真実を知るということ
一度、家に帰ることにした。
もうお昼を過ぎている。
朝はあんなに食べることが苦しかったのに、それでもお腹が空いていた。
正直、あまり食べたい気はしない。
でも今はできることがない。
家に帰ればきっとお母さんが食事を用意してくれている。
遅くなると、抜きにされるかもしれない。
まずはこの空腹をなんとかしないと。
僕はずっと歩きながら怒っていた。
結局、分かったことなんて何もない。
このままだと僕はまた夜に死んで、またあの朝に戻される。
家出しても一緒だ。
死ぬのが次の日になるだけだ。
それはそうだろう。
悪魔が僕を見張っている。
それは間違いないことなんだから。
「悪魔を追い払うには、ただ祈れって?」
そんなことで悪魔が僕を見るのをやめて、ゴブリンが出てこないって?
そんなこと、あるはずがない。
何度も神様には祈った。
助けてって叫んできた。
それが叶ったなら、僕は何度も死んでいない。
むしゃくしゃしたまま歩き続ける。
「それにゴブリンが怖くない?あのクソジジイ、何にも知らないんだ」
ゴブリンなんて?
あんなに恐ろしい化け物が怖くなくなる?
今まであんなに散々偉そうに僕たちにお説教してきたのに、本当は何も知らないんだ。
あんな人に教わろうなんて思っていたことが腹立たしい。
家に着いてからも僕は怒ったままだった。
黙ってテーブルに付くと、お母さんがいつもより遅かったことを怒っていた。
僕はそんなお母さんの言葉を聞き流して黙って食事を始める。
僕のことなんて知らないって怒鳴ってお母さんは出ていくと、今度はお父さんが近づいてきて僕の向かい側に座った。
「お母さん、怒っていたよ」
「うん」
「……もしかしてペーターとクリスと喧嘩したのかい?」
「違う」
お父さんはしつこくどうしてそんなに怒ってるんだい?と聞いてくる。
そのうち、もう僕は面倒くさくなって、早くお父さんがどこか行けば良いのにって思ってても、僕の側から離れなかった。
「……先生が」
「うん?」
もういいや。言おう。
悪いのは先生だって。
「先生が言ったんだ。ゴブリンなんて本当は怖くないって。先生は本当は何も知らないんだ!ゴブリンがどんなに恐ろしいかって!」
「ゴブリン?先生がゴブリンは怖くないって言ったのかい?」
「そうだよ!」
「うーん、話の前後が分からないからあれだけど、どうして急にゴブリンの話になったんだい?」
「それは……もういいよ」
「良くはないだろう」
また「どうして?」だ。
もう本当に面倒くさい。
先生とゴブリンの話になったのは、僕がゴブリンが怖いって言ったから。
これを言ったら次は「どうしてゴブリンが怖いんだい?」に決まってる。
結局、どうしたってこの話は僕の夢だったってことになる。
僕が同じ日を繰り返して、最後はゴブリンに殺されることは、誰も信じてくれないんだから。
僕の嘘かデタラメ、そんなものにどうして僕がここまで怖がったり怒ったりしているのか、誰も分かってはくれない。
分かってくれた人もいなくなった。
僕がそれきり黙り込むと、お父さんはタバコを取り出して火をつけた。
煙を吐き出すと、その煙がただようのを見ながら、思い出すように話し出す。
「ゴブリンかぁ。お父さんが今までに見たのは何度だったかな?最初に見た時は子供の時だ。飼っていた犬がしきりに吠えるから何だろうと思って庭に出たら、見たことのない化け物がちょうどマイクを、ああ、飼っていた犬の名前な、襲っているところだった」
聞いたことのある話だ。
なんだっけ?そうだ、最初に繰り返した時に僕が聞いたら話してくれた内容だ。
「ゴブリンは手にボロボロの鍬を持っていて、繋がれたままだったマイクは必死に戦っていてね。お父さんはつい叫んじゃったんだ。マイク、頑張れってね」
……そんな話だったっけ?
「そうしたらゴブリンはマイクじゃなくて、お父さんを見た。血走った目で嗤ってた。姿形は人間にとても似ているのに、絶対に分かり合えるとは思えない目でね。すごく怖かった。このまま僕も食べられちゃうんだって。そうしたらマイクがゴブリンに飛びかかって、首筋に噛み付いた。ガブリってね」
「え?」
おかしい。
こんな話じゃなかった。
お父さんを助けたのはマイクじゃなくて、おじいさんだった。
違う。絶対に違う。
「ゴブリンは噛みつかれてもめちゃくちゃに暴れてて、持ってた鍬がマイクのお腹に刺さったんだけど、マイクは絶対にゴブリンを離さなかった。すぐに親父が、ブラドのおじいさんが来てくれて、持ってた柵打ち用のハンマーをゴブリンの頭に叩きつけてそれでやっと静かになった」
背丈は子供よりも少し高いくらい。
耳が尖っていて、鉤鼻で、大きなギョロリとした目。
髪は針金みたいに固そうで、狼みたいに尖った歯。
いびつな指。
何でも食べて、よく畑の作物を盗んで、時には牛や豚も殺して盗む化け物。
語られる化け物の姿は同じなのに、内容が違う。
どうして?
お父さんはどうして別の話をしているの?
「奴らは人間でも食べる。飢えたゴブリンはお父さんみたいな大人でも、ブラドみたいな子供でも、死に物狂いで襲ってくる。マイクも結局助からなかった。先生がどういうつもりでゴブリンが怖くないって言ったのか分からないけど、ゴブリンは恐ろしい存在だ。もし見つけても必ず逃げなくちゃいけない。逃げて大人を呼ぶんだ。分かったかい?」
最後に念を押すみたいに僕に言った。
僕はそれにうなずくことを忘れて、まじまじとお父さんを見た。
びっくりしすぎて、なんてお父さんにこのことを話したら良いかが分からない。
お父さんはもう僕が怒ってないって分かったからか、立ち上がって部屋を出ていく。
その時に僕は確かに聞いた。少し苛立ったみたいにお父さんがつぶやくのを。
「どういうつもりなんだろう、ブラディスにそんなこと言うなんて」
そんなことを言ったのは先生だ。
……先生がゴブリンが怖くないって言ってたって、それを聞いたからお父さんは話を変えた?
なんで?
だって今の話って、お父さんが子供の頃に実際にあったことじゃないの?
今の話は嘘だってこと?
それとも最初に聞いた時が嘘だった?
不意に先生の言葉がよみがえる。
大人の人からゴブリンの話を聞いて、おかしいと思ったことはありませんか?
おかしい。
おかしいよ。
お父さんは子供の頃にゴブリンに会って、マイクを殺された。
でも、どうやって殺されて、ゴブリンをどうしたのかを覚えてないんじゃないかってくらい、別の話をした。
最初は石を投げたら逃げたって。
次はマイクとおじいさんが殺したって。
どうして逃げたことにしなかったの?
ぱっと答えが浮かんできた。
それは最後の念押し。
ゴブリンは恐ろしい。
お父さんにとってはゴブリンは恐ろしい存在じゃないといけなかったから。
だから逃げたことにしないで、最後まで暴れてたことにした。
あれ?それにやっぱりおかしいよ。
ゴブリンは死にものぐるいで襲ってくるって言ってたじゃないか。
相手が子供でも大人でも関係ないって。
ならなんで石を投げて逃げたなんて言ったんだろう?
僕の知ってるゴブリンは石なんて気にもしなかった。
平然としていた。
あれ?
平然としていた?
別にお腹が空いてそうでもなかったし、殺したペーターを食べようともしなかった。
でも、槍のおじさんも言ってたじゃないか、いろんなゴブリンがいるって。
僕の知ってるゴブリンと、お父さんの話しているゴブリンとぜんぜん違う性格ってこと?
よく考えると、お父さんの話すゴブリンはなんていうか、言ってしまえば絵本の中の化け物みたいで、槍のおじさんが話すゴブリンの方が僕の知ってるゴブリンみたいだ。まるで兵士さんみたいに戦ってた。
「あれ?でも兵士さんはゴブリンなんて」
言ってた。確かに大したことないって。
僕が子供だから適当なこと言ってたの?
あんな化け物と戦ったことがあるなら、例え僕より年下の子供が相手でもあんな簡単に大したことなかったなんて言わないんじゃないだろうか?
もしかして、戦ったことないのに、見栄であるって言ってる?
どういうこと?
考えれば考えるほど、いろんなことがおかしく思えてきた。
そういえば最初に見たゴブリンは僕をぐちゃぐちゃにして食べてなかったっけ?
だんだん自信がなくなってきた。
どこまでが僕が見たことで、どこからが僕が聞いたり考えたりしたことなのか。
戻ってきたお母さんがとなりで怒鳴っている。
それを遠くに聞いたまま、言われるままにいつの間にか食べ終わってた食器を片付けた。
今回はおかしなことばっかりだ。
あの槍のおじさんがいなくなった。
お父さんは違うゴブリンの話をしてる。
ペーターはちゃんと黒燐魚を釣ってたっけ?
いつの間にかいつもの釣りをする橋まで来てた。
ぼんやり橋に腰掛けて考える。
最初に見たゴブリンはなんだかよく分からなかった。
暗かったし、もう僕はぐちゃぐちゃにされちゃってた後だから。
次に見たゴブリンははっきりとゴブリンだった。
でも持ってたのは剣とかナイフじゃなくて多分、僕みたいに石を持ってたんだと思う。
その次のゴブリンは僕のいる納屋に火をかけた。
火と煙の間から顔を見た気がする。
ちょっと自信はないけど。
その次は?
その次は剣とナイフだ。
今考えると、石を持ってたゴブリンよりもすごく強そうだし、なんでベッドに出てきたゴブリンは剣もナイフも持っていなかったんだろう?
教会に出てきたのは持ってたのに。
これも別のゴブリンだから?
「なんか、だんだん強くなってない?ずるいよ……僕は弱いままなのに」
石を手に入れそこねたら、ゴブリンの方が石を持ってて、お母さんが使っちゃ駄目って言って使わせてくれない火を使う。ナイフを持ったらゴブリンは剣を持ってた。みんな別々のゴブリンなんだろうか?
いや、やっぱりおかしい。
そんなにいろんなゴブリンがいるってことは、つまり今、この村の周りにいっぱいゴブリンがいるってことだ。
滅多に人前に出てこないゴブリンがいっぱいいる。
それもこの間、騎士様が魔物の探索をしたばっかりなのに。
騎士様はゴブリンなんて大したことがないって見逃したの?
あの兵士さんみたいにいつでも殺せるって?
「もしかしてみんな、嘘ついてるのかな。それでみんなゴブリンになっちゃってるのかな」
嘘つきはゴブリンになる。
もしかしたら本当なのかもしれない。
それで村の中の誰かが夜にゴブリンになっちゃって、悪魔に僕を襲えって命令されてるのかもしれない。
「ははっ、何言ってるんだろう。もしもそうならみんな……もしかして本当にそうなのかな」
悪魔が嘘ついてる大人たちをゴブリンにしているのかもしれない。
僕にはもう何が本当なのか、どうしたら助かるのかも分からない。
全部が嘘で、全部がただの悪い夢なんだ。
きっとみんな最後にはゴブリンになっちゃって、僕も死んじゃう。
なんだかもう疲れちゃった。考えることにも、何をするにも。
川の中を大きな魚が泳いでいくのが見えた。
もしかしたらペーターは今日は大きな黒燐魚は釣らなかったのかもしれない。
「おや、ブラディス、そこにいましたか」
見ると先生がひとりで僕に向かって歩いてきていた。
そのまま橋に座る僕の隣に腰掛ける。
「どうですか?何を考えたら良いか、分かりましたか?」
「……分かりません。僕には何が本当なのか、何が嘘なのか」
「そうですか?私にはもう君が分かっているように見えますけどね」
やっぱり先生は駄目だ。
何も分かってない。
「君のお父さんに怒られてしまいましたよ。でも、その甲斐はあったようですが」
珍しく先生は機嫌が良さそうだった。
僕とは正反対。
「ブラディス、人はですね、嘘を言う生き物です。悲しいことですが。私も君のお父さんも、お母さんも言うでしょう。嘘をついてはいけませんと。でも、最初から誰しもが嘘をつかないのなら、こんなことを言う必要はないでしょう。人は嘘をつく。これは大人でも子供でも知っていることです」
まただ。
また先生が良く分からない話をしはじめた。
言ってることは分かるけど、どうしてそんなことを話し始めるんだろう?
みんな嘘つきだってことは確かに知っている。
ゴブリンのことがなくても、みんなちょっとした嘘をついている。
お父さんだって、お母さんに嘘を言っているなって思ったことは何回もある。
「では、どうして嘘をついてはいけないのでしょうか?分かりますか?ブラディス?」
「……悪いことだから」
「そうですね。教典でも確かに悪いこととされていますね。では、どうして悪いことなのでしょうか?」
「それは……」
魂が汚れるから?
だからゴブリンになるとかそういうことじゃないだろうか?
「教典には多くの教えが記されています。聖印様が彼方の天窓、その向こう側を知り、どうしたらそこに至ることができるかの道を。普段、私が村の皆さんに教えているのはそれを分かりやすくしたものですが、実は原典には書かれていないことがいくつも書き足されています。より筋道を分かりやすくするためにそうしているのですが、私は本当はこの原典にこそ従うべきなんじゃないかと考えているんですよ」
本当に珍しく先生が笑った。
笑って、内緒ですよと僕を見た。
「そのうち、君にも原典の写しをお見せしましょう。さすがにそのすべてではありませんが、いくつかが手元にありますから」
「先生、どうして嘘をついてはいけないのでしょうか?」
いい加減、話をもとに戻してほしい。
僕だってそんなに暇じゃない。もう昼を過ぎた。
夕方はすぐにやってくる。
そうしたら夜だ。
彼方の天窓が開いて僕らを照らす。
僕の死がそこで待っている。
「大人たちは言いますね。嘘つきはゴブリンになる。だから嘘をついてはいけない。でもブラディス、君は嘘つきを見たことがある。ところがそれでゴブリンになった人を見たことはないでしょう」
それは確かだ。
嘘をついた瞬間にゴブリンになった人はいない。
では、あのゴブリンはどこから現れたのか?
「つまり、ゴブリンは嘘つきがなるものではない。生きてる間はもちろん、死んだあとになるものでもない。嘘つきや罪人がなるなら、誰もが一度は見たことがあってしかるべきでしょう。人は誰しも嘘をついている。だったら誰もがゴブリンになってしまう。さて、ではなぜ、嘘をついてはいけないのか?」
言葉を止めて、先生はじっと僕を見てから言う。
「悪魔がその嘘を本当にしてしまうからですよ」




