側室一斉健康観察会
何故か話があちこちに飛んで、めちゃくちゃ書きにくかった回でした……
滅多にないことですが、不備が見つかれば大幅に書き直すかもしれません(汗)
サイノスにとって〝最初の患者〟となった『睡蓮様』――ライア・ストレシア侯爵令嬢は、噂に違わぬ迫力美人であった。
「貴方が、医官長の遠縁でいらっしゃるという、サイノス医官ね? 今日はお世話になるわ」
ソファーにゆったりと腰掛け、悠然と微笑んだ彼女は、黄金の髪とやや異国風の顔立ちが印象的な女性。そこにただ座っているだけでこちらを圧倒してくるその存在感は、さすが、王国女性の序列第三位と思わせるものであった。
思わずひれ伏したくなる小市民な己を心中で宥めつつ、サイノスは深々と礼をする。
「こっ、こちらこそ、よろしくお願い、申し上げます。医官の、サイノスと申します。若輩者ゆえ、行き届かないところも多いかと存じますが、精一杯お務め致しますので、何なりと、仰ってくらしゃい、ください、ませ!」
丸暗記した口上を根性で述べてはみたが、つっかえまくりの上、最後の最後で盛大に噛んでしまった。……今すぐ帰って庭に埋まってしまいたい。
下げた頭を上げられなくなったサイノスに、華やかな笑い声が降ってくる。
「ふふっ。そのように固くならずとも大事なくてよ。今回の〝健康観察会〟は、一部の側室方に押し切られて内務省が断れなかったゆえのことと、きちんと承知しておりますから。これまで一度も医官の診察がないとお冠の方々のことは丁寧に診て頂く必要があるでしょうけれど、特にお医者様を求めていない私のような側室にまで、気を遣わなくても良いわ」
「は……え?」
「あら。サイノス殿はご存知ないの? この大騒ぎの発端が、一部の側室の我儘にあることを。現後宮に集められた側室は、私も含めて健康に不安がない者ばかりなのだから、わざわざ内務省所属の医官方の手を煩わせることもないのにねぇ。甘やかされてお育ちになったご令嬢方はどうも、日々お元気に過ごしておいでにも拘らず、定期的にお医者様に診て頂かないと大切にされていないような心地になってしまうらしいの」
これも一つの心の病かしら、と呑気に呟くストレシア侯爵令嬢の表情はあっけらかんとしていて、彼女が自分を〝甘やかされてお育ちになったご令嬢〟の一人に数えていないのは明らかだった。古参貴族家のご令嬢にしては率直な物言いに、サイノスは思わず緊張も忘れて目をぱちくりさせてしまう。
「お言葉ですが……睡蓮様はストレシア侯爵家に咲く一輪花とも名高い、ご生家の総領姫にございましょう。であればそれこそ、お家では少しの不調も見逃されぬほど大切にされていらしたのでは?」
「そうね。今となっては確かに、ストレシア侯爵家の跡取りという私の立場は、揺らぐことがないけれど。伯父様のご存命中は、異国の血が混ざった私など、本家の跡取りとして認める方はほとんどいらっしゃらなかったわ。私が正式に貴族位を得たのだって、お父様が爵位を継がれてからよ。少しの不調どころか、ストレシア侯爵令嬢と呼ばれるようになるまで、多少の病気や怪我ごときで医者にかかるなど贅沢極まりないと言われていたわね」
「そ……れは、大変な、失礼を申し上げました」
「別に良いのよ。幸い私、身体だけは丈夫だったからね。お医者様のお世話になることなく過ごしてきたから、後宮でも医官の訪問がないことを特に疑問に感じたことはなかったの。――だから、今回の〝健康観察会〟に関しては、忙しい医官方のお仕事を増やしてしまったと、申し訳なく思っているくらいよ」
「と、とんでもない。王族方にお仕えする身として、側室方の健康に気を配るのは当然のことです」
「そう言って頂けるとありがたいわ。サイノス医官は経験こそ浅いけれど、学院時代の成績は優秀で神童とも呼ばれ、しかしその名声に驕ることなく努力を怠らない、将来を嘱望される方と伺っています。そのような方には良い方へ育って頂きたいと、マグノム夫人が私のような内務医官方に協力的な側室を割り振ったそうよ。ぜひ、この〝健康観察会〟を通して、学びを深めてちょうだいね」
思わぬ話に、サイノスの胸は大きく震える。一見不可解にも思えた『睡蓮様』の担当に、これほどありがたい後宮側の気遣いがあったとは。
がばりと、先ほどよりも深く、サイノスは頭を下げた。
「なんと畏れ多い……! 睡蓮様の、後宮の皆様方のご厚意を無にせぬよう、誠心誠意務めて参ります!」
「あまり構えすぎずにね。――改めて、今日はお世話になるわ、サイノス医官」
ストレシア侯爵令嬢の巧みな話術によって、部屋に通された当初よりずっと心中は落ち着き、やる気がみなぎってくるのが分かる。サイノスはカバンから診療録を取り出すと、筆記用具を片手に大きく息を吸った。
「それでは、睡蓮様。早速ではありますが――」
――そこから始まった〝健康観察〟という名の問診は、驚くほど円滑に進んだ。患者が医者に協力的な以上、〝患者に信頼してもらう〟という最初の関門は存在しないに等しいが、それを割り引いても実にスムーズだ。本人が「身体だけは丈夫」と申告していたままに、あらゆる確認項目が『異常なし』で素通りしていく。
問診の最大の弱点は、自覚症状のない病を見逃しがちであることと、患者本人が体調不良を隠したい場合、いくらでも嘘をつかれてしまうことにある。医局では、その弱点を補うべく、問診の項目に嘘をつきづらいものを混ぜたり、問診中、相手を不快にさせない程度に視診を行うことで、違和感を逃さないよう気を配っているが、ストレシア侯爵令嬢は正しく、健康優良者だ。問診項目に引っ掛かりもなければ、顔色も姿勢も良く、表情も明るく、肌や髪の艶も申し分ない。心身ともに健康この上ない見本のようなご令嬢であった。
「それでは、最後に。えぇと……『月のものは定期的に巡っていらっしゃいますか?』」
「えぇ。毎月、女官たちが確認してくれているわ。詳しいことを知りたければ、マグノム夫人に聞いて」
「承知致しました。――はい、以上で終了です」
「ありがとう。それで、私の具合はどうなのかしら?」
「大変にお元気でいらっしゃいます。内務省への簡易報告書には、『心身とも、健康状態に問題なし』と記入しようかと存じますが、よろしいでしょうか?」
「先ほどの診療録だけでなく、そのような報告書まで書かなければならないなんて、本当に大変なお仕事ね。もちろん、よろしくてよ」
「睡蓮様のお気遣いに感謝します」
後宮内序列第三位であるご令嬢の健康観察が恙無く終わり、サイノスは心中で深々と安堵の息を吐き出していた。いくら後宮の厚意による配置だったとはいえ……否、厚意による配置だからこそ、経験が浅い身で何かやらかしてしまえば、その類は自分だけでなく大叔父である医官長にまで及ぶだろう。己の存在を好意的に受け止めてもらえているからといって、甘えてはいけないのだ。
診療録を鞄に片付けながら、サイノスがそう己を戒めていると。
「思っていたよりずっと早く、健康観察が終わったわ。サイノス医官が優秀だというお話は本当のようね」
「勿体ないお言葉に存じます」
「丁寧に診療してくださったお礼に、どうぞお茶でも飲んでいって。あなたの腕ならきっと、予定時間よりずっと早く、診療が終わるわ。少しくらい休憩しても大丈夫よ」
「い、いえ、そのような……畏れ多い」
「お茶の一杯くらいで畏まることないわ。――サマンサ、用意をお願い」
さすがと言うべきか、ストレシア侯爵令嬢に呼びかけられるまで完全に気配を消して控えていた侍女が、主の命を受け、音を立てずにしずしずと動き出す。『睡蓮の間』でお茶を供されるというまさかの事態にサイノスは慄いたが、彼をここまで案内したユクシム女官は扉の横に控えたまま、特に口を挟むことはしない。
女官が何も言わない以上、ここで歓待に応じない方が失礼に当たると判断し、サイノスは恐々ながら首肯した。
「で、では……お言葉に、甘えまして」
「えぇ、どうぞ、お座りになって。私も一緒に頂くわ」
「す、睡蓮様と席を共にするなど、不遜が過ぎます。立ったままで、」
「私がこの部屋の主で、サイノス医官がお客様な以上、おもてなしするのは当然のことよ」
「し、しかし……城勤めとは申せ、私は平民ゆえ」
「他の方のことは知らないけれど、私はお招きする方を、身分で判別したことはありません。貴族と平民が同じ席についてはならぬという法もなし、何を憚ることがあるというの」
……ここまで言われてしまっては、サイノスに座る以外の選択肢はない。恐々、びくびく、座ったところで、サマンサと呼ばれた侍女がやはりしずしずと、立派なお茶会の用意が整ったカートを押してきた。畏れ多さのあまり気が遠くなるサイノスの前で、ローテーブルの上がたちまち美麗なお茶会仕様へと整えられた。
これはどう見ても、お茶一杯の様相ではない、と思う間もなく、ストレシア侯爵令嬢は軽やかな手つきでティーカップを持ち、優雅にお茶を飲んだ。
「うん、さすがはサマンサね。とても美味しいわ。――サイノス医官もどうぞ、召し上がって」
「はい……頂戴、致します」
恭しくカップを掲げて、音を立てないよう細心の注意を払いながらそうっと飲んだところで、お茶の味など分かりはしない。「お菓子もどうぞ」と勧められて食べたところで以下同文だ。
「どう? お口に合うかしら?」
「大変、結構なお味にございます」
「サマンサはお茶を淹れるのが上手なの。――良かったわね、サマンサ。外の殿方にも褒めて頂けて」
「光栄です。――しかし、私の腕などまだまだゆえ、今後とも精進せねばなりませんわ」
「まだまだということはないでしょう」
「いいえ。紅薔薇様に比べれば、私など足元にも及びません」
前触れなく出てきた悪名高い側室の名に、サイノスの喉はごくりと鳴った。エルグランド王国国使団の長としてスタンザ帝国へ赴いている、後宮内序列第一位のご令嬢、ディアナ・クレスター伯爵令嬢――彼女の評判は頗る悪く、少なくともサイノスの周囲で良い噂は一つも聞かない。今回の〝健康観察会〟とて、『紅薔薇様』が居ない間に側室方のことを思う『牡丹様』のお言葉あって実現した、という話すらあるくらいだ。
他人を人とも思わない悪辣な性格で、後宮内でも非道の限りを尽くしており、それを憂いた者たちが少し前の貴族議会で彼女の悪事を暴こうとしたところ、クレスター家の闇の力で無念にも散っていった……内務省でそう噂されている令嬢の呼び名が、まさかこんなところで、気軽にポンっと出てくるとは。
サイノスの動揺を知ってか知らずか、ストレシア侯爵令嬢は楽しげに笑う。
「向上心を持つのは良いことだけれど、何事にも限度があるわ。ディアナのお茶の技術は、一種の特殊技能だもの。常人があの域に達するには、相当の修練を重ねる必要があるでしょう」
「修練を重ねたところで、紅薔薇様の半分でもお茶の味を引き出せれば御の字だと心得ておりますわ。しかし、やはりライア様にお仕えする身として、目標は最も高いところへ置きませんと」
「あなたがあんまり有能になり過ぎてしまうと、平凡な私じゃ主として不適格になってしまうわね」
「ライア様が平凡ならば、ごく一部の方々を除き、エルグランド王国のほとんど全てのご令嬢が平凡か平凡以下になってしまいます。過ぎた謙遜は嫌味にも通じますから、あまり外では仰いませんように」
「……その言葉は私よりむしろ、ディアナにかけてあげるべきじゃないかしら?」
「紅薔薇様の場合、お育ちになった環境のせいか、周囲から見れば過ぎた謙遜でも、ご本人としては事実を羅列していらっしゃるだけですから……嫌味にすらなりません」
「得なのか損なのか、微妙なところね」
声を弾ませて会話するストレシア侯爵令嬢と侍女からは、『紅薔薇様』への恐れなど、微塵も感じられない。二人の表情は明るく、見るからに楽しそうだ。
そんな二人は、目の前のサイノスが不可解な表情をしていることに気付いたのか、顔を見合わせていたずらっ子のように微笑んだ。どこか顔立ちが似ているからか、こうして見ると姉妹のようにも感じられる。
「私たちが、ディアナ――『紅薔薇様』について気安く話すのは、不思議?」
「あっ! い、いえ!」
「良いのよ。内務省には、古参貴族、保守貴族の皆様方が、多くいらっしゃるものね。後宮で『紅薔薇派』を纏めているディアナの評判が良くないだろうことは、想像がつくわ」
「そ、そのようなことは……」
どうやら、ストレシア侯爵令嬢は『紅薔薇様』と親しい間柄らしい。そんなご令嬢が悪評まみれなんて事実は知りたくないだろうと誤魔化してはみたが、サイノスはどうにも嘘が苦手らしく、今までろくに相手を騙せたことがない。
今回も、また。
「サイノス医官は、とても正直な人なのね。あなたのような方が担当のお医者様なら、嘘がなくて良いわ」
「も、申し訳、ありません」
「謝ることないのよ。ディアナが……というより、『紅薔薇派』が内務省から良く思われていないことくらい、分かっているから」
「その……医局内部だけならば、それほどでもないのですが。内務省は、古くから王家をお支えしてきた自負の強い省で、歴史ある名家の方々が動かしておいでですので」
「そうね。ストレシアも、祖父の頃までは歴代、内務省の重要職を務めていたと聞くわ。話を聞く限り、今もその頃とさして変わりないのでしょうね」
「おそ、らく」
「……本当のことを言うとね。現後宮にこれだけ新興貴族のご令嬢を集められたのだから、内務省の体質も少しは変わっているかなと期待していたのよ。ベルティア侯爵、だったかしら? 彼が中心となって、派閥にこだわることなく様々なお家から側室を募られたと聞くわ」
サイノスは目をぱちくりさせた。……今の話は初耳で、意外だ。
「そう、なの、ですか……? ベルティア侯爵様はランドローズ侯爵様とも親しい間柄で、革新派とは明確に敵対しておいでですから、そのようなことをご提案なさったとは寡聞にして存じ上げませんでした」
「私も人伝に聞いただけだから、本当のところは知らないのだけれど。……ならば、大勢の側室入宮の裏側にベルティア侯がいらしたというのは、単なる噂に過ぎないのかしらね」
「お貴族様のご内情など、私ごときに測れるはずもございませんが。確か、ベルティア侯爵様も、お嬢様を後宮へ上げていらっしゃいます。侯爵様のご気性からして、わざわざご令嬢の寵愛の機会が損なわれるような手は打たれないかと……いえ、これはあくまでも、私が侯爵様を拝見して、そう感じたに過ぎませんが」
「あなたから見てベルティア侯は、ご令嬢が陛下の寵愛を賜ることを望んでいらっしゃる方に見えるのね?」
「それは、えぇ、もちろん。ベルティア様に限らず、ご令嬢やお身内が側室となった方々は皆様、陛下のご寵愛を待ち望んでおいでです」
だからこそ、国王陛下の寵愛を得ている『紅薔薇様』のことが気に入らず、必要以上に悪し様な物言いをするのだろう――ということは、何となくサイノスにも飲み込めている。加えて派閥も異なるとなれば、内務省の重臣たちが彼女を重んじるどころか、何とかして陛下の寵愛か派閥の勢いのどちらかを抑えたいと躍起になるのも、分からなくはない。
内務医官として城勤めを続ければ、王族方と王族に近い方々の噂話は、自然と耳に飛び込んでくる。だが、考えてみればサイノスはまだ、ほとんどの側室方と実際に顔を合わせて話をしたことはないのだ。内務省が特に派閥の偏った場所であることは前々から何となく察していたのだから、そこで飛び交う噂についても、話八分くらいで割り引いて考えるべきだったのかもしれない。
「あの……」
勇気を振り絞り、サイノスは自ら、ストレシア侯爵令嬢へと話を切り出した。
「睡蓮様は、紅薔薇様と親しくていらっしゃるのですか?」
「えぇ。気兼ねなく話ができる、大切な友人の一人よ。スタンザから帰って来る日が待ち遠しいわ」
「で、では……紅薔薇様が、自ら望まれてスタンザへ赴かれた、という噂は」
「……やはり内務省では、そのような噂になっているのね。とんでもない話だわ。ディアナは最後まで、側室の中から国使団の長を出せという外宮からの通達に、明確な反対の意を表明していたのよ。その上で、どうしても誰か行かなければならないのなら、他の誰かをそんな危険に晒すわけにはいかないと、私たちの盾となってくれたの」
「そんな……」
「ディアナはきっと、内務省では散々な言われようでしょう。それはおそらく、本人も分かっているわ。でもね、サイノス医官。もしもこの先、あなた方がディアナの命を預るような事態に陥ったときは、どうか風評に惑わされることなく、彼女と向き合って欲しいの。命を扱うお医者様であるあなた方医官が、不確かな噂に惑わされて命の選別を行うことがないように」
強く気高い光を瞳に宿し、言葉だけ穏やかに、ストレシア侯爵令嬢は厳しく告げる。ともすれば実家の地位によって側室の扱いを変え、医療すらも満足に与えないような危うさが内務省にはあると、彼女は賢明にも見抜いているのだ。
……それは下っ端のサイノスも薄々は感じ取れていた〝欺瞞〟で。嘘のつけない彼は、口先だけでも「そのようなことはあり得ません」と言えなかった。
「……はい。私の努力の及ぶ限り、力を尽くして参ります」
今のサイノスに返せる精一杯の返答を受けた彼女は、ただ嫣然と微笑んで、静かにお茶を飲む。話していない何もかもを見透かされているような気がして、サイノスもただ、黙ってティーカップの中の液体を飲み干した。
「ご馳走さまで、ございました」
「少しは休めたかしら?」
「はい、おかげさまで」
「それなら良かった。――次はどなたのところへ行かれるの?」
「え、えぇと、ですね……」
問われ、慌てて鞄の中から割り振り表を取り出す。次の〝患者〟は、確か――。
「サングライ伯爵令嬢様、です」
「アナベラ様なのね。とても物静かで温厚な方よ。きっと、サイノス医官のやり易いように、協力してくださるわ」
「……誠に、ありがたいことです」
今一度、後宮側の気遣いを噛み締めて――ふと、一つの疑問が浮かんできた。
「あの、睡蓮様。一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「もちろんよ。何かしら?」
「私が担当申し上げるご側室に、クロケット男爵令嬢様がおいでなのですが。クロケット様も、内務医官に好意的なご側室でいらっしゃるのですか?」
「えぇ、そう聞いているけれど。それがどうかしたの?」
「いえ……実は医官長様から、クロケット男爵令嬢様が体調を崩しがちだという未確認の情報を頂いておりまして。体調がお悪いにもかかわらず無理をして、経験の浅い私でも構わないと仰ったのであれば、申し訳ないかと」
「そうねぇ……そういえば、タチの悪い胃腸風邪に罹ってあまり食が進まない方がいらしたから、厨房長が彼女用の献立を考えていたという話を、少し前にマグノム夫人から聞いたわ。もしかしたら、それがクロケット様だったのかしら」
「そ、それならば尚更、私では……」
「慌てないで。あくまでも少し前に聞いた話よ。サイノス医官の健康観察を承知されたのなら、クロケット様ご本人が問題ないと判断されたのでしょう。健康な者ばかり観察しても学びは深まらないし、クロケット様が協力的でいらっしゃるなら、これも経験と思って向き合ってみてはいかが?」
ストレシア侯爵令嬢の言葉に、迷いつつも頷く。どのみち今からでは、割り振り表の訂正は不可能だ。
「それでは、ストレシア様。長々と、お邪魔を致しました」
「いいえ。こちらこそ、色々とお話しできて、実に有意義な時間だったわ。――この先も、どうぞよろしくね」
「はっ、はい!」
最後までソファーに座ったままのストレシア侯爵令嬢に見送られ、サイノスはようやく、『睡蓮の間』を後にした――。
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初っ端で散々緊張し尽くしたせいか、それからの三部屋はある程度落ち着いて、医者らしく〝健康観察〟を乗り切れたように思う。予想外を敢えて挙げるなら、サングライ伯爵令嬢が意外と好奇心旺盛で、医者の仕事について問診の合間に度々質問を挟んできたことで、『睡蓮の間』に続いて時間がかかったくらいだ。あとの二人の側室は、もともと健康に不安もなければ内務医官に協力的というだけあって、大きな問題もなく和やかに終わった。
(さて。いよいよ次が最後の、クロケット様だ……)
緊張しつつ気を引き締めていると、ふとユクシム女官が回廊の途中で立ち止まった。やや戸惑いつつも彼女に従って足を止める。
「……あの、ユクシム女官。どうかなさいましたか?」
「いいえ、大したことではございません。――失礼致しました、ご案内致します」
促され、回廊を渡る。角を曲がった先に扉が見えて――。
(……、え?)
遠目に見ても内務医官と分かる制服を着た男が、マグノム女官長に案内されて扉の前に立っている。先輩方の誰かだろうと思いながら近づいて、近づくほどにサイノスの表情は険しくなった。
「これは、サイノス医官。次はクロケット男爵令嬢様の順番でいらっしゃいますか」
「そうです。――あの、マグノム女官長様。そちらの、医官の服を着た方はどなたですか。医局の先輩方とは一通り面識がありますが、そちらの方とは初めてお会いします」
険しい表情のまま尋ねたサイノスの前で、マグノム女官長ではなく、医官の格好をした見知らぬ男が破顔した。穏やかで人好きのする笑顔だ。
「内務医官の方ですね? 本日付であなた様の同輩となりました、ヴィオセルと申します。民間の診療所で、長く医者として務めておりました」
「ほ、本日付……?」
そう言われて、思い出す。この〝健康観察会〟の話が舞い込む少し前、新しい医官が配属されるという通達が、医局に届いていたことを。王族が増える見込みも薄い今、増員の必要があるのかと、医官長と副医官長が話していた。
あれからすぐに〝健康観察会〟の知らせが届き、医局はてんてこまいの大騒ぎに陥って、新人の受け入れについてはすっかり忘れ去られていたが……もしかして、配属日は今日、だったのか。
「ヴィオセル医官は宰相閣下のご紹介で、医局の即戦力になり得る人材として、王宮へと参られました。医局に人がおらず困っていらしたところを、通りがかった外宮室の室員が見つけ、後宮までご案内くださったのです。来て頂いたからにはお仕事をして頂こうと、まだ観察前でいらっしゃるクロケット男爵令嬢様のお部屋へとご案内申し上げたのですが……」
「あぁいえ、こちらの方がもともとの担当でいらっしゃるなら、私はそのお手伝いを」
「そ、そのような!」
宰相閣下が即戦力と見込んで呼び寄せた時点で、彼の実力と地位は間違いなくサイノスより上だ。そんな人の出迎えを忘れていた挙句、患者を横取りするなんて真似が、下っ端のサイノスにできるわけがない。――ましてや、クロケット男爵令嬢は、医官長が「くれぐれも丁寧に」と気にかけていた人物なのだから。
「初めまして。サイノスと申します。医官の末席を頂戴してはおりますが、医者としての実績はないに等しい若輩者ですので……ヴィオセル殿の診察を助手としてお手伝いし、見識を広めたく存じます」
「そうですか……?」
困惑した様子でヴィオセルはマグノム女官長に視線を移し、彼女が頷いたことで、自分が主となるべきと判断したらしい。微笑んで、首肯した。
「では、僭越ながら、クロケット様は私が診療致しましょう。――よろしくお願い致します」
物慣れた様子で、ヴィオセルは女官長の先導に従い、開いた扉の中へと入っていく。後宮という場に気圧される素振りすらない彼に、さすがは宰相閣下が見出した人物だと、妙な感心を抱いた。
「失礼致します、クロケット様。ヴィオセル医官が参りました」
マグノム女官長が声をかけた先にあるのは、おそらく寝室だ。……やはり、彼女の体調不良の話は事実なのだろうか。
「どうぞ、お通ししてください」
思ったよりも明るい声が、寝室から響いてくる。ヴィオセル医官に続いて中へ入ると、カーテンが開けられた明るい室内にある寝台に、ほっそりとした女性が腰掛けていた。
「このような場での出迎えをお許しくださいね。つい先頃まで体調を崩していたもので、侍女たちがまだ出歩くことを許してくれませんの」
「滅相もない。側室方が日々不安なくお過ごしできるようお支えするのが、我々内務医官の役目にございます。どうぞ、楽な格好でお過ごしくださいませ」
話に聞いていた通り、クロケット男爵令嬢は、内務医官に実に協力的な人だった。ヴィオセルが穏やかな癒し系であることも手伝ってか、始まった問診はするすると進んでいく。少し前の体調不良に関しても隠すことなく、微熱、吐き気、食欲不振と、胃腸風邪の代表的な症状を教えてくれた。
「最初はすぐに治ると軽視しておりましたら、思いの外長引いてしまって……苛立ちのあまり、心配してくれる友人に当たってしまうなど、大人気ないこともしてしまいました。今思えば、意地を張らず素直にお医者様をお願いすれば良かったのですね。結局、体調を崩していると見抜かれて、厨房長にまでご迷惑をお掛けして……ですが、厨房長が胃腸風邪に効く献立を考えてくださったおかげで、こうして元気になれましたの」
「そうでしたか。――ちなみに、月のものはきちんと巡っていらっしゃいますか?」
「はい。風邪のせいか、少し遅れはしましたが。詳しい記録は、マグノム夫人がつけてくださっています」
「分かりました。後で確認致します」
問診を終え、走り書いた診療録を見直したヴィオセルは、いくつかの項目を指で確認してから、改めてクロケット男爵令嬢の方を向いた。
「クロケット様。胃腸風邪は完治なさったとのことですが、念のため、触診にてお身体の具合を確認してもよろしいでしょうか? 風邪は、治りかけが一番危ういとも申しますので」
「は、はい。……椅子に座り直した方が良いですか?」
「そのままで結構ですよ。――サイノス医官、聴診器をお願い致します」
声を掛けられたサイノスが慌てて聴診器を取り出している間にも、ヴィオセルは迷いのない手つきでクロケット男爵令嬢の顔や首に触れ、的確な視診と触診を行っている。手首の脈を慎重に取った後、彼はサイノスが差し出した聴診器で、クロケット男爵令嬢の身体の音を聞いた。
「……なるほど。確かに治りかけではありますが、まだ完全ではありませんね。胃腸の動きが弱いままです。お薬を処方することも可能ですが、いかがなさいますか?」
「あ、えと……お願い、します」
「畏まりました」
穏やかに頷いて、ヴィオセルは診療録に処方を書き込む。どうやら、吐き気止めと食欲改善を目的に広く流通している薬草のようだ。
「以上で、健康観察は終了です。内務省に提出する簡易の報告書には、『長引いた胃腸風邪により食欲不振が残るが、体調は回復傾向にあり、概ね問題なし』と記載しようと考えておりますが、ご承知願えますでしょうか?」
「はい、大丈夫です。……ありがとうございます、ヴィオセル医官」
「いいえ、とんでもない。医者として当然の仕事をしたまでです。今後、また体調を崩すようなことがあれば、そのときは我慢せず、きちんと私どもを呼んでくださいね」
ヴィオセルの呼びかけに、クロケット男爵令嬢は恥ずかしそうに俯きつつも「はい」と答える。……一応助手として部屋に入ったはずのサイノスだったが、聴診器を渡す以外、まるで出番がなかった。
(やはり、第一線で働かれてきた方は、醸し出す雰囲気からして違う……)
サイノスでは、これほど円滑に触診を行うことも、クロケット男爵令嬢に信頼してもらうこともできなかったはずだ。結果論ではあるが、ヴィオセルが間に合ってくれて本当に良かったと、素直に思える。
そのまま、ヴィオセルが辞去の挨拶を述べるのを見守り、彼に続いて部屋を出る――。
「サイノス!!」
部屋を出た瞬間、廊下に響いた大声に、サイノスは驚いて背筋を伸ばした。見ると、部屋の前に、医官長以下医局の大ベテランたちが集まっている。
「い、医官長様……? いかがなさいました?」
「そなた、クロケット男爵令嬢を診察したのか?」
「は? あ、いえ――」
「――えぇ、ご立派に現場に立っておいででしたよ。実に勉強熱心な若者だと、感服致しました」
医官長の勢いに気圧されたサイノスを庇うように、ヴィオセルが前に出た。表情はほほ笑みのまま、彼は医官長と対峙する。
「ヨルトン医官長様でいらっしゃいますね。本日付で医局に配属されました、ヴィオセルと申します。ヨルトン様のお話は、師ドリーミルより、よく聞いておりました」
「は、え……ド、ドリーミル、だと!?」
「師は若い頃、ヨルトン様に大層お世話になったそうで……私が内務医官に抜擢されたと聞き、くれぐれもよろしくお伝えするよう、言いつかって参りました」
大変珍しいことながら、ヴィオセルが言葉を紡ぐ度、ヨルトン医官長の顔色が赤や青に目まぐるしく変化する。ごく普通の挨拶なだけに、医官長が何故ここまで狼狽するのか分からず、サイノスは密かに首を傾けた。
しばらく言葉を失っていた医官長は、やがて大きく首を横に振って。
「い、今は、ドリーミルの話ではない。クロケット男爵令嬢の話だ。――サイノス、診療録は!?」
「はっ、はい!」
言われるまま、サイノスは診療録を医官長へと手渡した。中を見た医官長は、ぎゅっと眉根を寄せる。
「そなたの字にしては、随分と崩れておるな……?」
「申しわけありません、医官長様。診療録の記入は、私が行いました。ですが、サイノス医官もご確認くださいましたから、書き損じはございませんよ」
「本当か、サイノス?」
「はい、医官長様。ヴィオセル医官の仰る通りです」
じっくりと、上から下まで何度も診療録を確認し、医官長は深々と息を吐き出した。
「うぅむ……実に丁寧に、診察できておるな。問診だけでなく、触診や脈診、聴診まで。基本ではあるが、実に見事だ」
「サイノス医官にとって、良い学びとなっていれば幸いですね。若い人にどんどん育って頂きたいですから」
「そ、そうだな」
にこやかなヴィオセルに対し、医官長の腰は引け気味だ。診療録をぱたんと閉じ、サイノスに返しながら、医官長は周囲をぐるりと見回した。
「……お役目の済んだ者は、先程の控え室へ戻るとしよう。いつまでも廊下を塞いでいては、後宮のご迷惑であろう」
「お気遣いに感謝致します、医官長殿」
冷ややかな笑みで彼の言葉を後押ししたのは、廊下までヴィオセルを見送ってくれたマグノム女官長だ。彼女の視線に追い立てられるように、廊下の医官たちはそそくさと移動する。
サイノスも、一番後ろから歩調を揃えながら。
(何だろう。……何か、引っかかる)
何も問題なく、無事に終わった仕事のはずなのに。
どうしてか、その背後でとてつもなく大きなものが蠢いているかのような、妙な座り心地の悪さを。
(……いや、まさか。そんなはずないよね)
微かな違和感を残して、サイノスは後宮を後にした。
――〝側室一斉健康観察会〟において、ナーシャ・クロケット男爵令嬢の担当医官が〝サイノス〟であると記され、その後ろ盾と仕事の完璧さから彼女を守る〝砦〟となったと彼が知るのは、もうしばらく後の話。
サイノス君は真面目で素直な子ですから文章は止まらないし、出てくるキャラクターも概ね気心が知れているので筆は進むのに、どこかがカチッと噛み合わず、なかなか先へと進めない難産回でした。サイノス君が真面目すぎるからかなぁ……
次回、恒例の種明かしへと進みます。




