二、 1975.05
――ここは、どこだ?
擦り切れた畳、薄そうな砂壁。視界には小さくて柔らかそうな手、そして足。
驚いたのは、それがどうやら、俺の手足だということだった。
掌を眺めてみる。だが手は軽く握られたままで、俺の思う通りに動いてくれない。足も然りで、膝を立てようとしても、その短く柔らかい足は、ポンと前に放り出されたままだった。
つまり、今の俺は、この身体の持ち主の眼だけを借りている状態、ということなのか。
ということは、これは誰なのだろうか。そもそもこの状況は一体。
何をどう考えてみても謎しか出てこないこの状況に、決して小さくない一石が投じられた。
「あ、まーくんおっきしたのー?」
まーくんというのは俺が眼を借りている彼のことだろう。奇しくも俺が小さい頃の呼び名と同じ――。
今、誰が俺の名を呼んだ?
……俺の、名?
話しかけてきたのは遥か昔に聞いた聞いたことのある――若い頃の母親の声だった。見るとまだ二十代後半の母親が、赤ん坊を抱いて立っている。あの子はそうなると恐らく、妹の亜季ということなのだろう。
「んー……」
俺が大きく伸びをする。どうやら昼寝をしていたらしい。小さな敷き布団の上で起こした身体に、タオルケットが纏わり付いていた。
「おやつ、クッキー焼いたから食べようね」
「うんー……」
まだ寝ぼけているという風の俺が生返事をした。これが高校生の頃なら『ちゃんとはっきり返事しろ』と怒鳴られていただろう。この頃の我が母は随分と優しかったらしい。
亜季を俺の傍らに座らせ、部屋の片隅に立てかけられている折りたたみの卓袱台を出す。母はそのまま台所に戻り、皿に乗ったクッキーを持って現れ、卓袱台の上に置く。焼きたての少し香ばしい小麦の香りが鼻をくすぐった。
「っきー!」
亜季が歓声を上げる。今が何年かは知らないが、〝クッキー〟をちゃんと言えないあたり、まだ二歳になったかどうかというところだろう。ということは、俺は今、四歳児ということになる。
――これは、所謂〝走馬灯〟というやつなのだろうか。
記憶はある。ほんのかすかな思い出ではあるが、産まれてすぐ、幼稚園の年少さんまで住んでいたのは、確かに安アパートで、砂壁だった。ガリガリと削って遊んで叱られた覚えもある。この後、建築設計士だった親父の建てた一軒家に引っ越したはずで、そこでは砂壁は使っていなかったはずだ。ということはつまり、今俺が見ているのは恐らく、俺の最も古い記憶ということになるのだろうか。
それにしても、随分と穏やかな時間が流れている。決して裕福とは言えないが、静かで優しい時間。
そうか。
俺は、そして妹は、しっかりと愛されていたんだな。少なくとも、この時は。
そんなことを考えていると、〝ぼく〟の視界に妹の顔がアップで映り込む。口の周りをヨダレだらけにして、満面の笑みでぼくの口に何かを入れようとしていた。
「ありがと、あきちゃん」
ぼくは抵抗もせず、それをすんなりと受け入れる。それはお袋が焼いたクッキーの、妹の食べさしだった。相当な溺愛ぶりだ。
皿を見ると、ほとんどのクッキーがボロボロに崩れている。考えるまでもない、まだ食べると遊ぶの区別が上手く出来ない妹の犯行だ。台所に戻っていたお袋が再び現れ、その惨状を見て言う。
「あ、あきちゃんまたやっちゃったの? まーくん、こういう時は怒っていいんだからね? ぶっちゃだめだけど、イヤなことはイヤって言うのよ?」
「……うん。でもぼく、イヤじゃないの。あきちゃん、ぼくにクッキーどうぞってしてくれたんだよ」
「どうせ食べかけでしょう?」
「わかんない。でもおいしかったし、うれしかったから、いいの」
「……そっか」
「おいーちゃ、おいち?」
「うん、おいしいよ、ありがとうね」
今の身体があったなら〝俺〟は恐らく泣いていただろう。
かつての俺に、こんなに優しい空気があった。こんなに穏やかな時が流れていた。かつて学生運動に身を投じていたお袋が子供達には甘くて、優しくて。まだはっきり〝お兄ちゃん〟とすら言えない、わがままだけど可愛くて仕方のない妹がいて。仕事で家にいない親父も、当時は本当に強くて、格好良かった。
そんな思いに浸っていると、あたりの風景がぼやけ始めているのに気づいた。俺の最古の記憶はどうやら、ここまでらしい。
ぼやけた風景が闇に溶け、真っ暗になる。
俺は瞑っていた眼を開いた。
――――
「今のは……」
眼を開いた時、周りの景色は件の路地裏に戻っていた。
「まだ生きてるのか……」
さっきの記憶が走馬灯だったにせよ、今俺が生きているのは間違いないらしい。それが証拠に、俺の眼からは大量の涙が滂沱と流れ続けていた。
――俺は一体どうしたんだ。〝ここ〟は、本当に〝ここ〟なのか?
さっきのが走馬灯だったとして、こんなに落ち着いて観られるもので、まだ現実に戻るなんてことがあるのか?
――それとも、さっきから俺はずっと、一つの走馬灯の中にいるのか?
置かれている状況に謎が多すぎる。そもそも、俺はまだ生きているのか?
考えたところで答えをくれる者がいるわけではない。
いいだろう。
これがどういう状況なのか、誰がこんなことをしているのかは知らないが、わざわざ俺にこんなことを仕掛けてくるのには、きっと何らかの意味があるのだろう。
だったら、付き合ってやろうじゃないか。どうせ今から帰ったとて、もう子供達は既に帰っているだろうし、夕飯のおかずも出来ている。信じてもらえるかは別として、帰った時に話のネタにはなるかもしれない。
そんなことを考えながら、俺は目の前に漂ってきた大きめの泡を指で弾いた。
――さあ、次はどんな記憶を魅せてくれるんだ?




