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悪役令嬢後宮物語  作者: 涼風
にねんめ
227/231

絆、再び紡ぐ


 ヒルダとの対決後、帰りが遅いことを心配しつつ待っていたレイとマリカに謝りつつ、昼食を済ませ。

 室内で書きものなどをして過ごしていたところ、控えていたレイから来客の知らせを受けた。


「――お待たせいたしました、シェイラ様」

「まぁ、リタ」


 レイに案内され、やって来たのは、まさかのリタ。彼女がディアナの側を離れ、ナーシャのフォローについていることは知っていたけれど、いつもディアナの近くにいる彼女が単独行動していると、やはり違和感がすごい。


「リタが来てくれるとは思わなかったわ。……リディル様へお預けした伝言の件、よね?」

「左様にございます。――ナーシャ様より、『私も同じ気持ちでした。昼食後にお待ちしています』とのお返事です」


 そう。礼拝後、シェイラがわざわざ遠回りしてまでリディルへ託けたのは、ナーシャへの「話したいことがあるので、今日の午後にそちらへ伺っても良いか」という伝言だったのだ。リディルはシェイラから預かった言葉をナーシャへ伝えてくれ、その返事を持ったリタがこうしてやって来てくれたのだろう。

 身支度の整っているシェイラをさり気なく一瞥して、リタが軽く腰を折る。


「あちらのご準備は既に整っておりますので、シェイラ様さえ問題なければ、私がご案内できます」

「もちろんよ。お願い、リタ」

「承知いたしました」


 澱みなく一礼するリタの所作は洗練されていて、最上級の侍女であることが一目で分かる。普段、ディアナの側に控えているリタは、どちらかといえば侍女より〝ディアナの腹心〟としての色が濃く出ているが、彼女もまた、クレスター家の誇る〝仲間〟の一人に相違ない。その気になればいつでも、王宮侍女たちに混じって違和感のない、完璧な〝侍女〟であれるという証左だろう。

 レイに部屋を任せ、リタの背を追って廊下へ出る。それほど歩くことなく立ち止まったリタは、どうやら壁にあるらしい仕掛けを作動させ、当たり前のように隠し扉を開いた。


「どうぞ、こちらへ」

「……なるほど。だから、案内役がリタなのね」

「さすがに、ナーシャ様付きのお二人へ、後宮隠し通路の詳細をお伝えはできませんから」


 苦笑しつつ答えたリタに促されるまま、隠し扉を通って隠し通路へ入る。リファーニア王太后から秘密裏に正妃教育を受けている関係で、シェイラも王宮内の隠し通路の存在を知っているし利用している身ではあるが、その詳細まで把握できているわけではない。というか、ジュークも細かい部分までは知らないと言っていたから、もしかしたら現王宮関係者で最も隠し通路に詳しいのは、クレスター家の面々という可能性すらあるのでは。

 そんなことをぼんやり考えつつ、隠し通路内を歩き出したリタについて歩き出して。


「……ナーシャ様のお具合はどう? 礼拝で見かけたご様子からは、かなり回復されていると感じたけれど」

「妊娠初期でいらっしゃいますからね。常のように、とは申せませんが、ディアナ様が残された妊娠初期の体調不良を和らげるハーブティーのレシピもありますし、厨房長様もご尽力くださっています。安定期に入るまで安静にして頂く必要はありますけれど、今のところ、母子ともにご健康ですよ」

「そう、なのね。ディーが助けてくれたのだから、大丈夫だと信じてはいたけれど――良かった」

「はい。ディアナ様がお力を尽くされたのですから、ナーシャ様とお子様が儚くなる未来は、決して訪れませんとも」


 力強く断言するリタからは、主への深い信頼と敬愛だけが感じられた。……正直なところ、ディアナがナーシャと彼女の子を〝引き留めた〟手段が、おそらく常のものではないだろうと予想しているシェイラは、ただ手放しで喜んで良いものか、密かに考えていたのだけれど。


(だって。ディーの『霊力(スピラ)』は――)


 今の時代、ディアナだけが宿すという『霊力(スピラ)』は、行使すればするほど、彼女自身を削る。多用することは、彼女を大切に思う人ほど、止めたいと願うはず。

 リタも、おそらくはカイも、ディアナの『霊力(スピラ)』については知っているはずなのに――。


「……リタは、〝ディーに『霊力(スピラ)』を使わせた〟と、私たちに思わないの?」


 密かな引っ掛かりではあったけれど、誰もいない隠し通路内だからこそ、今のうちに聞いておくべきだと心が囁いた。こういう質問は、タイミングを逃したが最後ずるずる聞けなくなり、齟齬が大きくなってしまう。ナーシャの件でも思ったが、デリケートな事柄ほど、流すべきではない。

 そう、覚悟して問うと。


「もちろん、ディアナ様の御身については、常に案じております。……ですが、ディアナ様はそもそも、目の前で喪われようとしている命を前に、素通りできる方ではありませんから。常にご自身の最善を尽くし、最後の最後まで、命を拾うことを諦めない。そんなお方に、『あなたを守るため、その命は捨て置いてください』なんて、言えるわけがありません」

「それは、そうかもしれないけれど」

「ディアナ様が節操なしに命を拾う方だから、私も拾って頂けました。どんな命も等しく祝福される方だから、その眼差しの先にはいつだって希望(ひかり)が満ちています。そんなお方だからこそ、私はディアナ様に忠誠を誓い、身命を賭してお守りしようと思えるのです。主の何よりの美点を、誇りを、私の身勝手で奪うなど、従者失格でしょう」

「……その〝美点〟が、いつか主を喰い殺すとしても?」


 さほど広くない隠し通路内に、己の発した質問が冷たく響いた。

 シェイラを先導していたリタは、少し前でぴたりと足を止めて。


「少し前の、他者の命を重んじる余り、ご自身のことはそっちのけにされる悪癖の強いディアナ様のままでしたら、『霊力(スピラ)』を使われることへの心配と苦言を申し上げたかもしれませんが――今のディアナ様ならば、大丈夫です」


 ゆっくりとこちらを振り返り、安堵とほんの少しの悔しさを滲ませた微笑を浮かべる。

 その顔を見た瞬間、シェイラにも事態が飲み込めた。……飲み込めて、しまった。


「……カイさんの影響力は絶大、ということね」

「とてつもなく、悔しいですけど。カイへの想いを自覚し、想いを交わす奇跡に触れて、ディアナ様は人としても女性としても、大きく成長されました。ご自身を粗雑に扱うことは、己を大切に思い、慈しんでくれている人たちの心を無碍にすることだとお気付きになり、守るべき対象にディアナ様ご本人を加えてくださったのです。まず己を大切に守らねば、拾える命も拾えないし、守りたい相手に手も届かない……そう理解されたディアナ様であれば、〝森の姫〟の『霊力(スピラ)』とやらに喰われることはないと、私は信じることに決めました」

「そう。……ならば私も、あまり心配し過ぎないようにするわ」

「それがよろしいかと」


 大きく頷いたリタは、すぐ横の壁に手を置く。


「ところで、こちらの隠し扉から外へ出ると、ナーシャ様のお部屋のすぐ近くなのですが。このまま開いてよろしいですか?」

「そうだったの? ……もしかして、普通に外通路を歩くより、こちらを通った方が近かった?」

「シェイラ様とナーシャ様の居室間に関しては、そうですね。この隠し通路を移動経路に含めれば、後宮内の最短ルートはかなり変わってくると思います」

「それをしれっと把握してる辺り、本当にクレスター家って、油断のならないお家だわ」

「クレスター伯爵家が〝油断のならない家〟だと重々承知の宰相閣下こそが、ディアナ様を後宮へ招き入れられた主犯のようなものですから。ディアナ様の後宮入りが避けられないと決定した時点で、『遠慮は要らん。向こうも城を裸にされる覚悟くらいはしてるだろう』と伯爵様よりお達しが出ました」

「……そう、ね。伯爵様と『闇』の皆様方なら、その方針一択になるわよね」


 何しろ、彼らが守り、支えねばならないのは、クレスター一族の中でも随一のお人好しだったのだ。下手に国や王宮に配慮して動きを控えたが最後、予想だにしないディアナの動きについて行けず、守りの手が追いつかない、なんてことになりかねない。彼らにとって国家機密など、ディアナの命の前には、土塊ほどの値打ちもないものだろうから。

 深々と頷いたシェイラにちょっと笑って、リタは「開けますよ」と言いつつ、仕掛けを操作し隠し扉を開けた。


(……いよいよ、ね。言うべきことは、もう、決まってる。あとは、一歩を踏み出すだけよ)


 リタに促され、扉を潜った先に広がっていたのは、いつもの見慣れた後宮の通路。……仲違いする前は頻繁に、した後も時折は通っていた、ナーシャの部屋へ続く通路だ。


「……人の気配はありませんね。このまま、お部屋まで参りましょう」

「えぇ。ありがとう、リタ」


 頷いて、二人で歩き出す。ここまで来れば案内役は必要ないが、ディアナが居ない間、臨時でナーシャの看護を任されているリタも、目的地は同じ。離れて歩く意味もない。

 すぐ近くにある角を曲がった先にある、最初の扉。いっとき、この世の何よりも重く見えたそれを、リタは軽くノックする。


「失礼いたします。ただいま、戻りました」

「――はい」


 内側から応答があり、扉はあっさりと開かれた。ナーシャの命が危うかった頃は、リディルと交代で密かに詰めていたけれど、彼女が元気になってから間近で顔を合わせるのは、今日が初めてだ。リタからナーシャの許可を得たと聞いてはいても、やはり心は固くなる。


「お待ちしておりました。どうぞ、お入りください」


 扉を開けてくれたのは、ナーシャ付きの王宮侍女、モコだ。ほんわか穏やかな気質がよく現れている顔に、安堵の笑みを素直に浮かべ、彼女はシェイラを室内へ招き入れてくる。

 促されるまま中へ入り、次いでリタも入室し。扉を閉めたところで、モコは再び、深く一礼した。


「シェイラ様に、ご挨拶申し上げます。この度は、ナーシャ様の危機に惜しみない助力をくださり、誠にありがとうございました」

「そんな、モコ。頭を上げてちょうだい。私はただ、自分にできることを当たり前にしただけなのだから。お礼を言われるようなことじゃないわ」

「いいえ。私は経験も浅い、世間知らずの小娘ですが、シェイラ様をはじめとした王宮上層部の皆様方が、ナーシャ様にこの上なく寛大でいらっしゃること、尋常でないお心配りをしてくださっていることは、肌で感じております。……恥ずかしながら、その現実をはっきりと認識したのは、紅薔薇様がナーシャ様のお命を救ってくださったと理解してからでしたが」


 モコの声音には、深い感謝と、微かな畏敬の念が込められていた。……誰が見ても〝奇跡〟と分かる、あの神々しい緑の光を目の当たりにすれば、ディアナを神や超常の存在、またはその眷属と思い込むのは、一種の必然なのかもしれない。正直、彼女たちと共にディアナの『霊術(スピリエ)』を見たシェイラには、その気持ちがよく分かる。

 分かる、からこそ。


「それは違うわ、モコ。私も、陛下も、そして『紅薔薇様』――ディアナ様も、ただ己の最善を尽くしただけ。私たちが民を守る〝王族〟である以上、苦しんでいる民に寄り添い、自分にできる精一杯を考え、手を伸ばすことは、相手が誰であってもしなければならない〝役目〟なのよ」

「……ですが、シェイラ様。ナーシャ、さま、は」

「そもそも、この後宮政策が、利点よりも欠点の大きいものであることは、関係者の誰もが認め、反省していることだわ。ナーシャ様はいわば、その施策の欠点によって、負うべきではない〝罪〟を負わされた被害者のようなもの。本当なら、彼女の身に起きたことは、国にとっても歓迎すべき慶事なのだから」


 国とは結局、人の集合体だ。国策とて、人が考え、人が実行するものでしかない。そして、人が行うものである以上、〝失敗〟はどうしたって起こる。

 大切なのは、その〝失敗〟が明らかになったとき、どうリカバーするか。いかに〝失敗〟の影響を小さくし、民に国のツケを押し付けないよう、工夫できるかではないだろうか。


 ジューク王の〝後宮〟が、利点もそれなりにあったものの、今となっては欠点の方が多い以上、端的に言ってその政策は〝失敗〟で。

 苦しめられている人がいるならば、王であるジュークと正妃を目指すことを認められたシェイラ、そして本人不本意ながらも、現在〝準王族〟であるディアナは、その苦しみを取り除く努力を、決して怠ってはならないのだ。


 ――何よりも。


「私も、陛下も、そうあろうと心と力を尽くしているけれど。――苦しんでいる人に手を差し伸べ、できる限りを為そうとするのは、ディアナ様にとって呼吸をするより自然なことよ。あの方は、何も特別なことをしたわけじゃないの。もちろん、そのお気持ちはとても尊いもので、感謝を忘れるような不忠があってはならないけれど、殊更に特別視するのは、あの方のおためにも、私たちのためにもならないわ」

「……そう、なのですか?」

「私は、そう思っているの。モコも、何となくで良いから、私の言葉を覚えていてくれると嬉しい」

「――承知いたしました」


 誰かを特別視するということは、その人と自分は〝違う〟と線を引く心理とも言い換えられる。相手を自分より高い場所へ勝手に置くことで、同じ人間として理解し、寄り添おうとする意識を薄れさせ、盲目的な崇拝と敬愛を捧げ、畏れを抱く〝対象〟にスライドさせてしまうのだ。

 それは、一概に悪いとも言い切れない。そういった、盲目的な愛が欲しい人もいるだろう。

 けれど、シェイラは知っている。ディアナが、意外と寂しがりやであることを。どこまでもお人好しであるがゆえに、誰よりも気高く生きる心の内に、喪うことを極端に怖がる脆さが、ひっそり隠れていることを。

 そんなディアナは、間違いなく、崇拝されることなど望まない。勝手に高い場所へ祀り上げられ、皆から〝特別〟と崇められるなど、彼女にとっては孤独と同じ。


 ディアナはあくまでも、ナーシャの命を救うため、彼女の〝一部〟である『霊力(スピラ)』を使っただけ。そこに特別な要素は何もなく、ディアナが〝ディアナ〟だから、ナーシャは助かった。

 特別視しそうになるからこそ、シェイラは強く、己にそう言い聞かせる。他ならないシェイラ自身が、ディアナを孤独にしないために。


(……まぁ、カイさんがいれば、ディーが真実、孤独になることなどあり得ないのでしょうけれど。それは全く面白くない展開だし、危ない気もするもの)


 最終的に心の中で独りごち、シェイラは穏やかに微笑んだ。


「ありがとうね、モコ。あなたの気持ちは、とても嬉しい。そう感じてくれるのは、あなたがそれだけ、ナーシャ様を大切にしてくれている証だもの」

「い、いえ、そのようなことは……もちろん、ナーシャ様のことは、心から尊敬し、お仕えしておりますけれど。リヴィエラさんと違って、私はまだまだ、できることも少ないですし」

「モコはまだ、勤めてそう長いわけでもないでしょう。まだまだこれからよ。リヴィエラに教えてもらいながら、ゆっくり成長していけば良いわ。――そういえば、そのリヴィエラは?」

「あちらの、寝室に。ナーシャ様のお側に、控えておいでです」

「そう。……案内、お願いできるかしら?」

「――はい」


 頷くモコへ、それまで静かに控えていたリタが一歩踏み出す。


「私が先触れを。体調は万全と思いますが、念のための確認も兼ねて、行って参ります」

「えぇ。お願いするわ」


 寝室へ消えていったリタを見送ること、しばらく。

 そう長く待つこともなく、寝室に繋がる入り口に、リタが姿を見せる。


「シェイラ様。ナーシャ様がお呼びです」

「ありがとう。――モコ、お願い」

「かしこまりました」


 モコの背に導かれ、シェイラはついに、ナーシャの寝室へと足を踏み入れた。


「……っ」

「――……ナーシャ、さま」


 入ってすぐ目に入る、寝台の中。

 柔らかなクッションに背を支えられたナーシャが、何かを訴えかけるような目で、入ってくるシェイラを迎え入れている。

 思わず名を呼ぶと、彼女の肩が僅かに震えた。


「よかった……今朝の礼拝で遠目にも拝見しましたが、お顔の色も明るくて。体調はいかがですか?」

「シェイラ様……」

「信じていただけるかどうか、分かりませんけれど。ナーシャ様のお命が危ういと知らされて、私はただ、ご無事だけをお祈りしておりました。……ナーシャ様も、お子様も、どうか助かって欲しいと」

「……」

「……座っても、よろしいですか?」


 ナーシャのベッドの横には、おそらくシェイラのために用意された、造りのしっかりしている椅子があった。ナーシャは言葉を発することに躊躇いは見せているものの、完全に決裂した〝あのとき〟のような拒絶は感じられない。

 近づいても、許されるだろうか。そう願って、少し待つ。


「……はい。はい、どうぞ、シェイラ様」


 やがて。静かな寝室に、微かなナーシャの応えが響いた。「ありがとうございます」と微笑して、シェイラは椅子に腰掛ける。


「突然の申し出にも拘らず、面会のお話を受けてくださり、感謝いたします」

「そのような、ことは」

「ナーシャ様にとって、私はもはや、顔を見るのも負担になる存在なのかもしれません。けれど、私はどうしても、顔を合わせてお話ししたかった。……気持ちを汲んでくださり、感謝しております」

「シェイラ様……」


 〝主日〟――森月の二十五日、一年にたった一度、神へ祈るこの日は、礼拝が終わった後の時間も祭りなどの大きな催しはなく、各家庭で、あるいは特に親しい友人同士で、静かに互いの絆を確かめ合う日とされている。この日、この時間に〝あなたと会いたい〟と願うこと、相手の訪れを受け入れることは、それだけで「私はあなたをこの上なく親しい存在だと思っている」と示す行為に他ならないのだ。

 面会の希望を出したシェイラも、受け入れたナーシャも。きっとお互い、〝主日の午後〟に勇気を得て、伝えたいことがある。


「ナーシャ様。私、ナーシャ様と出会えたことを、本当に嬉しく思っているのです」

「私、と……?」

「ご存知のとおり、私は家の事情で、デビュタントすらままならない日々を送っていました。あのままであれば、クロケット家のご令嬢であったナーシャ様とは、縁のないまま生きていたことでしょう。それが、思わぬ人生の悪戯で後宮に部屋を頂戴する運びとなり、身分不相応とは知りつつ、城へと足を踏み入れて……ナーシャ様と、こうして出会うことができた」

「それ、は」

「最初の出会いは、きっと偶然だったと思います。本来なら、クロケット家とカレルド家の娘が、同格の部屋を与えられることすらなかったはず。様々な偶然が重なって、ナーシャ様が私の部屋の戸を叩いてくださった。……覚えて、いらっしゃいますか?」

「もちろん。もちろん、覚えています」


 ナーシャとの出会いは、彼女が部屋を間違え、シェイラの部屋の扉をノックしたことから始まった。同じような部屋が等間隔で並んでいたあの区画に、お互いが住んでいたからこそ起こった〝出会い〟。

 もしも、後宮が存在しなければ。

 もしも、ナーシャが身分相応に扱われていれば。

 きっと、二人の出会いはあり得なかった。


「あの頃の後宮の在り方が健全だったとは、口が裂けても申せません。後宮の存在そのものを含め、きっと今でも、間違っていることは多い。――でも、間違っていたからこそ、私たちは出会うことができた。その出会いには、素直に感謝したいと思うのです」

「……はい」

「それに……ただ出会っただけではなく、私のことを友人と思い、親しく付き合ってくださること。大切に、してくださること。そんなナーシャ様に、どれだけ救われたか分かりません」


 部屋を間違えたナーシャが、シェイラの部屋を訪れた。シェイラは、知り合いだったリディルを頼り、二人でナーシャを自室まで送り届けた。

 それだけならばきっと、袖擦り合う程度の関係で終わったことだろう。ナーシャが律儀な性格で、お礼を申し出てくれたとしても、互いに親しくなる気がないなら一度でやっぱり終わったはず。

 けれど、こうして、仲良くなった。お互いに気安く部屋を訪れ、茶会や外出を誘い合う、仲となった。

 それは――きっと。


「ナーシャ様といると、私はいつも、心の底から安心して笑うことができました。下手に気遣わずとも、気を張らずとも、ナーシャ様のお側は居心地が良くて。……一緒に過ごすのが、ただ、楽しかった」

「そんな。そんな、こと……!」

「ナーシャ様が、私のことをどう思ってくださっていたのかは、分かりません。けれど、私はずっと、ただ仲良くしたいから、一緒にいると楽しいから、ナーシャ様の友人でありたかった。ナーシャ様を、大切にしたかった」


 ゆっくりと、そう、言葉を閉じて。

 シェイラは、瞳を潤ませてこちらを見つめるナーシャへ、穏やかに笑いかけた。


「……それなのに。大切にしたかったのに、愚かな私は方法を間違えて、ナーシャ様のお心を、深く、深く傷つけました。酷いことをしたと、心から反省しております」

「シェイラ様……!」

「ナーシャ様のお命を第一に守りたかった……なんて、言い訳にもなりませんよね。仮に命を守ったところで、再起不能なほど心が傷ついてしまったら、人は生きながらに死んでしまう。……ナーシャ様のお心を蔑ろにしてしまったこと、本当に申し訳ありませんでした」

「……シェイラ様、もう、」

「それでも。ナーシャ様を傷つけてなお、ナーシャ様を慕わしく思うこの心を、消すことができない。――叶うならば、この先も友人であり続けたいと、そう願っているのです」


 遂に。ナーシャの瞳から、透明な雫が一粒、頬を伝ってこぼれ落ちた。

 まるでそれが合図となったかのように、ナーシャが何度も、何度も、首を横に振る。


「いいえ、いいえ、シェイラ様。謝らねばならないのは、最初からずっと、私の方です」


 涙を落としながら、それでも視線はシェイラから逸らすことなく。

ナーシャは身を乗り出し、シェイラの手を、上からぎゅっと握ってくる。


「シェイラ様のお立場であれば、紅薔薇様から後宮を預けられた御身なれば、側室の身に起きた異変を秘匿することこそ危険です。シェイラ様は、あくまでも私を救うため、そして後宮の安寧を守るため、そのお力をお持ちの方々に、協力を呼びかけただけ。そんなこと、最初から、頭では分かっていたのに」

「ナーシャ様……」

「陛下、王家への罪悪感と、こんなことになってしまった己の不甲斐なさと……それでもなお、たった一つの望みを捨てられない未練に絡め取られて。どこまでも眩しいシェイラ様への妬みを、抑えることができなかった。私は、これほどまでに弱くて、愚かで、醜い」

「そんなわけ、」

「いいえ、事実ですもの。……だから、間違えたのは私の方。シェイラ様が差し伸ばしてくださった手を、愚かにも振り払って。シェイラ様のお心を踏み躙り、傷つけた。謝るべきは私であって、シェイラ様ではありません」

「……」

「シェイラ様のお心は、とても嬉しく思います。ですが、こんな私は、シェイラ様に相応しくない。……どれほど困難な道でも、挑むと一度決めたら果敢に立ち向かっていく強さをお持ちのシェイラ様に、望んで頂けるような人間ではないのです」


 そう話すナーシャの顔に浮かぶのは、紛れもない自嘲。元より己に厳しい性質ではあるが、今のナーシャは必要以上に、自身を貶め、責めている。

 ――言葉を考えるより先に、シェイラは自身の手をくるりと返し、離れようとするナーシャの手をぎゅっと掴んだ。


「良いではありませんか。弱くても、愚かでも、醜くても」

「……え、」

「完全無欠に強い人がいますか? あらゆる人と時代に欠点のない〝正解〟を出せる、それほど賢い人がいるでしょうか? ……誰かを全く妬まない、羨ましく思うことすらない、それほど清い心の持ち主が、果たして存在するのでしょうか?」

「そ、れは」

「人は誰だって、どこかしら弱くて。どれほど間違えたくないと願っても、ちょっとしたことで間違える愚かしさがあって。自分にないものを持つ人を見れば、心のどこかで妬んで、嫉んで、無いモノねだりをしてしまう、醜い生き物ではありませんか?」


 そうだ。他ならないシェイラが、弱くて、愚かで、醜い人間ではないか。

 ほんの少しの動揺で、自身の立ち位置を見失うほど、弱くて。

 ジュークとの関係も、ナーシャへの対応も、しつこいほどに間違えるような、愚かな人間で。

 ジュークへの恋心が譲れないものになればなるほど、心のどこかで、彼を完璧に支えられる、才能ある女性たちに嫉妬する、醜さを宿している。

 そんなのは、人であれば当たり前だ。あのクレスター家でさえ、間違えるときは間違える。


 それでも。――だからこそ。


「自分の弱さを知った人は、その弱さに立ち向かうことができます。愚かさを知った人は、他者の間違いに寛容であれます。――醜い己を認めた人は、その醜さすら糧にして、自己を磨くことができるはずです」

「シェイラ、さま」

「人はきっと、どこまでも弱くて、愚かで、醜くて。――けれど、それゆえに、強くて、賢明で、美しい。そんな存在ではないかと、私は思うのです」

「でも……私、は」

「少なくとも、私の目には。ご自身の弱さを、愚かさを、醜さを目の当たりにして、それでも目を逸らすことなく苦悩されているナーシャ様のお姿は、とても尊いものに映ります。……そんなナーシャ様だからこそ、私はきっと、手放したくない」


 ぽろぽろ、ぽろぽろと、絶え間なくナーシャの頬を雫が濡らす。シェイラは静かに立ち上がり、ベット脇に腰掛けて、静かにナーシャの背を抱いた。


「ナーシャ様。私たち、またここから、始めませんか? きっと今度は、お互いに弱さを曝け出せる、そんな友人になれると思うのです」

「……私が、シェイラ様を望むことを、お許し頂けるのですか?」

「友人関係に、許すも許さないもありません。お互いに関係を築くことを望んだ瞬間、二人はもう、友人として一歩を踏み出しているのですから」

「――はい。はい、そうですね」


 ナーシャの手が、シェイラの背へと回る。


「ありがとう、シェイラ様。……たくさん酷いことを言って、本当にごめんなさい」

「気にしていないわ。こちらこそ、ごめんなさい。――大好きです、ナーシャ様」


 互いの温もりが混じり合う感覚に、自然と涙が溢れてくる。

 頬を伝う熱いものを感じながら、シェイラはディアナの言葉を思い出していた。


 ――シェイラが間違えたと悔いているように、ナーシャ様も、善意から差し伸べられた手を振り払ってしまったことを、ひどく後悔しておいでだわ。お互い、同じときに悔いを残しているのなら、やり直せないわけない。でしょう?

 ――ナーシャ様のお心が追いつくまで、あともう少しだけ、待ってあげて。きっと、もうすぐ、二人がまた笑い合える未来が来るから。


(ありがとう、ディー。私に、私たちに、もう一度向き合う勇気をくれて)


 優しい未来を告げ、そっと背中を押してくれた、今ここにいない最愛の親友に感謝して。

 彼女の旅路が実りの多いものであるよう、大切なものを取り戻した寵姫は、密かに祈るのであった。


次回より、ディアナサイドです。

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