な〝俺〟の感想だ。これがなぜ、俺の記憶として残されていたのかが全く分からない。そもそもここまで観ていても、これが実際に起きたことかどうか、むしろどうでもいいようなことではあった。
動いたのは、放課後になってからだった。
当時、席の前後でよく話すようになった同級生と少し歓談していた時、俺の席のすぐ後ろにある扉がバンッ! と乱暴に開け放たれた。
「なぁ、中里って奴いるー?」
このクラスに中里という名字の人間は〝おれ〟しかいない。そしてこの来訪者の口調からして、あまり嬉しい用事ではないのは確実だった。チラッと目に入った彼のスリッパは、同じ一年生の使う深緑色だ。
まだ編成されて間もないクラスで、特に関わりのない人間の名字を把握している生徒は少ない。その例に漏れず、誰も中里が何者なのかが分からない様で、未だ半数以上が残るクラスが静まり返る。
「あれ、いねーの? そっこー帰った?」
「……ねえ」
話していた同級生が小声で話しかけてきた。
俺は面倒なので小さく首を横に振るが、その様子が来訪者の目に止まってしまったらしい。
「あーねえ、お前ら知らねー? 中里って奴。ちっと探してんだけど、知ってたら教えてくんねーかなー?」
……ああ。思い出した。なるほど、これは覚えていてもおかしくない。
――これは、俺がうっかり〝高校でもデビュー〟してしまった時の記憶だ。
「……誰だよあんた」
「お? お前が中里って奴ー? ……あー、確かにお前っぽいわ。すげー目つき悪いし」
そう言ってニヤニヤ笑う彼は、俺より少し背が高いようだ。少なくとも俺より腰の位置が高い。更に細い。髪は肩にかかるくらいでオールバック。ブレザーを着崩し、ネクタイをやたらに緩く縛って垂らす。控えめに言って趣味があまりよろしくない。
所謂〝高校デビュー〟と呼ばれる不良の、当時の典型的なスタイルだった。
「ちょー探したんだけど。俺の先輩がお前呼んでるから、ちっと来いよ」
「あ? 先輩? なんで?」
「知らねーよ、とにかく来いよ」
「ていうか何で俺の名前知ってんだ。ここの先輩に知り合いなんかいねえぞ」
「うっせーよ! 俺が来いつってんだから来いよグダグダ言ってねえでよお!」
がん。
高校デビュー氏が、俺の机を蹴った音だ。
「ひっ」
同級生君が怯えた声を出した。こういうことは慣れていないのだろう。可哀想に、震えて縮こまってしまっている。
俺の、初めて出来たかもしれない、高校の友人が、俺の目の前で怯えている。
そう思った時には、俺は立ち上がってしまっていた。
「……てめぇ、誰にアヤつけてんのか分かってんのか」
「あ!? なんだてめえ!!」
どん!
「きゃあっ」
高校デビューが、今度は隣の席を蹴る。そこは大人しい感じの女子の席で、彼女は帰り支度をすませたところだったようだ。
「うっせぇんだよ! ビビってんじゃねえよブスがよぉ!!」
――ああ、駄目だ。完全に思い出した。
俺は、大して身長の高い方ではない。むしろ平均より少し低い位だろう。制服を着崩しいるわけでもない。そういうのはもう、中学で卒業した、はずだったのだが。
「ごほおっ!!」
気づけば〝おれ〟は、高校デビューのネクタイを掴み、そのまま教室の壁に押し付け――むしろ叩きつけていた。
「てめえが用あるのはおれじゃねえのかよ? あっちこっちに迷惑かけてんじゃねえクソが。……殺すぞ」
「が……はっ」
デビュー氏は、必死に手を振り払おうとするが、如何せんおれの握力は、彼の細腕で外せる様な優しいものではなかった。
〝俺〟はまるで他人事の様に感じつつ、このバイオレンスアクションをもはや楽しんでいる。そもそも、俺の記憶で、既に起きてしまったことだ。俺が干渉出来るはずもない。
であれば、もうこれは見届けるしかないのだと、俺はかつての武勇伝に下衆な笑みを浮かべた。
「な、中里! 足、足浮いてるって!」
「え? ……あ」
俺、というか〝おれ〟はいつの間にか、壁に押しつけたデビューの身体を、足が浮くほど片腕で捻り上げてしまっていた。
思わず手を離すと、デビュー氏がどさりと床に落ちる。おれはその髪を掴むと、強引に顔をこちらに向けさせた。
「……で、てめえはどこの誰なんだよ」
「え、あ」
「何組の誰だって聞いてんだよ!」
「な! ……7組、合田、です……」
「ごうだ、な。じゃあごうだ君、その先輩に伝えろよ」
「何をだ……ですか」
ごうだ氏、すっかり怯えてしまっている。今となっては可哀想にと同情もするが、この当時はそんなことはどうでも良かった。
「てめえが来い」
「……え?」
「用があるならセンパイがこっちにいらっしゃいませやがれって伝えろ」
「え、いや、そんな」
「うるせえ」
「あ、はい……」
「あ?」
「わかりました! 失礼します!」
カクカクした動きで出ていくごうだ君を見送り、おれは席を整えてカバンを背負った。
「ごめん、あれはビビるよな。おれに用があるだけみたいだったから、今度来たらすぐ呼んで」
「あ、うん。……中里君、もしかして中学で荒れてた?」
「……聞かないで、もう卒業したんだから」
――――
帰り道、自転車を漕ぎながら考える。
――まだ入学して一週間も経ってねえし、別に何もしちゃいねえし。先輩でここに入った人はいないはずなんだけどなぁ。
〝おれ〟のその疑問は翌日、センパイ氏によって明かされることになるのだった。




