56.噂
その日、デイジーは夕方の遅い時間にデュート社へと戻ってきた。
今日は午前中に一枠の授業をこなし、午後は王立学園のクリケットクラブに二度目の特別授業を行ってきたのだ。授業後で顔見知りの教授と話し込んでしまい少し遅くなってしまった。本社の灯りは半分くらいしかついていない。
「疲れた……」
依頼料や指名料がかなり高いこの仕事は負担も大きい。
用意する資料はかなりの量になったし、リオネルからもらった過去問とクララの伝手で集めた直近の過去問の分析もしたりしてかなり大変ではあった。しかし臨時の収入は嬉しい。
デイジーはこの臨時収入を全て借金返済にあててしまうつもりである。
売れっ子家庭教師でもあるデイジーは、それなりの高給取りだ。実家の借金は変わらずに返しているが、以前のようにかつかつではなく無理のない一定額を返し、残りは余裕をもって食費や交友費に回している。デイジーはそれをやりくりして貯金もしていた。貯金の主な目的は、慰労金をほとんど使ってデイジーの家の借金の半額を返してしまったレイリーのためのものだ。
今回の臨時収入はそれらに関係ないので全額自由に使えるのである。
借金の繰り上げ返済を決めたデイジー。いよいよ明日は――
(ハーブ園デートだ)
そう、告白の日である。
自分は上手くリオネルに告白して再来月まで待っててほしいと言えるだろうか。
(いや、言うんだ)
デイジーが断固たる決意をしながら日報を書くために本社建物へと入ったところで、二階へ続く階段から話し声が聞こえてきた。
「どうせ間違った噂でしょ、だってデイジーはどうなるのよ。いい感じなのに!」
「そうなのよ。だから本当かどうか確認したかったんだけど、セシリアさんは来週まで出張中ですって。タイミングが悪いわ」
自分の名前が出ていたので、怪訝に思ってそちらを見ると先輩家庭教師二人が降りてきたところだった。二人はデイジーを認めると、しまったという顔で口をつぐむ。
「あ、あらあ、デイジー!」
「遅いじゃない、お疲れ様ね!」
いやに明るい声で言われてデイジーはとりあえず「お疲れ様です」と挨拶を返した。
「…………」
「…………」
微妙な沈黙が落ちて、デイジーはそろりと聞いてみた。
「…………あの、私の名前が聞こえたような」
あちゃーと先輩の一人が片手で顔を覆う。
「聞こえてた?」
「少しだけ、何かよくない噂でもあるんですか?」
「よくないっていうか……うーん」
「違うと思うんだけどね」
先輩達は顔を見合わせて困り顔になる。
「何でしょうか、教えてください。セシリアさんも関係あるんですか?」
聞いてしまった以上は気になってしまう。セシリアの名前も出ていた。会社に関係があることなら大変だ。詰め寄るデイジーに先輩は眉を下げながら教えてくれた。
「私が受け持ってる家の方がね、グランツ家の三男とセシリアさんが婚約する噂があるって教えてくれたのよ」
「へっ?」
デイジーは思わず変な声が出してしまった。
「セシリアさんが? リオネルさんと?」
寝耳に水の話だ。
目をまん丸にするデイジーに先輩二人は慌てた。
「デイジー、噂なんて信用ならないわよ」
「そうよ。三男ってあなたに片想いって宣言している人よね? 何かの間違いよ」
「ちょっと前の夜会でね、親しげだったんですって! でも二人は幼馴染だし、親しいのは当たり前でしょう!」
「えっ、お、幼馴染? 幼馴染なんですか?」
それも初耳である。でも以前に母親同士が親しいとセシリアは言っていたし、距離も近かった。
(そっか、幼馴染みだったんだ)
消沈するデイジー。
(まさか、婚約してたのに隠されてたとか?)
そう思って、いや、そうじゃないだろうと一度は頭を振る。
でも、セシリアはデュート社の玄関で会った時に『今度、話したいことがあるの』と言っていた。
(婚約の話だったんだじゃないかな……)
あの時、セシリアはデイジーに含みのある笑顔を向けてきた。憐れみや罪悪感からの笑顔だったのかもしれない。
(二人が婚約)
リオネルとセシリアがこっそり付き合っていたとは考えにくい。家同士の都合によるものなのだろう。侯爵家と伯爵家で爵位も釣り合うし、きっと両家にとって良い話だ。
(……)
セシリアに対してのリオネルは、かなりの自然体だった。男女の仲ではなくとも、気心の知れた仲なのは確実だ。
デイジーは自分の手がひんやりしてくるのが分かった。
「デイジー、そんな顔しないで、ちょっと聞いただけの噂なのよ。こんなところで話題にすべきじゃなかったわ」
「そうよ。今どき政略的な結婚なんて流行らないわよ」
先輩達が必死に慰めてくれるので、デイジーは何とか笑顔を浮かべた。
「だ、大丈夫です。噂は噂ですもんね」
「デイジー……」
できるだけ明るく言ってみたのだが、痛ましそうな目が向けられる。どうやら自分は上手く笑えていないようだ。
デイジーはそれから散々「気にしちゃダメよ!」と言われながら二人と別れ、日報を書いてからアパートへと戻った。
のろのろと鍵を開けて部屋へと入る。扉を閉めたデイジーはそこに寄り掛かった。
「リオネルさんとセシリアさん」
呟いて、並ぶ二人を想像するとお似合いで泣きたくなった。
噂はあくまでも噂だ。分かっている。
デイジーはリオネルのこともセシリアのことも、それなりに知っている。二人とも公正な人だ。デイジーに何も告げずに婚約を進めるなんてことはしないはずだ。
だから婚約の話はもしあったとしても、まだ何も決まっていない段階なのだろう。
(でも、お似合いだ)
セシリアは本当に素敵な人だ。美人でカッコいい優秀な家庭教師で、服のセンスまでいい。
容姿も才能も家柄もリオネルに合っている。
それに比べて自分はどうだろう。
家庭教師としてはそれなりにやっていけているが、それだけだ。元男爵令嬢というだけの平民で、実家は田舎の村。お金も人脈もない。
セシリアは伯爵家の令嬢で、おそらくいずれはデュート社の幹部で将来安泰だ。もちろん、そんな支えがなくともリオネルは立派に働いていけるだろうが、婚家の後ろ盾や人脈は薬師塔での出世にも役立つはずだ。
デイジーはここで初めて、自分とリオネルの身分差を思い知った。
グランツ家の人々は自分とリオネルの仲をどう思っているのだろう。苦々しく思われるのではないだろうか。
嘘告の間は、嘘だと思っていたから家格の差なんて気にならなかった。でも今は違う。三男とはいえ、侯爵家と平民の組み合わせは眉を顰められるかもしれない。
「…………」
ここ最近の恋に浮かれていた気持ちが萎れていく。なんだかひどく自分が惨めな気がした。
(明日、好きと伝えてどうするつもりだったんだろう)
リオネルは喜ぶだろう。きっと喜んでくれるだろうが、デイジーではその先に輝かしい未来を用意できない。
(借金を返したとして、それってマイナスじゃなくなっただけじゃん)
万が一、リオネルが自分と結婚することになってもデイジーには何もないのだ。
(あ、私のせいで婚約の話を断るとかもあるんじゃ……)
もし今、セシリアとの間に縁を結ぶ動きがあるなら自分は完全にお邪魔だ。そしてリオネルなら、デイジーに義理を立てるかもしれないと思った。
それは正しいことだろうか。
デイジーは愛がなくとも、それなりに満ち足りた結婚生活が送れることを知っている。
レイリーとの結婚がそうだったのだ。あれは結婚生活というより共同生活だったが、穏やかに暮らしていた。ほぼ初対面の自分達が何とかなったのなら、リオネルとセシリアはもっと上手くいくんじゃないだろうか。
(私が告白するのはマズいんじゃないかな)
リオネルには一時の恋情に流されて、好機をふいにしてほしくない。足を引っ張りたくはなかった。
「…………」
デイジーは悶々としながらその夜を過ごした。夕食はほとんど味がしなかった。食べた後は機械的に身を清めて無理矢理眠った。
そして翌日、デイジーはハーブ園デートには出かけなかった。寮住まいの同僚にお願いして、迎えに来たリオネルに体調不良だから今日は取り止めてほしいという伝言をして、一日中部屋にこもった。
❋❋❋
デートをすっぽかした二日後、デイジーは朝一番からデュート社の資料室に顔を出す。本日は午前中に一枠、午後に一枠の受け持ちがあるのだ。
恋は恋、仕事は仕事だ。
リオネルとの事は何の結論も出ていないが、それを仕事に持ち込むわけにはいかない。
予定を確認し、出勤票のチェックをしたデイジーはいつものように新聞を手に取る。
一面から順に目を通していき、三面記事の見出しまでたどり着いた時、デイジーは身を強張らせた。
そこには〈城の薬師塔で爆発事故〉とあった。




