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たったひとつの勇気

 僕を見るゴブリンから見えないように黒い人影が僕の前へとやってくる。

 その顔はよく見えない。

 でも僕はこの人影が誰だか知っている。


「おじさんが悪魔だったの?」


 人影が手を自分の顔のところに持ってきて、まるで今までフードを被っていたみたいにそれを上げるような仕草をすると、不意に顔が現れた。

 やっぱりそこにあったのはあの冒険者の槍のおじさんだった。

 僕に戦うことを、勇気を握りしめることを教えてくれた人。

 でも、本当は僕が死ぬのを数えるように見ていた悪魔。


「そうだ。そうさ。お前が死ぬのを何度も俺は見ていた」

「じゃあどうして……どうして僕にあんなことを言ったの?」

「あんなこと?」

「戦うこと。石を握れって、どうして……」

「必要だったからさ。人が悪夢を見続けるには希望と絶望、どっちもな」

「絶望?」


 希望って言葉は分かる。

 でも絶望って?


「先がない、何もかもおしまいってことさ。死んだってまたやり直せるって分かってても、全部無駄なんだって知ってたら、やる気がなくなるだろ?だから次はこうしないとって教えてやったまでさ」


 今まであったいろんなことを思い出す。

 ひどいこと。

 つらいこと。

 いやなこと。

 その中であったほんの少しの良かったこと。

 握りしめたあの石の硬さ。

 でも全部それはこの醜いおじさんをゴブリンにするために?


「人間ってのは不思議なもんだよな。誰もが自分自身の幸福を願っている、かと思いきや、そうでもない。多くの人間が他でもない自分自身の不幸を願っている」

「そんなことない!」

「そうか?お前は願ったことはないか?風邪を引いたらつらい思いをするだけなのに、親父さんの手伝いをするのが嫌だから風邪を引きたいって思ったことはないか?」


 僕は答えられなかった。

 悪魔はそんな昔から僕を見ていたんだろうか?

 確かにそんな風に思ったことがあった。


「目が見えなかったら、耳が聞こえなかったら、走れなかったら、歩けなかったら、お父さんお母さんがいなかったら、誰もいなければ。そして多くの人間が考えるのが、死んでしまったらだ。だから俺はその夢をこの夢辺の中で見せてやる。まるでそれが希望みたいに輝く不幸を。すると笑えるんだ。お前もそうだったな。今度はもっと大きな不幸を願い出す。自分には救われる価値なんてありません、とでも思ってるみたいにな」


 どんどん強くなっていったゴブリン。

 絶対に勝てないゴブリン。

 あれは僕が願った不幸だってこと?


「コイツもそうだ。おぞましい願いを持ちながら、それは許されないことだって願いを否定する。でも願いは消せない。コイツにとっての希望なんだからな。いつかはそれが叶う時が来るかもしれない。でも許されない。それでも願って願って最後はこの様さ」


 おぞましい魔物の姿。

 子供を脅かすための魔物。

 子供の敵。


「人であれば許されない。でも人じゃなかったら?ゴブリンが人を襲って何がおかしい?すべての子供を襲い尽くしてもそれが許される存在であると。普通の人間なら気づくのにな。もはやそれは悪意の権化であり、かけらも正しさなんてないってことに」


 いつの間にか悪魔の手にはあの槍が握られていた。

 いつか憧れた武器。

 ゴブリンと戦って欲しかった冒険者。

 でも、その槍先はゴブリンじゃなくって僕に向かっている。

 ああ、結局はそういうことなんだ。


「お前だってそうだろう?自分自身の不幸を望んでいる。例えば、手がなかったら戦えないのにってな」


 刃が僕の右の肩に押し当てられて、そのままあっさりと切り落とされた。


「ああぁあああぁあ!」


 今までにもあらゆる痛みがあった。

 でも、どの時にもこんなにも叫んだことはなかったかもしれない。

 いつの間にか近づいてきていたゴブリンがその切り落とされた腕にかじりつく。

 笑うような目で嬉しそうに食べていく。


「もう1本もいくぞ」


 言葉通りに刃が押し当てられて、左の肩から先も落とされる。

 その時には右腕を食べ終えたゴブリンが嬉しそうに左腕にも齧りつく。


「さすがにもう叫ぶ体力もなくなったか。まあ安心しな。これでもう終わりだ。さあ、後はお前の好きにしな」


 悪魔が後ろに下がるとあっという間に左腕も食べ終えたゴブリンがのしかかるようにして僕を見る。

 半分、嬉しそうな目で。

 半分、冷めた目で。

 今までで一番近くでその目を見た。

 もうおしまい。

 戦うための武器なんて何もない。

 ナイフも、フォークも、石も、殴りかかる腕も。

 何もない。

 何も。

 何も。

 何も?

 ゴブリンには右耳がない。

 それは僕が噛みちぎったからだ。

 噛みちぎれる。

 それはこれが僕の悪夢じゃないからだ。

 現実。

 何もかもが嘘でも幻でもない。

 それならこのゴブリンには攻撃できるってことだ。

 縛られていた腕はもうない。

 だったら出来るはず。

 握りしめるべき腕はなくても、もう僕は勇気を心で握りしめることを知っている。

 戦うってことを。

 何度だって死んできた。

 でもそれは戦ってきたってことじゃないか。

 もう一度。

 たとえ最後でも。

 先がなくって、何もかもがおしまいだとしても。

 いいや、だからこそだ。

 絶望しかないのなら、僕は。

 僕の目を覗き込むように見ていたゴブリンの目に一瞬、不思議そうな色が浮かぶ。

 悟られる前に体を起こした。

 今までで一番早く。

 口を開く。

 腕がなくったって武器はある。

 それは僕自身。

 僕自身がゴブリンを倒す武器だ。

 あっさりと開いた口がゴブリンの首へと届く。

 顔に噛み付いても、耳と同じで殺せない。

 腕でも同じだろうし、体には噛みつけない。

 それにお父さんも言っていたじゃないか。

 マイクは首に噛み付いたって。

 嘘の話だったかもしれないけど、それでも僕は強く噛み付いた。

 ゴブリンが暴れて僕を殴る。

 それでも僕は強く噛み付く。

 悪夢の中でゴブリンに向かって石を強く握りしめたように。

 強く。

 強く。

 ぶつりとした感触。

 鉄錆びた嫌な味。

 ゴブリンの血が溢れるように顔にかかるだけじゃなくって、口の中にも流れ込んでくる。

 それでも僕は強く噛み続ける。

 吐き出せないから血は飲み込んだ。

 飲み込む度になぜか力が湧いてくる気がした。

 更に強く噛み付く。

 流れ続ける血を飲む。

 続けるうちにゴブリンの力が弱々しくなっていく。

 逆に僕はより強く噛み付いた。

 硬い感触。

 まるで石みたいな。

 いつかの石を思い出す。

 それを握りしめるように。

 強く、強く握りしめるように。

 腕がないのがもどかしい。

 腕があれば、もっと強く握りしめたのに。

 勇気を。


「ははははははっ!マジかよ!」


 声に見れば、悪魔が笑っていた。

 こらえきれないように笑い続けて僕を見る。


「気がついてないのか?まさかこうなるとはね。おめでとう。お前も、いや、あんたも最早、こちら側だ」


 強く握りしめるように。

 強く願う。

 やがてバキリとした、枝を折るみたいな感触がして、ゴブリンはぐったりと動かなくなった。

 僕はこの感じを知っている。

 僕がそうだったし、ペーターもそうだった。

 ああ、死んだんだ。

 それが分かってやっと口を開こうとした。

 でもなぜか開かなくって、どうしようかと思うと不意に腕が差し込まれて口が開く。

 物みたいにゴブリンが落ちた。

 悪魔の腕かと思ったら、その腕は僕の肩から伸びていた。

 両肩から伸びているのは、まるで落書きみたいなでたらめな腕だった。

 僕はそれを何も思わずに見て、ただ思い通りに動くってことを確かめた。


「さて、俺もあんたも望むものを得たことだし、俺はそろそろ行くよ」

「待て」

「ん?なんだ、説明でもして欲しいのか?悪いけど、俺もそんなに暇じゃない。まさか」


 今まで出口の方を見ていた悪魔が僕に向き直って、槍を軽く振り回してピタリと止めた。

 刃の先は僕の顔へと向いている。


「俺と戦おうなんて思ってるのか?」


 僕にあるのは結局僕の身体だけ。

 それ以外に武器なんてない。

 そう思って見れば、なぜかひとつ、石ころが落ちたゴブリンの脇にある。

 ゴブリンとなったあのおじさんが持っていたのか、それとも悪夢だと思っていた繰り返しが全部が夢じゃなかったのか。

 それをでたらめな腕で拾って握りしめる。

 そのまま動かずに悪魔を見た。


「無理だって分かるよな。あんだけ悪夢を繰り返した後なら。それに俺にとってはもう終わりだけど、あんたはそうじゃない。知ってるか?」


 部屋の中で何かがふたつ立ち上がった。

 それはお父さんとお母さんの服を着ていたけど、お父さんとお母さんじゃない。

 背丈は僕たち子供よりも少し高いくらい。

 耳が尖っていて、鉤鼻で、大きなギョロリとした目。

 髪は針金みたいに固そうで、狼みたいに尖った歯。

 いびつな指。


「嘘つきは皆、ゴブリンになっちゃうんだぜ。はははっ!いったいどれくらいこの村には今、嘘つきがいるのかな?」


 ゴブリンたちが僕へと襲いかかってくる。

 悪魔はそれを見て、用は済んだとばかりに歩き出す。


「じゃあな。この夜を超えられたら、また夢辺でな」


 僕ももう悪魔を見ていない。

 ただ強く握りしめた。

 勇気を。

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