42.グランツ家の家紋
デイジーが大声を出そうとぐっとお腹に力を入れた時だった。デイジーの耳を触っていたサンドリーが息を呑む。
「…………これ、グランツ家の家紋じゃん」
耳元で狼狽えたような声が聞こえて手が離れる。その時、ばんっと扉が開いた。
革靴の足音がまっすぐに近づいてくると、誰かがぐいっとサンドリーの腕をひねり上げた。
「おい、何してるのさ」
耳に馴染みのある声。
(え?)
驚きながら顔を上げるとそこには少し髪を乱したリオネルがいて、サンドリーの腕を掴んでいた。
「…………え?」
小さく声が出る。
リオネルはサンドリーを引っ張ってデイジーから引き離し、その腕をねじり上げた。
「うわっ、えっ? なんで? いた、痛いよ、ご、誤解だって!」
「誤解?」
冷え切ったリオネルの様子にサンドリーは真っ青になってリオネル越しにデイジーに聞いてきた。
「き、君っ、グランツ家の後ろ盾あるの?」
「……後ろ盾?」
「うわあ、ごめん。ごめんね、さっきのはついうっかりだよ! 僕、侯爵家を敵に回すつもりは微塵もないからね」
真っ青になって弁解するサンドリーにデイジーは目を瞬く。
(グランツ家の後ろ盾? グランツさんが来たから? え? でもなんでグランツさんがここにいるの?)
頭の処理が追いつかなかった。呆然とサンドリーとリオネルを見ていると、リオネルがゆっくりとデイジーの方にやって来た。
「デイジー、大丈夫?」
「あ…………」
ついさっきまで感じていた恐怖と、リオネルの登場が突然すぎたこともあって、目の前にいるリオネルに現実味がない。ぼんやりと見返すとリオネルはデイジーの前に跪いた。
その眉がきゅっと寄る。
「震えてる」
言われて自分を見下ろすと膝が震えていた。その上で握りしめた手も震えている。
「ほ、ほんとだ」
そう返した声は自分でもびっくりするくらいにか細かった。
リオネルの雰囲気が一瞬鋭いものになったがすぐに引っ込み、そっと手を握られた。温かい大きな手。デイジーの中に安堵が広がり、震えが少しだけ収まる。
「遅くなってごめん。怖い目をさせてごめん。立てる?」
「はい、たぶん」
デイジーが立ち上がろうと足に力を入れると、リオネルも立ち上がって引っ張ってくれた。
「一人で歩ける? 手伝ってもらった方がいいかな」
リオネルが聞きながら扉の方を見る。デイジーもそちらを見ると、そこにはキャロラインが現れていた。キャロラインはデイジーに駆け寄ると腕を取って支え、サンドリーを睨みつける。
「お兄様っ、先生に何したんですかっ」
「キャロ、ごめーん。でも何もしてない、何もしてないんだよ」
「じゃあなんで謝ってるんですかっ! 大体なんでここにいるの? しかも先生と二人きりなんて!」
「謝っちゃうのは条件反射だよ。ほら、先生とは王立学園で少しだけ一緒だったみたいだからお喋りしてただけさ」
言い訳するサンドリーにデイジーは目を丸くする。サンドリーに見覚えはない。同級生だったとは知らなかったし、そんな話はしてない。
「ね、キャロ、父上と母上には内緒にね」
「するわけないでしょっ、お喋りなんて嘘ばっかり。先生っ、大丈夫でした? やだ、すごい鳥肌」
キャロラインはデイジーの衣服の乱れがないことを確認してから首や手の鳥肌を認めて眉を寄せた。
「えっ、鳥肌? それは傷つくなあ」
「お兄様は黙ってて!」
ぐわっとキャロラインが吠えてサンドリーは静かになった。
「先生、行きましょう」
キャロラインがデイジーの手を引いて扉へ向かう。
「あのっ」
扉のところでデイジーはリオネルを振り返った。
「俺のことは気にしないで、ちょっと彼に話があるんだ。クララが心配してるからデイジーは真っすぐに会社に帰るんだよ」
妙に圧のある笑顔でリオネルはそう返してきた。
「は、はいっ」
(…………グランツさんはシタラ家の令息に用があって来たってこと?)
何がなんだか分からないままデイジーはキャロラインに引っ張られて部屋の外へと出た。
サンドリーが視界から消えて、じんわりとデイジーの鳥肌が引いてきた。頭もしっかりと回り出す。
どうやら自分は下品なことをされそうになったが、何とか回避はできたらしい。
それにしてもさっきはなぜリオネルがいたのだろう。
(……夢?)
でも確かにいたのだ。
(いたよね? なんで?)
狐につままれたような気持ちになるデイジー。
(声を聞いたし、手も握ってくれたよね)
自分の手をじっと見つめているとキャロラインが必死に詫びてきて、デイジーは意識を戻した。
「先生、本当に兄がすみません。少しはまともになったはずだったのに信じられない。デュート社には我が家からきちんと連絡して謝罪もします」
キャロラインの目が潤む。まだ十三歳なのだ。
自分がしっかりしなくてはとデイジーは眼鏡をかけ直し、キャロラインに向き合った。
「はい、私も報告はしますね。でも謝罪をしていただくほどのことは起こっていません。お兄様は反省もしていたようですし、あなたも駆けつけてくれました」
「何言ってるんですか! 兄の言葉を信じてはダメです!あの人、いっつもこうなんですよ!へらへら、へらへらと」
「そ、そうですか」
「そうです! あの野郎、本当に許せない。帰りは誰かを付けた方がいいですか?」
「大丈夫です。鳥肌も引きましたし」
震えも収まっている。玄関を出ると既に馬車がつけられていた。
「絶対にきちんと報告してくださいね! 我が家に遠慮したらダメですよ!」
キャロラインに何度もそう念を押されながらデイジーは馬車に押し込まれ、シタラ家を後にした。
❋❋❋
「――ということがありました」
クララの執務室でデイジーは報告を終える。
デュート社に戻るとリオネルの言った通り焦ったクララが待ち構えていて、とても心配された。
すぐに執務室へと通され、デイジーはサンドリーに言い寄られそうになったことを伝えた。
「何かされた? 無理に言わなくてもいいのだけど」
「幸い、すぐに引いてくれたんです」
言いながら、そういえばサンドリーはなぜ引いてくれたのだろうと不思議に思う。リオネルが来たのもあるけれど、手を引っ込めたのは扉が開く前だった。
そして、そう、リオネルがいたのだ。
「あとなぜかグランツさんが来てくれて」
「よかった、リオネルは間に合ったのね」
クララがほっと息を吐いてそう言うのでデイジーは驚いて聞き返した。
「間に合ったとは?」
「ここへ来て、あなたがシタラ家に行ったと聞いて飛び出していったのよ。あそこの長男は手が早いことで有名だから」
「…………」
唖然とするデイジー。
(私のために来てくれたってこと?)
リオネルがシタラ家に現れたのは偶然ではなかったらしい。きゅうと胸が鳴る。
「血相変えて走っていったわよ」
デイジーの様子を見たクララが、意味ありげな笑顔になって付け足した。
「そ…………そうだったん、ですね」
(そう言われると、必死な感じだったような)
さっきはあまりにびっくりして状況が飲み込めないままだったのだが、リオネルの髪は乱れていたように思う。
おそらく昔のよしみでだろうけど、心配して駆けつけてくれたのかと思うと、胸が苦しい。
(どうしよう、お礼も言えてない)
後押しされるままに帰って来てしまった。挨拶も何もしていない。今度は青くなるデイジー。
「デイジーさん? 大丈夫」
「すみません、大丈夫です」
「とにかく、よかったわ。そしてごめんなさい。わたくしがもっと気を配るべきでした」
「そんなことは」
「いいえ、わたくしの落ち度だわ」
「違います。私が不甲斐なかったからです」
クララがすっかり気落ちしているので、デイジーは慌てて手を振って否定した。
男に距離を詰められただけで声も出なくなってしまうなんて、ちょっと情けなかった。
「ちゃんと撃退すべきでした」
「デイジーさんは悪くないわ……でも、そうね。流行り風邪が落ち着いたら、迫られた時の対策についての研修はするべきね。とりあえず今日はもう休みなさい」
クララが言い、デイジーはお言葉に甘えることにする。
最後にシタラ家ではキャロラインもサンドリーを止めようとしてくれたことを話し、あの兄のせいでキャロラインの勉強の機会が奪われるようなことがあってはいけないとも伝えた。
「考慮はします。でもシタラ家に抗議はするわよ」
「はい。クララさんも顔色がよくないですよ。無理しないでくださいね」
デイジーはそう返してから、本社裏のアパートへと戻った。
部屋で一人になるとどっと疲れが押し寄せる。
デイジーはよろよろとベッドまで歩き、うつ伏せにダイブした。ぼふんとベッドが音をたてる。
「はあ……疲れた」
慣れない生徒宅での授業だけでも気を遣ったのに、知らない男から言い寄られもして精神をごりごりと削られた。
(あと、グランツさんが来てくれた……)
あれは再会と言っていいのだろうか、でも再会したというほどの時間はなかった。
恐怖で固まってしまっていたのもあって、リオネルの姿もぼんやりとしか覚えていない。
(なんか夢みたいだった……でも、手の感触はちゃんと覚えてる)
デイジーはしげしげと自分の手を見る。温かく優しい感触だった。
こうして思い出すとリオネルに手を握られたことにひどくドキドキしてきたが、同時にサンドリーにも触れられたのを思い出してデイジーは顔をしかめた。
「気持ち悪かったな。あ、耳も触られたんだった」
シーツを引っ張りだして耳を拭こうとして、イヤリングを付けっぱなしだと気付く。そしてもう一つ思い出す。
(イヤリングを見て動揺してた……)
サンドリーはイヤリングを見て何かに気付き、その手を離した。
「グランツ家の家紋って言ってたよね」
デイジーは上半身を起こし、イヤリングを取ってクリップ部分を眺めた。そこにあるのは左右対称に咲く百合の花だ。
のろのろとベッドから出て、アラベラが貸してくれたままになっている貴族年鑑のグランツ家のページをめくる。
そこにはしっかりと家紋も描かれていた。イヤリングの刻印と同じように二輪の百合が咲いている。
「…………これ、家紋だったんだ」
改めて驚き、呆然とするデイジー。
元で、田舎だったとはいえ、男爵令嬢だったデイジーは家紋入りのアクセサリーが場合によっては一族の証になることは知っている。
(返した方がよくない?)
ドキドキしてくるデイジー。
因みにこのドキドキはときめきではない。“これ私が持ってて大丈夫か?”のドキドキである。
でもこのイヤリングはリオネルが持っていて欲しいと言ったものだ。
それを返すのは失礼になるだろう。あれからもうすぐニ年経つし、今さらでもある。
(プロポーズだったし)
心を込めて贈ってくれた品物なのだ。突き返すわけにはいかない。
(返せないなあ)
デイジーは小さく息を吐いてイヤリングを見つめた。
「……家紋の刻印は消そうよ。悪用されたらどうするの。助かったけどさ」
誰にともなくそう言ってデイジーは百合の花をなぞる。
それからもう一度、自分の手を包んでいたリオネルの手を思い出し、お礼を言えなかったことを後悔して、次にもしちゃんと会えたらきちんと挨拶してお礼も言おうと思った。




