健康観察会の裏側は
大変長らく、お待たせいたしました。
裏側で激しい攻防がありつつも、表面上は何事もなく幕を閉じた『側室一斉健康観察会』。
夕刻、その事後処理に、後宮女官と侍女たちが忙しなく動き回る中――。
「皆様、本当にありがとうございます。おかげさまで何とか無事に、ナーシャ様の〝健康観察〟を乗り越えることが叶いました」
例によって例の如く、こっそり『睡蓮の間』に集まった関係者一同の前で、シェイラは深々と頭を下げた。集った人々は一様に穏やかな表情を浮かべて頷いてくれる。
「シェイラ様も、お疲れ様でした。楽なお仕事ではなかったでしょう?」
「いえ、そんな。確かに神経は使いましたが、私自身が動いたわけではありませんから」
「案外、そういった立場の方がヤキモキするものよ。シェイラ様のご指示が的確で、助かったわ」
「ヨランダさんの仰る通りです。シェイラ様、実は盤上遊戯の才覚がおありなのでは?」
頼りになる『名付き』三人の労いに、シェイラは苦笑しながら首を横に振った。
「仮に才覚があったとしても、実力が伴った才能にまで育てることはできないでしょう。遊戯ならば、まず第一にそれを楽しめる感性がなければ、決して上達はしないものです」
今回の『側室一斉健康観察会』はいわば、後宮を舞台に『牡丹派』と『紅薔薇派』、ひいては保守派と革新派の二陣営に分かれた、大規模な競走遊戯であった。終着点はナーシャで、そこに自身の陣営の内務医官を進め、彼女を診察すれば基本的には勝利となる。実にシンプルな構造だが、今回は両陣営にそれぞれ不利条件があった。
『牡丹派』は、舞台である後宮の環境設定にほぼ関われず。
『紅薔薇派』は、遊戯開始時点において、持ち駒がゼロである――という、不利が。
――シェイラと一緒に作戦の骨子を組み立てたレティシアが、クスクスと笑う。
「敢えて敵の望む舞台を作り、総力戦で敵と競う――あんな大胆な策は、意外と慎重なディアナでは、決して出て来なかったでしょう。彼女は周囲の安全を重視するあまり、自分以外を前線に出す案を無意識のうちに排除する傾向がありますから」
「そういう点から見れば、確かにディアナは正妃向きではないわね。上が全てを被るやり方では、遅かれ早かれ限界が来るもの。上に立つ者に必要なのは危機管理能力であって、危険対処能力じゃない」
「あって悪いことはないけれど、少なくともディアナの場合、危険対処能力がずば抜けているせいで『何かあったら私が動けば良いか』になってしまっているからねぇ。あの子の能力値の偏りを見るに、どこかがずば抜けて優秀なのも良し悪しなのでしょうね」
ヨランダの優しく冷静な評価に、シェイラだけでなく室内の全員が大きく首肯した。考えてみれば、ディアナがスタンザ帝国へ行く羽目になったこと自体、彼女の危険対処能力がずば抜けているせいで生じたのだ。……ずば抜けた誰かの有能さに頼り、頼られた者が泥を被るなんて悪しき慣例は、そろそろ終わりにしなければ。
――シェイラたちに与えられた最大の優位性は、マグノム夫人を筆頭とした後宮女官と侍女、後宮近衛騎士を、常識と良識の範囲内でならば自由に動かせるという点だ。彼女たちは直接的に勝利条件を掴むことはできないが、後宮内の実務を取り仕切っている存在である以上、内務医官たちも無視することはできない。十数年のブランクがあるとはいえ、マグノム夫人が過去の王宮をよく知る大ベテランであり、医局の〝弱み〟をいくつか握っていたこともあって、内務医官をどの側室の担当にするか、有無を言わさず決められたのは大きなリードであった。
とはいえそれだけでは、内務省の意――即ち保守派の意を受けて動く内務医官を食い止めることはできない。ナーシャの〝事情〟を聞かされ、〝暴く〟つもりで乗り込んでくる連中がどの程度存在するのかも、彼らと対面するまではほとんど不明だ。リリアーヌが不利な舞台での勝負に乗ったのも、そもそも敵陣営に勝利条件を収められる駒が存在しないという圧倒的優位性があったから。誰がどう動いたところで、最終的に内務医官のうちの誰かがナーシャへ辿り着けば〝勝ち〟なのだから、彼女が勝負から降りる必要はまるでなかった。リリアーヌが考えるべきは、どう転んでも〝勝ち〟な遊戯を、より自陣営にとって有利になるように〝上がる〟方法であって、〝負けないように立ち回る〟ことではなかった。――言うなればそこにこそ、シェイラたちが逆転できる〝勝機〟があったのだ。
「一人一人にできることは限りがありますが……皆の力が合わされば、巨大な力にだって対抗できる。昨年の『貴族議会』に引き続き、それが証明されたように思います」
「マグノム夫人の調整力、女官たちの〝人〟を見抜く力、後宮近衛騎士たちの機動力と――侍女たちの情報伝達網。それらを上手く組み合わせれば、特別な力なんてなくても、〝敵〟を欺くことは充分に可能ですもの」
「レティシア。忘れちゃいけないわ。それに加えて、わたくしたち側室の撹乱能力も、よ」
「もちろん、外宮室の皆様の後方支援と、何より宰相閣下の人脈もあってこそでしたわ」
ライアに話を振られたキースが、ほのかに笑ってティーカップを置いた。
「今回の件に関しましては、我々の出る幕など、ほとんどなかったようなものでしょう。せいぜいが内務医官方の事前調査と、当日の偽装工作くらいです」
「ですが、その事前調査があってこそ、内務医官たちの大まかな人間関係が読めたのですから」
「かなり重要なお役目ですよ」
「いえいえ。あの程度、造作もありません。我々外宮室は三省直属の下部機関、その中でも内務省は私どもをこき使ってくださる筆頭です。必然的に医局へ出向く機会も多く、内務医官方と雑談することもままあるわけですから、改めて調べるまでもなく、大まかなことは分かりますのでね」
「本当に助かりました。外宮室からのご助言あってこそ、サイノス医官に〝賭ける〟ことができたのですから」
――後宮を舞台にしたこの競走遊戯において、シェイラたちの実質的な勝利条件は相当に厳しかった。表層だけ見れば、たとえ開始時に持ち駒がなくとも、終了時までに新たな持ち駒を入手し終着点へ到達させれば良いように思えるが、〝新たな持ち駒〟とはとどのつまり新人の内務医官であり、その気になればいくらでも診断内容にケチをつけられてしまうからだ。それを避けるには、〝新たな持ち駒〟の仕事が完璧であると証明できる〝敵陣営の駒〟を敢えて同席させ、なおかつその診断そのものを〝敵陣営の駒〟によるものだと誤認させる必要がある。
内務医官それぞれの実力や人柄がまったく分からない中では、いくらマグノム夫人といえど、そんな〝敵陣営の駒〟を選ぶことは不可能だっただろう。手探りの中、それでもサイノス医官に白羽の矢を立てられたのは、外宮室からの情報と助言があってこそだ。
こちら側の策が上手くはまるかどうかの見極め役を担ってくれたライアが、してやったりの笑みを浮かべて焼き菓子を摘む。
「ヨルトン医官長を大叔父に持ち、優秀との評判高く、けれど現場経験は浅い……それに加えて真面目で実直な人柄となれば、〝賭ける〟価値は充分だったけれど。日々の僅かな雑談の中から彼の本質を見抜くなんて、やはり外宮室の方々は有能揃いね」
「過分な評価、恐れ入ります。単に、普段我々が接している医官方の中で、最も悪巧みに向いてなさそうな人を選出しただけなのですが、皆様方に良い結果をもたらせたようで安堵致しました」
悪巧みに向いていない、とは即ち、隠し事ができない性格ということでもある。腹芸が下手な人間に重要な案件を漏らすほど、今の保守派は愚かではないと判断し、サイノス医官をナーシャの担当に割り振った。もちろん、ヨルトン医官長が大叔父であり、彼から目をかけられている以上、サイノスが完全な敵の〝一味〟である可能性も無きにしもあらずではあったけれど、それならば彼が〝一味〟であることすらも利用できる方向で、作戦を途中修正すれば良い。――その〝見極め役〟を買って出てくれたのが、ライアだったのである。
「前評判通り……という言い方は、少し語弊があるかもしれないけれど。サイノス医官は本当に実直で勤勉、真面目ゆえに少し気弱な若者だったわ。――だからこそ、強かで狡猾なヨルトン医官長にとっては、実に御し易い〝手駒〟なのでしょうね」
サイノスをナーシャの担当医官に据えた理由は、上記の他にもいくつかある。シェイラたちの〝味方〟が後宮に到着するまでの時間稼ぎには、実践経験が乏しく健康観察一つにも戸惑うであろう彼が最適だったこと、人を疑うことを知らない性格ならば、こちら側の動きの裏を深読みしないだろうこと、ナーシャの健康観察をシェイラたちの味方に最も譲ってくれそうな人物だったこと――そして、それら全ての〝利点〟は保守派側にも当て嵌まり、それゆえに油断を誘えるだろう、と。彼がヨルトン医官長の遠縁だということも、油断を誘うという意味ではシェイラたちにとって利点だったのだ。
「マグノム夫人のお話では、〝割り振り表〟を見たヨルトン医官長殿は実に分かり易く〝納得〟されたそうです。サイノス殿であれば、医官長殿の言うことを素直に聞くでしょうからね。予めクロケット男爵令嬢を『難しい患者だ』とでも言い含めておけば、新人フォローの名目で同席を申し出ても、彼の性格上断ることはまずあり得ない。最悪、同席に間に合わなかったとしても、『丁寧に診察せよ』と命じておけば、サイノス医官自身に〝暴かせる〟ことも可能だろうと考えられたのでしょう」
「あちら側も全くの無能ではないからね。あの〝割り振り表〟を見れば、マグノム夫人が医官長と彼に近しい医官を中心に、時間のかかりそうな側室を割り振って〝足止め〟を狙っていることくらい、察しがついたはず。ヨルトン医官長にはおそらく、最も経験の浅いサイノス医官をナーシャ様の担当にして、どうにか彼女の症状の〝真相〟を誤魔化そうとしているように見えたのではないかしら。――こちらが用意している〝味方〟は、時間内には決して後宮まで辿り着けないと踏んで、ね」
いつも通りの穏やかな微笑みながら、その瞳には好戦的な光を宿し、ヨランダが断言した。彼女の視線の先では、目立たないようキースと同じ官服に身を包んだ、茶色の髪に青い瞳の、見る者に警戒心を抱かせない柔和な顔立ちの男性が、お茶を飲みつつ笑みを浮かべている。
ヨランダに釣られる形で全員の視線が彼に集まる中、今回の作戦において最も替えの利かない役目をこなした男――宰相ヴォルツが市井から引き入れた新たな医官ヴィオセルが、ゆっくりと口を開いた。
「いやはや……お話を頂いたときから覚悟はしておりましたが、なかなかに刺激的な妨害工作の数々でしたよ。かの有名な『闇』の方々のご助力がなければ、期限までに王宮へ辿り着くことは到底不可能でした」
「それほど危険な目に遭うと予想されながら、こうして私たちの〝味方〟としてお越しくださったこと、心より御礼申し上げます」
言葉だけでなく、ソファーから立ち上がり、シェイラは深々と頭を下げた。『名付き』の三人もシェイラに倣う様を見て、ヴィオセルは軽く笑う。
「まさか私が、高貴な貴族のお嬢様方に頭を下げられる立場になるなんて、ひと月前までは想像すらしていませんでしたよ。ドリー先生のお陰で、貴重な経験ができました」
「ドリー先生は、お元気でいらっしゃいますか?」
「はい。無事に診療所へ帰られまして、今は前と変わらず、訳あり患者と格闘する日々です」
春頃の『里帰り』中、クレスター伯爵家で知り合った医者の近況に、シェイラの唇は自然と綻ぶ。――病のソラを抱えたカイが頼った医者のドリーが、かつては王宮に招かれて医官として勤めたこともあるほどの名医だなんて、こんなことになるまでまるで知らなかった。
ドリー――過去にドリーミル医官と呼ばれていた彼は、若かりし頃のヴォルツとも親交があったらしい。マグノム夫人に、ナーシャの事情を外部へ漏らさず彼女の命を守ってくれる医者を頼まれていたヴォルツは、人柄と腕の両方を信じられる医者はドリーの他に居ないと、クレスター家を通じて協力を懇願した。ヴォルツの手紙を受け取ったドリーは、「王宮に戻るつもりはないが、医者が居ないとマズい状況なのは分かった。使えそうな奴が近くにいるからそいつを送る」と返事をくれたのだ。
とはいえ、内務医官が完全に保守派に取り込まれている現状、こちらが新たな医者を招くことは、あちら側とて容易に想像できる。ゆえに、まず間違いなく妨害されると踏んで、シェイラはクリスとも相談し、クレスター家の『闇』に〝味方〟の医師の護衛と案内を願った。『闇』はクレスター伯爵家の直属、シェイラが自由に動かせる存在ではないが、クリスからデュアリスにお伺いを立て、協力してもらう形を取ったのだ。もちろんデュアリスは、「ディアナの友人の頼みなら」と快諾してくれたが。
そうして、〝味方〟――ヴィオセルを、あらゆる隠し通路を駆使しながら、無事に後宮内まで通して。こっそり女官室で医官服に着替え、ナーシャの部屋の前でサイノスと顔を合わせられるようタイミングを見計らって、表舞台へと姿を現したのである。
「ヴィオセル先生が、ドリー先生のお弟子様として、その知識と技術を継承なさっていたことは、私たち全員にとっての僥倖でした」
シェイラの心からの賛辞に、ヴィオセルを除いた室内の全員が大きく頷く。言われた当人は、面映そうな表情で苦笑した。
「弟子と申しましても、ほとんど自称でして。実際のところは押しかけ見習いのようなものでしたよ。最初の頃は、先生から何度『帰れ』と言われたことか」
「それでも諦めず、教えを請われたのでしょう?」
「私の故郷では、ドリー先生は英雄です。卓越した医術で多くの人を救い、その名声によって王宮へと召されたお方ですから。かくいう私も子どもの頃、先生に命を救われましてね。そのときから、いつか先生のような医者になりたいと、独学で勉強を続けてはきましたが……貧しい家の子が、町の貸本所で学べる内容には限界がありまして。どうすれば良いのかと悩んでいたところ、風の噂にドリー先生が王宮のお医者様を辞め、辺鄙なところに診療所を構えたと聞き、いてもたっても居られなくて弟子入りを志願したのです。ドリー先生に憧れて医者の道を志したのですから、もっと学ぶのなら先生以外考えられないと、当時は必死でしたね」
その必死さがドリーに届いたのか、ヴィオセルはドリーの下で実践的な医療を学び、やがて見事、医者の資格試験に合格した。正式な医者の資格を得てからは、色々な患者を診て経験を深めたいと、ひとところに留まらない遍歴医となる。それでも、年に何度かはドリーの診療所に寄って近況報告などをしていたらしく、昨年、ソラの治療のためにドリーが自身の診療所を空けることになった際は、出発間際に訪ねたことで見事に捕まり、帰ってくるまでの留守番役をこれ幸いと任された。始まりはどうであれ、今のドリーとヴィオセルの間には、確かな師弟の絆がある。
「先生が診療所に戻られてからも、落ち着くまではとお手伝いしていたのですが……まさか、この私が内務医官に推薦されるとは、世の中思いもかけないことが起きるものです」
「……大変なお役目ではありますが、お引き受け願えますでしょうか?」
「はい、もちろんです」
実際にナーシャを診察し、事情を重々承知した上で、彼女の症状からあり得る診断を出してくれたヴィオセルは、王宮が初めてとは思えないほど落ち着いていたと、マグノム夫人とユクシム女官が揃って感心していた。サイノス医官の案内役に抜擢されたユクシム女官もまた、真面目かつ融通の利く有能女官で、マリス女官長時代からディアナに好意的だった稀有な人だ。信頼できる人柄と見て、この健康観察会の裏側で何が起こっているのかを打ち明け、協力を願ったところ快諾してくれた。他にも数名、マグノム夫人が選出した女官が、ナーシャの〝事情〟を知った上で今回の作戦に参加している。――主に、内務医官の案内役として側に控え、彼らの行動の監視と制御をするために。
「それにしても、後宮の皆様方の手腕はお見事でした。クロケット男爵令嬢のお部屋の前で、まず最初にサイノス医官と私が鉢合わせするよう、常に細かな微調整を入れ続けておられましたね」
「それぞれの医官の案内役についた女官が、彼らの診察を通してどれだけナーシャ様のことを知っているか、どこまで保守派とズブズブなのかを探り、情報と動きを密かにメモして侍女へと託し、侍女はその内容を独自の情報伝達網でシェイラ様のお部屋へと集め、シェイラ様は侍女たちが運んできた情報から、誰をどうやって足止めするか、サイノス医官をどのように進ませるか、必要に応じて指示を出す――改めて振り返ってみると、まさに戦略的な競走遊戯だったわね」
「前半、敢えてサイノス医官の足を遅くすることであちら側を油断させたの、良い判断だったと思うわ。ヨルトン医局長、あれで、少しくらい予定時間を超過しても大丈夫だと、気が緩んだように見えるから」
「それなら良かったのですが……そのような策を立てられたのも、マグノム夫人が診察の後半に、こちらの味方の側室方を多く入れてくださっていたおかげです」
医官たちの診察の速度を調整し易いよう、マグノム夫人は『紅薔薇派』と『隠れ中立派』の中から、シェイラに同情的、協力的な側室を最低一人ずつ、それぞれの医官の担当として割り当ててくれていた。保守派と特に繋がりの深そうなヨルトン医官長を始めとしたベテラン医官たちは、後半の二名ないし三名に、相当な時間がかかったはずだ。詳しい事情は伏せながらも、「医官たちを足止めしたい」と侍女を通じて届けた協力要請に、彼女たちは見事、応えてくれた。
ここ数日の諸々を思い返しながら、シェイラは改めて、室内の全員を見回す。
「誰が欠けてもきっと、ここまで来ることはできなかった……本当に、ありがとうございました」
サイノス医官を誰よりも早くナーシャの部屋へ到達させた上で、診察そのものはヴィオセルへと譲らせ、彼を証人としてナーシャの体調不良の原因を胃腸風邪によるものと診断。かつ、その診断はサイノス医官が下したものだと周囲に思わせることで口を挟めなくさせる――基本は単純な競争遊戯でも、実際のところシェイラたちの勝利条件は相当に細かく、一つでも欠ければ完全な勝ちはあり得なかった。とても厳しい戦いではあったけれど、皆の力が合わさることで、細くとも確かに繋がる勝利への道が見えるのならば、突き進まない道理はない。
シェイラたちには、クレスター家のような神懸かった洞察力も、『闇』のような特殊技能も、獅子親子のような霊力もないけれど。自分に何ができるのか、力を貸してくれる人たちをどう活かせばより大きな力を生み出せるのか、考えて、勇気を出して一歩踏み出し、動くことならできる。持っていないものを数えて嘆くより、絶望しつつも己の非力と向き合い、その〝非力〟を活かす術を模索する方が、ずっとずっと建設的だ。そうして少しずつ、互いの力を合わせて現実を切り開いた先に、きっと皆の望む未来は繋がっている。
突出した〝力〟や特別な才能が必要な場面は、確かに多い。けれど、自分たちが持たないものに頼り切って、それらにおんぶに抱っこで辿り着いた未来は、果たして〝持たざる者〟にとって最良だろうか。自分自身では何一つ努力せず、動きもせずに与えられた世界を、本当に心の底から愛せるだろうか? ――少なくとも、シェイラは最良だと思えないし、そこに愛を見出すこともできそうにない。
重要なのは、〝自分が何を持っているか〟ではない。〝今の自分の全力で、目の前の現実にどう立ち向かうか〟なのだ。失敗も間違いも全部、動いた先に得た学びでしかない。学びを恐れて歩みを止めるなど、それこそ愚かの極みだろう。
ぐ、と顔を上げて、シェイラは真っ直ぐ、前を向いた。
「皆様のお陰で、ひとまずの危機を凌ぐことはできました。ですが、これはあくまでも、一時凌ぎに過ぎません」
「えぇ、その通りね。今回は、ナーシャ様のお腹が目立ってくるギリギリ前だったから、このやり方が何とか通用したけれど……この先は、厳しいわ」
ヨランダの相槌に、ライアとキースが頷く。
「この先も、ヴィオセル先生にナーシャ様の診療をお願いすることは可能かしら?」
「不可能ではありませんが、頻繁にとなると難しいでしょう。どこの部署でもそうですが、新人は最も雑用を押し付けられる立場ですから、ちょくちょく姿が見えないとなると怪しまれますので」
「ヨルトン医官長殿に目をつけられるくらい、どうということもありませんがね。あんまり勝手を繰り返して行動を制限されるようなことになったら、本末転倒です。女官殿を挟んだ診断と処方を基本に、何か異変があれば駆けつけるという形にした方が無難、ではありますが……」
ここで、ヴィオセルの表情が曇った。全員の注目が集まる中、彼は誰に尋ねるべきか迷うように視線を彷徨かせ、やがてシェイラに固定する。
「大体の事情はドリー先生宛のお手紙と、ここへ案内されるまでのシリウス殿の説明で把握しているつもりですが……クロケット男爵令嬢様は未だ、ご自身が妊娠するに到った経緯について、固く口を閉ざしておいでなのですよね?」
「……はい」
今回の健康観察会について、シェイラはナーシャと直接やり取りせず、リディルや侍女たちを通じて「診察に来るお医者様に話を合わせれば、ただの風邪だと装える。どんな診察をされたとしても、ナーシャ様の守りたいものが脅かされることはない」と伝え、後は本人の判断に任せていた。思慮深いナーシャのことだから、リディルや侍女たちが運んでくる〝伝言〟の後ろに誰がいるか分かっていたはずだが、表向きは反発することなく、ヴィオセルに調子を合わせてくれたそうだ。
そこまで態度が軟化したのなら、或いは――と、健康観察会終了後にリディルが部屋を訪ね、改めて話をしようとしてくれたそうだが。
「……侍女の話では、『私のためにここまでしてくださったシェイラ様のお心は、本当にありがたく思う。けれどもう、私はシェイラ様に合わせる顔などないし、今更事情を話したところで、私が陛下と王宮を裏切ってしまった現実は変えられない』と、詳細についてお話しすることを拒んでおいでのようです」
「それでも、以前に比べればやはり、随分とお気持ちは落ち着いていらっしゃるわ。『陛下と王宮を裏切った』ということはつまり、少なくともお子の父君は陛下じゃないということだもの」
「……きっとナーシャ様は、お辛い気持ちをシェイラ様にぶつけてしまったことを、気に病んでおいでなのね。だから、遠回しに『陛下との仲を心配する必要はない』と、シェイラ様に伝えていらっしゃるのだわ」
ライアとヨランダの励ましに頷きつつ、シェイラは力なく笑った。
「ナーシャ様が気に病まれることなどありませんのに。私がナーシャ様のお心を軽んじてしまったがゆえのお怒りなのですから」
「それもひとえに、ナーシャ様とお腹のお子の命を第一に考えたからこそと、ご理解くださったのですよ。少しずつ、歩み寄りの方法を探られては?」
「そう、ですね。――それはそうと、」
シェイラとナーシャの仲違いのことばかりでは、話が先に進まない。軽く頭を振って気持ちを切り替え、シェイラは改めてヴィオセルに視線を戻した。
「ナーシャ様がご懐妊の経緯について明かされないとなると、この先問題がありますか?」
「この先、というよりも現段階から既に問題ですね。情けない話ですが、私は妊婦を診察したことこそあれど、妊娠出産に関してはほとんど門外漢なのです」
「……どういうことです? お医者様なのでしょう?」
「病に関してならば、かなり幅広く診療できる自負はありますし、何度か病の妊婦を単発的に診たこともあります。しかし、一人の妊婦を妊娠から出産まで、通して診た経験はありません。それは、医者の中でもさらに特別な、助産医師と呼ばれる人々のお役目なのです」
「要するに……通常の病に対する医療と、女性の妊娠出産援助は、似て非なる技術ということかしら?」
「ユーストル侯爵令嬢様の仰る通りです。加えて、妊娠中の女性は免疫力が低下しているため、常に身近に病がある通常の医師が近づくのは危険という考えもあり、その二つを同時に学ぼうという医者自体が稀でして。ドリー先生は学びに貪欲な方ゆえ助産分野にも造詣が深く、私も先生に師事しましたので知識だけならありますが、通常の診療所に健康な妊婦の方がいらっしゃることはまずありませんので、実践の機会がなかなか得られませんでした」
「なるほど……」
一口に医者といっても、その世界はなかなかに奥深いようだ。分かり易い説明に頷くシェイラに、申し訳なさそうな表情でヴィオセルが続ける。
「経験豊富な助産医師ならば、男爵令嬢様のお具合を拝見しただけで、正確な妊娠週数や細かな健康状態の把握が可能でしょう。しかし、私にあるのはあくまでも知識だけ。肝心の妊婦さんの協力なくしては、正しい診断も適切な処方援助も、非常に困難と言わざるを得ません」
「そう、ですよね」
「招かれて出向いておきながら、このような体たらくを告白する無礼をお許しください。患者の命を守る医者として、不安要素は私自身であっても看過できないのです」
「仰ること、大変よく分かります。こちらこそ、無理を言って申し訳ありません」
むしろ、最初にこうして誠実に話してくれるヴィオセルは信頼できる。通常医療と妊婦へのケアが別物という話も、説明されればさもありなんと納得できるものだ。
と、そこまで考えて。
(……あら?)
「通常医療と妊婦の援助は別……、なのですよね?」
「はい、別れていることが多いですね。それが何か?」
「いえその……私の知っている人は、病気の人も元気な妊婦さんも、当たり前に診ていたなぁと思い出したもので」
「……はい?」
ヴィオセルが笑顔のまま、怪訝な顔になった。記憶を辿って、シェイラは頷く。
「えぇ、確かそうでした。朝一に森で薬草を摘んで、午前中に街の診療所を巡って、それぞれの診療所の助けになりそうな薬草を届けるついでに診療の手伝いを」
「その〝手伝い〟とは、医者の補助的なお仕事ではなく?」
「はい。普通にお医者様の一人として、患者さんを診ていました」
「おはようございます。良い薬草が採れたので、お届けに参りました」「おぅ! ちょうど良かった、今患者が多くてよ。手伝ってくれねぇか?」「相変わらず繁盛していらっしゃいますね。もちろんお手伝いします」――なーんて会話を行く先々で繰り返し、最後に訪れた可愛らしい診療所では、当たり前にお腹の大きい女性から、ナーシャのようなまだ腹の目立たない妊婦まで、実に嬉しそうに診察していた親友の姿を思い返し、シェイラはこくこく首を縦に振った。あのときは、クレスターの街は彼女の故郷のようなものだし、薬草と医療に詳しい彼女だから診療所にも頼りにされているのだと疑問にも思わず――何より違和感ゼロで馴染みすぎていたこともあって、当たり前の光景として受け止めたが。
(もしかして、あれって、かなり変なの?)
首は縦に振りつつ、心中では全力で首を傾げていると、ヴィオセルがシェイラ以上に困惑した様子で、軽く身を乗り出してきた。
「薬草を摘みつつ診療所で医療を……? 失礼ですが、その方、本職は何を?」
「ほん、しょく?」
「数百年前まで、医師が薬師を兼ねるのは一般的なことでしたが、現在その両者は別の仕事として明確に区別されています。両方の資格を持っている者もおりますが、軸となる職はどちらかに固定するのが一般的ですので」
「あ、いえ……そういう、仕事にしている感じじゃなくて。薬学も医術も、あくまで趣味というか、特技というか」
「は……?」
「本職……ディーの本職って、何だと思います?」
本気で困って『名付き』の三人に振ると、何故か揃って深々とため息を吐かれた。疑問を表情に乗せる間もなく、ライアが頭痛を堪えるような顔で口を開く。
「何となくそんな気はしていたけど、今の話、やっぱり『里帰り』中のディアナね?」
「今更あの子の非常識に突っ込むつもりはないけれど……少なくとも、貴族令嬢がやることじゃないわ」
「私も『里帰り』中は商会の仕事に精を出していましたから、他人様のことをどうこう言える立場じゃありませんが。さすがはディアナ、常識外れでは他の追随を許しませんね」
シェイラと『名付き』三人の会話を聞いたヴィオセルは、唖然とした表情で周囲をぐるりと見回し、この中で一番話が通じそうなキースに狙いを定めたらしい。身体ごと、真横を向いた。
「ディアナ……とはまさか、クレスター家の末姫様でいらっしゃる、あのディアナ様ですか? 先頃、ドリー先生が大変お世話になったとは聞いておりましたが」
「えぇ。お話を伺うに、まず間違いないでしょうね」
「末姫様に、ご領主様のお嬢様に医者の真似事をさせるなんて、クレスター領の者たちは何を考えて……!」
「十中八九、ディアナ様がご自分で学びに出向かれて、師弟関係を築かれて、その縁でお手伝いなさっているのでしょう。クレスター一族は、学びに対して病的なほど貪欲です。ディアナ様は幼い頃から動植物の薬効全般に興味がおありだったと聞いたことがありますから、より学びを深めるべく、実践的な医療について現場で学びたいと考えられたとしてもおかしくはない。そして、いざ学ぶとなれば、決して妥協なさらなかったでしょう。通常医療と妊婦援助を別物と捉えられたかどうかすら怪しいです」
「そんな無茶苦茶な……」
「クレスター家にとっては、我々の無茶苦茶こそ平常ですから。先ほど皆様方も仰っていましたが、あの家に常識は通用しません」
達観した様子で話すキースをまじまじと見て、ヴィオセルは何かを察したらしい。深々と息を吐き出し、ソファーに深く腰掛け直した。
「いやはや……世界とは、実に面白い。私もまだまだのようです」
「ディアナ様が帰国なされば、少なくともナーシャ様の体調管理については、専門家の知見が得られるわけですね」
「嘘みたいな話だけど……ディアナだからねぇ」
「いつ頃、帰国予定でした?」
「えぇと確か……予定通りなら、明日、あちらを発つはずよ」
「なら、あともう少しですね」
今のところ、スタンザ組から、特に危急の知らせはない。スタンザ帝国がディアナを帰さないようにしているという動きもないようだし、これなら――。
〈――お話中、失礼致します〉
安堵に包まれかけた部屋に、ピンと強く張った糸のような緊張感を宿した声が落ちてきた。――この声は。
「ソラ様? 如何なさいました?」
今日のソラは、完全な裏方だ。天井裏から情報が漏れないよう、呪符を駆使して敵方の霊力者の動きを封じていた、らしい。霊術に関してシェイラたちは戦力外なので、ざっとした説明しか聞いていないが……〝健康観察会〟が終わって内務医官たちが引き上げるまで異常がなかったことは、先に報告を受けている。
と、いうことは――別案件か。
〈ご正妃様、皆様。落ち着いて、お聞きください〉
「……何があったのです?」
〈先ほど、スタンザのカイより、緊急の『遠話』が入りました。――スタンザの皇宮殿にて、末姫様が軟禁状態に陥られたそうです〉
ざわり、と室内が無言で揺れた。
「どういう、ことですか? 何故ディアナが!?」
一瞬の静寂の後、レティシアが立ち上がって上を向く。他も視線を天井へと向け、ソラの説明を待った。
〈カイの話によりますと――皇宮殿にて開かれた夜会で、皇帝が突然倒れて意識不明となったところを、末姫様がそのお力を用いて救われたそうで。その奇跡を目の当たりにしたスタンザの者たちは、末姫様を〝聖女〟と崇め、皇宮殿の奥で皇帝の治療に当たって欲しいと申し出たと〉
「ディーの〝力〟とはまさか、例の、〝森の姫〟が使ったという――」
〈はい。……ですがカイは、『そっちはたぶん大丈夫』と言っておりました。あの子がそう断言する以上、今すぐかの〝力〟が末姫様の脅威となることはないでしょう。それより、〉
「――スタンザ帝の治療を口実にディアナを奥へと閉じ込めた連中が、予定通りにエルグランドへ帰すとは思えない、ということですね?」
ゾッとするほど低く、静かな怒りに満ちた声が、場を一瞬で支配する。
ライアが――朗らかな笑みの似合う美姫が、これまで見たことのないほど鋭い瞳で、どこか遠くを睨み据えていた。
「スタンザ神話に登場する〝聖女〟……聞いたことがあるわ。困窮するスタンザの民に神の意思を伝え、生命を分け与えたとされる奇跡の存在であり、〝神の御使〟だそうよ。――民の心が支配層から離れつつあるあの国で、そんなものにまつり上げられてしまったら、生涯自由なんて得られない。エルグランド王国へ帰そうなんて、考えすらしないでしょうね」
〈えぇ。実際に現場を見たカイも、帰してもらえなさそうな空気をありありと感じたようです。――これ以上帰国が延びると後の予定に響くだろうから、なるべく早く迎えに来てほしいと言っていました〉
「言われるまでもないわね」
「と、いうか。後宮としても、早くディアナに帰ってきてもらわないと困るわ。現状、ナーシャ様の日々のケアについて、最も的確な指示を出せそうなのはディアナだもの」
「今日はたまたま安定していらしたようですが、いつまたつわりが酷くなるか、別の症状が出るか、分かりませんものね。専門家による正確な診断は必須です」
「私としても、ディアナ様が助産医師として経験豊富でいらっしゃるなら、是非ともご助力頂きたいです」
皆の意見を頷きつつ聞いて、シェイラは真っ直ぐキースを見た。
「ハイゼット補佐官。なるべく早く、陛下に事態をお伝え願えますか?」
「もちろん、すぐに。この時間でしたら、陛下はまだ執務室にいらっしゃるでしょう。近衛を通じて伝令を出し、他へ移動されないようお願いしておきます」
「助かります。……とはいえ、また手続きなどで時間がかかるのでしょうね」
「――いいえ」
普段無表情なキースが、ほのかに、薄らと、笑みを浮かべて。
「後宮の皆様が戦っておいでの間、外宮も遊んでいたわけではありませんよ。既に根回しは終わり、陛下の勅命一つで迎えの船が出せる下準備は整っています。肝である快速船も完成し、キール伯爵様にご紹介頂いた水夫の皆様の操船訓練も完了したとのこと」
「キール伯爵様が?」
「デュアリス様曰く、レティシア様が腕の良い水夫をクレスター家へ紹介するよう、キール伯へご進言なさったのだとか」
立ったままのレティシアが、強い瞳でこちらを向く。
「スタンザ帝国がディアナを素直に帰国させる可能性は、四割程度と感じておりましたから。最悪の事態に陥った場合、エルグランド王国から迎えの船を出す必要がありますが、両国の間にある海は荒れていない日の方が少ないです。荒波をものともせず、船を素早く走らせる水夫を確保していて損はないと考え、お父様にそう手紙を出したのですが……」
「レティシア様……ありがとうございます」
「いえ……できれば、杞憂で終わって欲しかったですね。まさかスタンザ帝国が、本気でディアナを手中に収めようとしてくるなんて」
ライアもだが、レティシアもかなり怒っているようだ。腹立たしいのはシェイラも同じだが、何故か怒れば怒るほど、頭の中は冴えていった。
「では、ハイゼット補佐官。陛下へのご進言、よろしくお願い致します」
「承知致しました。この時間ならば、ギリギリ内務省と外務省への通達も間に合うでしょう。上手くいけば、今日のうちに船はガントギアを出立できますよ」
「できるだけお早くお願いしますと、後宮の希望をお伝えください。迎えの人員など、後宮から出す必要があるのなら、できる限りの協力は致しますので」
「お心遣いに感謝致します。――では、私はこれにて」
立ち上がったキースに、ヴィオセルも続いた。彼は後宮に外宮室の室員のフリをして入ったので、出るときもキースと一緒でないと怪しまれるのだ。
「ヴィオセル先生。慌ただしい中ではありますが、どうかナーシャ様のこと、お願い申し上げます」
「無論のことです。クロケット様のことで何かあれば、外宮室を通してすぐにご連絡ください。今日で抜け道は把握しましたので、こっそり急いで参上します」
「頼りにしております」
二人を見送りながら、スタンザのディアナが無事であることを、シェイラは強く祈る。
(どうか、どうか。ディーが笑顔で、元気に、帰ってきてくれますように――!!)
次回より、ディアナ視点に戻ります。




