53.変わる世界
夕方、宣言通りにリオネルは過去問の束を持ってやって来てくれた。
本社の応接室で受け取って確認すると、教科ごとに分けられて年代順にファイリングまでされている。
「おおー、とても見やすいです。もしかしてわざわざ整理してくれたんですか?」
「兄の分はもらった時に元々してたんだ。俺の分は慌てて並べ直した」
「ありがとうございます。これはすごく助かります」
「デイジーに喜んでもらえて嬉しいよ」
目元を赤くして照れ笑いする金髪の美形を見て、デイジーの胸は甘く締め付けられた。
リオネルがわざわざ手間をかけてくれたのも、一日に二度も訪れてくれたのもデイジーのためだ。
今日の日中も、隣を歩くリオネルは歩幅に合わせてゆっくり歩いてくれていた。大通りでは自らが車道側になるように体を入れ替えていたし、人込みからはデイジーをさりげなく庇ってもくれた。
端々で好意を向けられているのを感じて、どうしたって嬉しい。
嘘告で付き合っている時のリオネルも同じようなことをしてくれていたのだけど、あの時は嘘告を成功させるための手練手管だと思っていたのだ。ドキドキはしていたけれど、今日のようにじんわりと嬉しい気持ちはなかった。
「…………」
デイジーは嬉しい自分に困惑した。
(私、もしかして、またリオネルさんを好きなのかな……)
相変わらずのチョロさである。
こんなに簡単でいいのだろうか。
(今のところ、アプローチされたら100%落ちているのでは……)
因みにこれまでデイジーにアプローチしてきたのはリオネルしかいない。チェスターのはただの癖なのでカウントしなくていいだろう。なので100%だ。
(惚れっぽすぎない? これ、本当に好きなのかな? 誰でもいいとかじゃないよね?)
ずっとガリ勉でほとんど他人と接点がなかったから気付いていなかったただけで、自分は惚れやすいのだろうか。
(私、簡単な女なのかな……)
「――イジー、デイジー」
ぐるぐる考えていたデイジーは、リオネルの声にはっとした。
「ごめんなさい。考えごとをしてました。何ですか?」
「あ、うん。いや、えーと、よければ今度、新しくできたハーブ園に行かない?」
聞いてきたリオネルの目が泳ぐ。
(それってデート? デートだよね)
リオネルを見返すが目が合わない。挙動不審なのは珍しいなと全身を観察するとリオネルは右手の親指と人さし指を無意味にすり合わせていた。明らかにそわそわしている。
(緊張してるんだ)
デイジーをデートに誘うのに不安を感じて落ち着かないらしい。
察してしまうときゅうと胸が苦しくなった。
(…………この人、私のことが好きなんだ)
突然、すとんとそう腑に落ちた。
再会以来、何度も好きだと告げられてはいた。だから頭では分かっていたしドキドキもしていたはずである。
でもリオネルはいつも完璧で王子様のようで、どこかお伽話の中みたいだったのだ。そのせいか向けられる好意に実感はなかった。
それが今は痛いくらいにその気持ちを感じる。
(ど、どうしよう)
デイジーは慌てた。胸がどんどん苦しくなる。
「えっ……と」
「できたところで人が多いから、一人では行きにくくて……ごめん、言い訳だ。今日が楽しかったから次の約束が欲しくて、つい」
リオネルが小さく息を吐き、その眉が下がりそうになる。ああ、また寂しくさせてしまうと思ったデイジーは咄嗟に返事をしていた。
「行きましょう。行きます」
これは恋の再来なのかとか、自分は惚れっぽいのかとか、そのハーブ園は完全にデートだとか、いろいろ考えるのを一瞬でやめた。
リオネルが自分のせいで寂しそうに笑うのは見たくない。
「本当?」
「はい、楽しみです」
「そっか、嬉しいな」
リオネルがへにょりと笑う。デイジーの好きな笑顔だ。デイジーはきゅんきゅんしながらそれを見つめた。
無事に過去問を受け取り、ハーブ園デートの日取りも相談して部屋に戻ってきたデイジーはぼふんとベッドに突っ伏して今日一日について考える。より正確に言うと、リオネルが自分を好きなことについて考える。
「ふおおおおぉお」
胸がいっぱいいっぱいになってデイジーはベッドの上を転がった。
リオネルの緊張していた様子や、笑顔が甦る。ついでにブライズメイドのドレスの形を無難な半袖に拘ったことも思い出し、あれは好きな女の子の肌を他人に見せたくないという独占欲的なものからだと悟る。
「おおぉ」
今さら恥ずかしくなってくるデイジー。
もちろんリオネルがデイジーからの名前呼びに拘ったのだって、好きな女の子に呼んでもらいたかったからなのだ。
「おわああぁ」
過去問を持って来てくれたのだって、もちろん好きだからである。
「おおおおおお」
むずむずする。非常にむずむずする。
そしてそれと同時にデイジーは自分の気持ちにも気付いていた。
(どうしよう、嬉しい)
そう、嬉しいのだ。リオネルの気持ちを実感してから心臓はずっととくとくと跳ねている。幸せで嬉しい。
「…………」
これはつまり、自分もリオネルのことが好きなのだ。
好きになっていたとして不思議はない。そうなる要素はありすぎるくらいだ。
リオネルの顔は好みだし、足も長い。洗練されていて優しいし、何なら声も好きな声だ。
普段の笑顔にはきゅんとするし、たまに見せる気の緩んだ笑顔は可愛いと思う。
勉強や仕事への姿勢は真面目でいいと思うし、天才肌らしいお兄さんにコンプレックスがありそうなところには、勝手ながら共感もしている。
そしてデイジーは実は、リオネルにちょっと意地悪されるのにもドキドキしている。今日の“先生”呼びも狼狽えながらも嫌ではなかった。
いや、先生呼びは止めてほしかったのだけど、リオネルが自然体でいるのが嬉しかったのだ。もっとそういう部分を見たいと思うし、普段は全然見せてくれない情けないところも知りたいと思う。
「これ、かなり好きじゃん…………わあああぁあ」
口にした自分の気持ちに照れてデイジーは再びベッドを転がった。
(どうしよう、ここからどうするんだろう)
デイジーの色恋の経験はリオネルによる嘘告だけである。恋を自覚した後、何をすればいいのかはさっぱり分からない。
「えーと」
(とりあえず、現状把握では)
デイジーはさっきより穏やかにベッドをころころしながら自分の中の“好き”を検分してみた。己を知ることは大切だ。
リオネルのことを思い浮かべると、じんわりと多幸感が体を包む。
その声や手といった具体的で細かな部分を思い出すと妙に切なくて甘い気分になった。
「ひええ」
何だこれ。これが恋か。
嘘告の最中も自分は恋をしていたと思っていたのだが、あれとは全然違った。
今回はずっと生々しく鮮やかだ。見慣れた自分の部屋もいやに輪郭がはっきりしていていつもより鮮明に見える。世界が少し変わっていた。
「…………落ち着こう」
デイジーはベッドから起き上がり、ぼさぼさになってしまった髪の毛を整えると小さなキッチンでお湯を沸かした。
安い茶葉を丁寧に量って茶こしに入れる。少量のお湯で茶葉を馴染ませてから浸かるまで注ぎ、砂時計をひっくり返した。
さらさらと落ちる砂。ぼんやりとそれを眺めていると、その砂すら美しいと感じた。
(これは重症だぞ)
砂を眺めながら頭を抱える。
(落ち着け、落ち着くんだ)
デイジーは蒸らし終わった紅茶を持って静かに椅子に座り、できるだけ無の境地でそれを飲んだ。
紅茶は何もいれていないのに甘く感じた。重症である。
(まずは、好きって伝えるべきなのかな)
重症なりにそう考える。自分が告白するのを想像すると、かあっと顔に熱が集まり、不安が募った。
告白はかなり恥ずかしそうだし、たとえ自分を好きだと言ってくれている相手であってもリオネルの反応は怖い。
「…………」
これをリオネルは何度もしてくれていたのだ。甘い笑顔で言っていたけれど、実は緊張もしていたんだろうか。もしかしたら気付かなかっただけで今日の最後のデートの誘いのようにそわそわしてたのかもしれない。
想像すると思わず頬が緩んでしまい、デイジーははっとした。
(待て待て待て、デレデレしている場合じゃないから)
紅茶を飲んで顔を引き締める。紅茶は相変わらず甘い。
(まずは借金でしょう)
そう、それが問題だ。負債を抱えたままは嫌なのだ。
でもそれも半年後には終わる。
(半年……)
半年は長い気がしてくるデイジー。
「……繰り上げ返済しようかな」
ぽつりと呟いたデイジーは棚から借金の返済状況をまとめたノートを取り出した。
このままいくと完済は半年後だが、来月のデイジーにはクリケットクラブの特別授業で得られる臨時収入がある。生活費も貯金も全く考えなくていい臨時収入は全額返済にあてることが可能だ。
そうして臨時収入を全て返済に充てて計算してみると、再来月に全て返せることになった。
デイジーはしばらく考えた後に、借金を早めに返してしまうことに決めた。一緒に返している父には怒られそうだが、恋のためだ。
デイジーは恋のためにほんの少しの無茶をすることにする。何だか自分が物語の主人公になった気がした。やることは華々しいものではなく、ただの繰り上げ返済だけれど。
「ハーブ園で告白して、再来月まで待っててくださいって言おう」
デイジーは決意を小さく口にした。
(そしたら手も繋げるかな)
今日は結局一度も手を繋がれなかった。デイジーは最初は警戒していたくせに最後の方は少し寂しくもあったのだ。リオネルはデイジーの気持ちを尊重してくれていたに違いないのだけど、寂しかった。
「……次回、ちゃんと伝えるぞ。あと、まずはクリケットクラブの特別授業だからね」
自分に言い聞かせたデイジーは再び紅茶を飲む。
紅茶は甘く、世界は少し輝いていた。




