40.代理
流行りの風邪はデュート社の家庭教師達の間でも猛威を振るいだした。どうやら風邪を押して出勤していた一人から準備室で広がったらしい。
仕方ない。これだけ流行っていればどこかでもらうものである。そんな中、デイジーは変わらず元気だ。昔から体は頑丈なのだ。
その日、休みだったデイジーはクララに呼ばれ特別顧問室に顔を出していた。
「休みなのにごめんなさい。またピンチヒッターをお願いしたいの。特別手当ては出すわ」
いつもに比べて精彩を欠いたクララが言う。
身に纏うドレスは動きやすさ重視の簡素なもので、化粧も控えめだ。何より雰囲気に覇気がない。
クララは先週、自身が流行り風邪にかかって伏せっていたのだ。
そして復帰した途端に事務員や教師達で風邪が大流行した。そのため溜まっていた自分の仕事に加えて、事務の仕事や欠員教師の穴を埋めるやりくりで、病み上がりなのに多忙を極めることとなり疲れがピークのようだ。化粧でごまかしているがその肌には艶がなく、目の下には隈もある。
「ピンチヒッターは問題ないですが大丈夫ですか? 顔色が悪いですよ」
「あんまり寝てなくて……気にしないで。こういう時は上の者が率先して無理をするものよ」
断言するクララ。デュートリンドン家の教えなのだろうか。
「倒れないようにしてくださいね」
無理をしないで、とは言えない状況なのは分かっているのでデイジーは控えめにそう伝えた。
「来週には皆戻ってくるでしょうし、それまで持てばいいわ」
「本当に倒れないでくださいよ?」
燃え尽きる気満々のクララにデイジーは語気を強くする。
「自分の限界は承知しているつもりよ。あなたこそ大丈夫? 頼もうとしているのになんだけど、昨日も代役を頼んだから午前も午後も働き通しでしょう?」
「私は田舎育ちですから」
「田舎育ちって関係あるかしら?」
「体力が違いますよ。それに学園時代のテスト勉強に比べればなんてことないです」
完璧を目指しがちなデイジーは二日くらいなら徹夜したこともある。若さもあって二日間の徹夜ならテストでもしっかり実力を発揮できた。
「…………あなたを見込んだわたくしの目に狂いはなかったのねえ」
「えへへ、見込んでいただいた恩返しもしたいですしね。今こそ私を頼ってください」
照れながら伝えるとクララは目を潤ませた。
「ちょっと、今はそういうのは泣いちゃうから止めてくれない? わたくし疲れてるから涙腺が弱いのよ」
クララはごしごしと目を拭い、上品に鼻をかんだ。
「ふう、みっともないものをお見せしたわね。さて、ピンチヒッターの話だけれど、アイアン女史が風邪に倒れてしまったから彼女が今日の午後にいくはずだったシタラ子爵家に行ってほしいの」
アイアン女史とは家庭教師陣最古参のベテラン教師である。シルバーグレイの髪をひっつめた彼女はとても厳しいが愛のある授業で有名だ。デイジーはこっそりこのアイアン女史を目標にもしている。
「アイアン女史の代理は荷が重いですが…………不肖デイジー、全力を尽くします」
デイジーは拳を握った。
「そんなに思い詰めなくてもいいわよ。助かるわ。シタラ家の概略と受け持ちの令嬢の様子は女史のファイルで確認して。授業は進めずに復習テストなんかでいいわ。何度か代理で入ってもらってるから分かっているでしょうけど」
「はい、お任せください」
デイジーはそう答えて、準備をしてアイアン女史受け持ちのシタラ子爵家へと向かった。
授業は恙無く進んだ。
シタラ家の令嬢は十三歳。はきはきした勝ち気な良い子で、アイアン女史に心酔していた。
令嬢はデイジーと一緒になって女史を心配し、二人で女史が回復した時にしっかりと認めてもらえるようにと己を磨く課題を考えまくって授業を終える。
その後、馬車を用意している間にこちらでお待ちください、と執事の方に言われてデイジーは玄関ホール横の小部屋でのんびりとソファに腰掛けていた。
目標としているアイアン女史の代理を何とか努められて大きな安堵に包まれていたデイジーは完全に気を抜いていた。
ぼんやりしていると、少し開けたままにしていた扉が軽くノックされる。
てっきり執事の方だと思って腰を浮かせたデイジーだったが、入ってきたのは貴族然とした若い男だった。
「やあ、こんなところにいたのかい」
にこやかに言いながら男は扉を閉めてデイジーに近づく。
見ず知らずの男が入ってきて扉を閉められたのだ。すぐに立ち上がって距離を取るべきだったのだろうが、男があまりに友好的なのでデイジーは動くのが遅れた。
男が人違いをしているだけだと思ったのだ。
「どなたかとお間違えでは、私はデュート社より参ったキャロライン嬢の家庭教師ですが」
戸惑いながら説明するデイジー。キャロラインは先ほどまで教えていたシタラ子爵家令嬢の名前である。
「知っているよ。僕はサンドリー、キャロラインの兄だよ」
甘い笑顔でサンドリーが言う。まとう雰囲気はチェスターと似たものだ。
ここでやっとデイジーは警戒モードになる。さっと立ち上ろうとしたのだが、目の前まで来ていたサンドリーはソファの背もたれに手をおくとデイジーに覆いかぶさるように身をかがめた。
びくりとデイジーの肩が跳ねる。囲い込まれたと分かって一気に怖くなった。
こういうのは不慣れだ。男性とのお付き合いはリオネルとしか経験がない。
そしてリオネルはいつもきちんと距離を保ってくれていたので、触れ合いなんて手を繋いだだけだ。
デュート社ではチェスターがちょっかいをかけてくるが、あの事務員は言葉が軽いだけで接触はしてこない。アラベラの言葉を借りるならチェスターは“弁えている女たらし”なのである。
「ふふ、震えてるの? 可愛いね」
サンドリーがデイジーの肩に優しく手を置く。全くドキドキはしない。怖いだけだ。
毅然と払いのけるのが正解だということは分かっていた。会社からはきっぱりと拒絶して報告するようにとも言われている。
でも体が動かない。
男女間のこととなるとデイジーの免疫はゼロなのだ。学生時代、クリケットクラブのサロンでヘンドリックにリオネルとの関係を邪推された時も固まるしかなかった。あの時から大して変わっていない。
「大丈夫だよー、痛いことはしないよ。先生とはちょっとした縁もあるみたいなんだ。だから僕を癒して? 人助けだと思ってさ」
サンドリーの手が膝の上で握りしめていたデイジーの手をとる。
(やだやだ、気持ち悪い)
リオネルに手を繋がれた時とは全然違った。デイジーの肌が粟立つ。
(誰か……誰か来て。執事さん、執事さん)
デイジーは声を出そうとしたが上手く息が吸えなかった。
「初々しくていいね」
サンドリーの息が頰にかかり、あまりの気持ち悪さにデイジーは涙目になる。サンドリーの喉が動き、目がギラついたのが分かった。
(グ、グランツさん! グランツさん!)
デイジーはぎゅっと目をつむって思わず心の中でリオネルを呼んだ。リオネルを呼んだのは完全に無意識だった。
空いてる方の手でイヤリングに縋る。頭の中で金髪の人が「デイジー」と微笑んだ。
リオネルを思い出すと息が吸えた。
(とにかく、声を出さないと)
デイジーは、もう一度ゆっくり大きく息を吸う。
「うん? 大切にしてるのそれ?」
サンドリーの興味がデイジーの耳へと移る。その手がデイジーの手を優しくどかして耳に触れた。
「へえ、淡い色だけど、これイエローダイヤじゃないの? 服は質素なのにいいやつしてるねえ」
サンドリーはしげしげとイヤリングを眺めた。




