8 シュパッツの朝食
シュパッツ家はちょっと変わった家だ。
といっても建物のことではない。
それはロードスではありきたりの、レンガ積みの小さな家だ。壁には白土が塗られていて、まあまあ手入れのされた小さな庭がついている。その二つを除けば、どこにでもある田舎の一軒家である。
変わっているのは、住人たちの方だ。
平和な朝を迎えたシュパッツ家。
全員が、といっても三人だけだが、食卓を囲んでいた。
一人目はおなじみのフランツ。いつものシャツにスラックス姿で、その上からエプロンをかけている。
食卓の椅子に座って、片手には折りたたんだ新聞を持っていた。
二人目は、こちらもおなじみのリンテ。彼女が着ているのは、深いオレンジ色のワンピースだ。
彼女は怒ったハリセンボンよろしく頬をふくらませて、対面に座るフランツを血走った目でにらんでいた。
そして三人目。大人の女性がリンテのとなりに座っている。
彼女の名はブラーヴァ・パルド。リンテの母親で、浅黒い肌と柔らかな雰囲気は、並んで座る娘と瓜二つだ。
灰色の地味なワンピースを着て、ちょっと困ったような微笑みを浮かべている。
以上がシュパッツ家の全員だ。
名字で考えると、パルドが二人にシュパッツが一人になる。
だから常識だと、ここはシュパッツ家ではなくパルド家なのだが、実際には逆だ。パルド母娘はシュパッツ家の居候だ。その事情は複雑になるので、ここではちょっと変わった家だとしておこう。
朝食の献立は、カップに入った玉ネギのポタージュと、二個ずつの白っぽい丸パン。それに小魚の燻製が一匹ついてくる。
これはロードスでは当たり前の、それもマシな部類の朝食だ。
静かに席を囲む三人。フランツとブラーヴァは食事に手をつけるが、リンテはフランツをにらむばかりで食べるそぶりは全くない。
そしてとうとう、我慢できないとばかりにリンテが激しく口火を切った。
「……ら、ラッツぅぅぅっ! ……アンタは、もうちょっとマシな起こし方ぁできないワケ!?」
リンテはトタン製の食卓を大声で揺らした。彼女は裾をたくし上げて、くっきりと拳の跡が残るお腹を、フランツに見せつけた。
「見なよ! アザになったらどうすんのさ!?」
娘の行動に、はしたない、というようにブラーヴァが顔を曇らせる。
しかし当のフランツは、素知らぬ顔で丸パンをかじるばかりだ。
「何か言う事ぁ無いわけ!?」
まったく気にする様子がないフランツに、リンテはヒモ締めのパンティもあらわに詰め寄ってくる。
ようやく、フランツが面倒そうに新聞から顔を上げた。リンテの格好を気にするでもなく、彼は静かに応じる。
「大丈夫だよ。ちゃんと手加減してあるさ」
「手加減!? あれのどこが手加減さ! 思いっきり全力じゃん!」
「まさか」フランツは新聞を裏がえし「ありえないよ」と素っ気なく返す。
「ありえるし! ほらこれ……ありゃ?」
健康的なお腹を指さしたまま、リンテが目をパチクリとさせた。
いつのまにやら、あれだけくっきりとしてた拳の跡が、さっぱりと消え失せている。
まるでキツネにつままれたような顔をするリンテに、ポタージュをすすったフランツは、得意げに鼻を鳴らした。
「手加減ができるまで、毎朝、誰かさんが練習に付き合ってくれたおかげだよ。ほら、最近はリンテに逆襲されることもないし」
「ぬがぁぁぁぁあっ!」
リンテが寝ぐせのついた髪をかきむしって吠える。
「みょーにすばしっこくなったと思ったら! こーなったら、いま、ここで、〈てっけんせーさい〉してや――」
「リンったら、いい加減にしてちょうだい」
メラメラと闘志を燃やす娘を、見かねたブラーヴァが優しく叱りつける。
すじばった細い手に首根っこをつかまれて、リンテは「ふにゅっ」とまるで子猫のように身を縮めた。
「リン、起こしてもらってるのに文句言わないの。それに、ママは聞きましたよ? 昨日はラッツちゃんにいーっぱい迷惑かけたって」
ブラーヴァの手を逃れたリンテが、身を返して仁王立ちする。
「だからそれ違うし! めーわくかけてないし! ママ、昨日は――」
昨日の出来事を語りはじめるリンテ。それに耳を傾けながら、フランツも頭の中で、昨夜の顛末を思い出していた。
忙しい夜の幕切れは、案外あっけなかった。
フランツは〈ボッチ君〉を停車させて、何の問題もなくリンテたちに合流した。二号付属信号所でボッチ君の応急修理を終えたフランツたちは、ほどなくエルザブリュックへと戻った。
フランツは線路を傷つけていないかと心配していたが、幸いにも点検で異常は報告されず、第二山岳線は深夜零時に運行を再開した。
フランツたちにはもう一つの幸運もあった。持ち帰った貨車八台は、最初からエルザブリュックで切り離し予定だったのだ。荷物が無事だったこともあり、面倒な手続きも取り調べもなかった。
結局、フランツたちは日付が変わる前に、機関庫から解放された。
ただし、テア号は念のために整備場に預けることになった。〈蒸気打槌〉を使ったことで、蒸気機関が痛んでいる可能性があったからだ。翌日、つまり今日がフランツの休日ということもあり、丸一日かけて点検と整備をすることになっている。
ちなみに、あの妙な一級機関士、エルドルト・ラシェーゼルはというと、手続きが終わるやいなや、まるで煙のように姿を消してしまった。
マテウスの話によると、事情を聞く暇もなく、上り方面へと出発してしまったそうだ。何やらリンテが悔しがっていたが、フランツには何も話してくれなかった。
もちろん、フランツも詳しく聞く気はない。エドがいなくなった事で、フランツは正直ほっとしていた。
リンテに対する約束は、結局ちゃんと果たす羽目になった。
深夜の酒場に飛び込んだリンテは、フランツにビールその他もろもろを全ておごらせ、上機嫌で帰宅した。
そのとなりには、寂しくなるほど重さの減った財布を持つ、無言のフランツの姿があった。
「――というわけなの!」
説明を終わらせて、リンテがぐいっと胸を張る。
聞き終わったブラーヴァは娘を誇るどころか、顔を真っ赤にして手で隠した。
「もう、この子ったら! ラッツちゃんにお酒までおごらせたの? まったく信じられないわ! リン、いますぐラッツちゃんに謝りなさい」
「な、なんでそうなるのよ!?」
「いやまあ」フランツは新聞を置いて、食器を流しに運びながら
「そうなると思うよ、ふつう」とつぶやいた。
「もういい、ママなんか知らない! あたしもうちょっと寝る!」
リンテは残った燻製とパンを引っつかむと、大股で自分の部屋に向かおうとする。
フランツは壁にかかったカレンダーを横目で見てから、今まさにドアを閉めんとするリンテに声をかけた。
「リン? 今日の所にバツ印が付いてるんだけど、何か用事があったんじゃないの?」
リンテがピタッと足を止める。きっかり三秒間、上を向いて考え込むと、おもむろに青くなった顔でこちらを向いた。
「……今日、何日だっけ?」
「十八日」とフランツ。
「いま何時!?」
フランツは食卓の小さな時計に目をやる。
「十時……十六分」
「ウソ超ヤバイじゃん!!」
叫んで、リンテは扉をバタンと勢いよく閉め切った。
扉越しにガタゴトバタンと、慌てて物を引っかき回す音が聞こえる。さらに「なんでもっと早く起こしてくれないのさ!」という半狂乱の声が重なった。
「……目ざまし、九時半だったのに?」
食器を洗いながら、フランツは小声で文句を言う。
その後ろにテーブルを片付けたブラーヴァが、洗い物を持って近づいてきた。
「ごめんなさいねラッツちゃん。あの子ったら、あんなふうに育っちゃって…………もう、本当に本当に誰に似たのかしら」
「いいんですよ、ラヴおばさん」フランツは食器を取りながら「もう慣れっこです」と、笑顔で答えた。
春先の水はまだ冷たくて、洗い物をするフランツの手はすぐに痛くなる。
手伝おうと手を伸ばしてくるブラーヴァを、フランツはやんわりと止めた。彼女のか細い手は、フランツの手よりも冷たい。
「ラヴおばさん、まだ安静にって、お医者さんからも言われてるんでしょ? ちゃんと休んでいてくださいよ」
「そうね……」答えるブラーヴァの顔が曇る。
フランツはわざと明るく言葉を続ける。
「また今度で、調子のいい時には、お手伝いをお願いしますから」
「そう、ごめんなさいね」
フランツに済まなさそうに頭を下げて、ブラーヴァは食堂の隅へ行く。
庭向きの面に大きく開いた窓の横に、黄ばんだ白の安楽椅子が置かれている。そこがブラーヴァの指定席だ。椅子に向かうブラーヴァの、頼りない足どりを横目に、フランツは声もなくうなずく。
(まだ熱がある感じだ。当分は安静が必要だな)
もう何年ものあいだ、ブラーヴァは体調を崩している。一日中寝たり起きたりの状態で、きつい時などベッドから起き上がれないこともある。
シュパッツ家の家事は、フランツとリンテが日替わりでやっている。とはいえ、リンテはどちらかというと大ざっぱなので、ほとんどはフランツの仕切りだ。二人とも仕事が忙しいので、ときには家事がきついと思う事もある。でも、それが嫌だとは、少なくともフランツは思っていない。
ブラーヴァには恩がある。二人が小さかった頃、必死に働いて養ってくれたのは、他ならぬブラーヴァだ。恩返しだと思えば、嫌がる気すら起きない。
水タライに最後のカップを浸けて、フランツはブラーヴァの方を向く。
「そうだ、ラヴおばさん。このあと、僕はちょっと出かけてきます。お昼は外で食べると思うので、おばさんも買い置きのものでお願いしますね」
陽射しに身を預けていたブラーヴァは、フランツに柔らかくうなずく。
「わかったわ。……そう言えば、ラッツちゃんも今日はお休みなんでしょう? ゆっくり羽を伸ばしてらっしゃいな」
そのとき、ばたこん! と勢いよく扉が開いた。
リンテが勢いよく食堂に飛び出してくる。
オレンジの袖無しハイネックに、深い緑のショートパンツ。リンテご自慢の外行きだ。ピンクのジャケットとツールバッグをわきに抱えて、跳ねるようにオレンジ色の靴下を整えている。
リンテの持ち物には、なぜかオレンジ色のものが多い。何かこだわりがあるらしいのだが、あいにくとフランツはその理由を知らない。
「ママ、それとラッツ、行ってきます! 帰りはたぶん夕方になるから、何かあったら、いつもみたいに機関庫の受付に言付けといて! んじゃ」
身支度もそこそこに、リンテはバッグに〈特大スパナ〉をぶら下げると、早口でそう告げて玄関へ駆けていく。
鉄の扉が閉まる音が聞こえる。
フランツとブラーヴァは、顔を見あわせてクスッと笑った。




