6 〈ボッチ君〉を止める方法
その事故は〈脱線暴走事故 №VML164〉として、正式に記録されることになる。
真面目だが熱心ではない調査員によって書かれた、中途半端に薄い報告書によれば、そもそもの原因は、一人の信号手のどうでもいいミスにあるようだ。
第二山岳線、四号信号所に勤めていた信号手シュミート氏(46歳 仮名)はその夕方、親戚から横流しされた美味しいココアを賞味していた。
そこへ突然、予定にない通過連絡が管理局から入る。あわてたシュミート氏は、連絡に対応しようとしてココアを転轍開閉器にこぼしてしまった。
その結果、四号付属信号所の転轍機に、深刻な誤動作が発生したのだ。
転轍機はまだ列車が通過中にも関わらず、側線側から本線側へと切り替わった。通過中だった三両目の貨車は、両線をまたぐ形で数秒走行した後、横転して大破。それに続いてさらに一両の貨車が横転した。
結果的には十二両あった貨車のうち八両が、その後二時間近くにわたって第二山岳線を暴走するという、ちょっとしたでは済まない事故へと発展した。
実は脱線の際に、極めて珍しい状況が発生した。それにより横転した二両と、暴走した八両には、ちょっとした交換が成されていたのだが、それが発覚したのは事故の収束から二日も後になってからだ。
報告書が書かれるずっと前。
クライス歴一六二年、三月十七日、午後七時四十五分。
すなわち今の時点では、まだ事故は収束してすらいない。
『捕まえた! ……連結できた!』
『それは素晴らしい。リンさん? どうです、連結制動機は使えそうですか?』
『どうだろ…………あ、ダメだ……圧力が上がらない。やっぱ壊れてるみたい』
『やはりそうですか。では予定通り、機関車の方で速度を下げましょうか』
『だね、エドさんが入るすき間を開けないとね。よっしゃ、パオロ、気合い入れるぞ!』
『ははっ、そんなに焦らなくていいですよ。……ラッツさん、ラッツさん? 聞こえてますか? 感明いかがです?』
真っ暗な運転席の中。自分の名前を呼ぶ声に、フランツは思わず体を硬くする。
『……おかしいですね、無線が切れたのでしょうか』
『寝てたりして? ラッツって、ああ見えて居眠りするのよね』
カタタン、カタタン、と、ゆっくりしたテンポで線路を踏む音が聞こえる。スピーカーからはリンテとエドの声が、代わる代わる流れていた。
エドがフランツを愛称で呼んでいるのはリンテのせいだ。
二人がコールサイン代わりに愛称を交換した時に、ついでにと彼女がエドに教えてしまったからだ。おまけ本人への断りも無しに、使っていいと太鼓判を押したのだからたまらない。
(こっちの気も知らないで……)
マイクを離し気味に持ったまま、フランツは無愛想につぶやく。
「……こちらラッツ。感明良好。寝てないですよ」
『ああよかった、大丈夫みたいですね。こちらエドです。ラッツさん、そろそろ先頭の貨車が……〈ボッチ君〉でしたっけ? それが信号場を通過しそうです。準備をお願いします』
「ボ……? いえ、ラッツ了解」
〈ボッチ君〉とは、一両だけ離れた貨車に、リンテがつけたあだ名だ。彼女はあだ名をつけるのが好きだが、そのセンスはちょっと微妙だ。
それはともかく、フランツは状況をすぐに理解した。連結の外れた貨車一両が、もうすぐ二号信号場に差しかかるらしい。
フランツとテア号の現在地は、二号信号場からエルザブリュック方面に少し戻った所だ。
急斜面を横切る線路で、右には岩山がそびえ立ち、左には深い谷が口を開けている。線路は崖の一部を削って通されていて、幅は二両がすれ違う分だけしかない。
「準備……」
フランツは握り具合を確かめるように、左手で動力梃子の握り子をキュッと鳴らす。
熱電機関車は、大まかに言えば電気機関車の一種だ。その速度の調節には、モーターにかける電圧を使っている。|
動力梃子は電圧を変えるための装置で、テア号のものは目盛りのついた半円の板と、その中心から伸びる太い握り子から成る。実際の仕組みは目盛り板の下、縦長の箱の中にあるが、普段それを目にすることはない。
握り子には目盛り金が仕込まれていて、動かすと目盛りに板に合わせてガチガチと手応えがある。
目盛りの各段階には細かい違いがあるが、ザックリと言うなら前に押せば加速で、後ろに引けば減速になる。手を離すとバネで中央に戻るようになっていて、その状態は動力を利かせずに勢いで走る〈惰行〉になる。
フランツは握り子を前に一段階、すぐに後ろに一段階動かす。
足下から聞こえるモーター音が高低して、速度計がブルブルッと震える。
「……よし」
チェックが終わり、フランツは握り子から手を離すと、ベレー帽の位置を直してその時を待った。
それから一分と経たないうちに、スピーカーがエドの声で鳴る。
『ラッツさん。こちらエド、ボッチ君を発見しましたよ。……ずいぶんと速い、だいたい時速三十キロぐらいです。通過の十秒前からカウントしますよ』
「はい……了解」
無愛想にフランツが答える。
と、そのとき、彼の頬に誰かがペチペチと触る。
(……!)
続いて頭の中に弾けた声で、フランツは相手が誰だかわかった。
「テア……?」
(――♪?)
心配しているのか、それとも叱っているのか。テアの声は軽いようでどこか尖っていて、元気づけるような暖かさと、問いかけるような鋭さが混じっていた。
「余計な心配をするな、集中しろ……かな? ありがとうテア」
(――♪)
同意を示すように声が明るく響いて、感触がフランツの頭を撫でる。
「たしかに、今は余計な事を考えてる場合じゃない」
気を取り直して、フランツは速度計を見ながら動力梃子を小刻みに動かす。
(速度は時速二十二キロ。速すぎても遅すぎてもダメだ。速すぎればボッチ君が追いついてこられない。逆に遅すぎたら衝突する)
ゆらゆらと速度計の針が揺れる。しかしフランツは、針をいちいち読んだりはしない。細かい速度を合わせる時には、速度計よりも体感の方が当てになる。
速度計はあくまでも目安だ。
なんとか目標の速度に合わせた。そうフランツが思ったとたん。
『カウント始めます! 十、九……』
エドからのカウントダウンが始まる。
フランツは回折鏡の覗き口を引き出して、位置を顔の正面に合わせる。
これが昼間なら運転の邪魔になるが、夜であればそこまで関係はない。覗き口の横についた小さな操作輪を回すと、映る景色がカシャカシャと切り替わった。
その間にも、エドのカウントダウンは進んでいる。
『二、一……通過! ラッツさん、後はお任せします』
「はい!」
短く答えて、フランツは後照灯の開閉器を弾いた。
覗き口の中で、メガネ型の視界がパッと明るく照らされる。レールがゆっくりと流れていく以外は、これといって変化はない。
(あとは、集中あるのみだ)
フランツは何も見逃さないように、目を皿のようにして回折鏡をにらむ。左手は動力梃子に、右手は計器腕板から下ろして蒸気操作梃子を握る。
フランツが待機しているあいだにも、無線機のスピーカーからは、リンテとエドの声が流れ続けている。彼らはボッチ君をフランツに任せて、後ろに固まった七両を挟み込んで止めるつもりだ。
『ちょっとは速度下がったよ。けどパオロの制動機が煙が出そうな感じ。……そろそろ信号場に着きそう。エドさん、もう本線に入ったの?』
『いま切り替えてますよ。もうちょっと、待ってくださいね』
『あ、見えた…………って、エドさんなにやってんの!?』
リンテの泡を食ったような声。対するエドは笑い交じりだ。その後ろには、馴染みのないゴウゴウという騒音が混じっている。
『ふふ、これ便利でしょう? ……さ、準備はバッチリです。ドーンと来ちゃってください』
『ドーンって、ああもう、なんだかわかんないけど、とにかく行くよ!』
無線機の向こうは、なんだかよくわからない事になっているらしい。
思わずにぎやかな会話に聞き入りそうになるフランツだが、寸前で思いとどまり、頭を振って目の前に集中する。これ以上は気が散りそうなので、回折鏡から目を上げないまま、無線機を手探りで操作してどうにか音量を下げた。
その時、ふいに視界の中心で何かが光る。
「っ、来た」
動力梃子を一段引くフランツ。
真後ろを向いた視界では、線路の流れが少し緩やかになる。だが体は、減速に合わせてわずかに前に引っ張られた。この不一致が回折鏡の嫌なところだ。
白い影が闇の中からぼうっと姿を現し、みるみるうちに大きくなる。一秒も経たないうちに、電気ランプの光に正体がはっきりと浮かび上がった。
ボッチ君――一両だけのホッパー貨車だ。
「遅いっ!?」
相手が近づく速さに、フランツはこっちが遅いと気づいて毒づく。
とっさに動力梃子を何段階も押し込むが、モーターの非力さゆえ、すぐには速度が上がらない。フランツは右手で、蒸気操作梃子をめいっぱい前に倒した。
とたんに雄叫びを上げて、蒸気が機関車の下部、車台のそこかしこから一気に噴き上がる。車輪が何度も火花を散らすが、空回りしなかったのは幸運だ。
ドスンという強い衝撃と共に、テア号は急加速してボッチ君を引き離す。
急いで蒸気操作梃子を引き戻し、フランツは加速を止める。回折鏡の向こうにボッチ君がまだ見えているのを確認すると、フランツは大きく息をついた。
「焦ったね……どうも」
汗がどっと噴きだすが、ぬぐっている暇はない。フランツは回折鏡の覗き口にしっかりと顔をつけて、ボッチ君の様子を確認する。
電気ランプの黄色い光に照らされて、白いホッパー車はゆらゆらと近づいたり離れたりしている。
フランツから見て逆三角形をした、カゴのような部分がホッパーと呼ばれる荷台だ。全体は底に向かって細くなった箱のような形で、一番下には荷物を下ろすための口がある。積む時は開いた上から流し込み、下ろす時は底を開けて流し出す仕組みになっていた。
ホッパーを支えるために、四角い車台からは、鉄の柱が何本も伸びている。
フランツがざっと見た所では、車台にも柱にも、壊れている場所はないようだ。ただ一つ、貨車の前に突き出た部分をのぞいては。
「やっぱりね……連結器も緩衝器も使えない。ぶつかってたら危なかった」
少し開いたグーの手のような連結器は、ものの見事に変な方向に曲がっている。人差し指から小指までの部分にあたる連結腕板も、途中から千切れて無くなっている。
さらに厄介なことに、緩衝器がひどいダメージを負っていた。
これは連結器の両どなりについていて、先に穴がないラッパの口みたいな形をしている。連結した時に車台がぶつからないようにするための、わりと重要な部品なのだが、それが二つともボロボロだ。
右側など、動きに合わせてブラブラと揺れている。おそらくネジ一本でつながっているだけだ。
「さて、どうやって止めてやろうか――」
(――ッ!)
独りごちたフランツの耳に、テアの鋭い声が突き抜ける。
びっくりして顔を上げたフランツを、緑の光が一瞬だけパッと照らした。
「……へ?」
一瞬あっけにとられるフランツだったが、そこは現役の機関士、さして間を置かずに光の正体に気がついた。
「予備標識!? 二号付属のか!」
予備標識は、原則として信号所の五キロメートル手前に置かれる。
つまり、もう信号所まで距離がないという事だ。
信じられない思いで、フランツは回折鏡をずらし、目をこすって速度計を確認する。揺れる速度計の針が指しているのは五十と五十五の間だ。
(速すぎる!)
予定していた速度より三十キロ近く出過ぎている計算だ。
とっさに運転席を見回すフランツ。速度が上がりすぎた原因はすぐに見つかった。
「しまった……蒸気操作梃子が」
シートの前、脚の間にある蒸気操作梃子の握り子が中央に戻っていない。ほんの一刻みだけ前進位置に入っていた。
動力梃子と違って、蒸気操作梃子は手を離しただけでは元に戻らない。基本的に補助動力である蒸気機関の操作器は、忙しく動かすようにはできていない。
フランツはあわてて蒸気操作梃子を引き戻す。
(……回折鏡だ! ずっと覗いてたから気づかなかったのか!)
視野の狭い回折鏡では速度の把握は難しい。おまけに夜なので速度を比べようにも景色は見えない。ボッチ君に集中していたフランツは、無意識のうちに動力梃子で速度を調節していた。
「ボッチ君に合わせて速度を上げてたのか! くそっ! このままじゃマズい!」
二号付属信号所までには貨車を止めるつもりだったので、すでに転轍機は待避線側に切り替えてあった。転轍機を曲がる時には、速度を下げないと確実に脱線する。
「この速度じゃ絶対に無理だっ!」
フランツは歯を食いしばる。両手でそれぞれの握り子を持ち、右足を制動機の足踏み板に置いた。
(もうこうなったら、ぶつけて速度を落とすしかない! 覚悟を決めろ、僕!)
息を吸う。動力梃子をめいっぱい後ろに引くと、足踏み板を一気に三段階も蹴りこんだ。
普段なら急停車に使う動作だが、弾みがついている機関車の減速にはこれでも足りないくらいだ。つんのめるように制動がかかり、フランツの体に安全帯が食い込む。
とたん、後ろからドッスンと重い衝撃を感じた。乱暴に押し出されるような揺さぶりに続いて、メリメリと何かが壊れる音が響いてくる。
(壊れてるのはボッチ君の方でありますように!)
フランツはとっさにそう願いながら、はげしく揺れはじめた運転席で、目を開けたまま踏んばる。
足下では、車輪がキリキリとかん高い悲鳴を上げる。シートに押しつけた背中越しに、フランツは機関車が線路を横滑りするのを感じた。
(脱輪するか!?)
そう思いはしたものの、恐怖で体が凍り付いたように動かない。
(――――!!)
テアの叫びが、耳元で叩かれたシンバルの音のように全身を駆け抜ける。
そのおかげかフランツはふっと体の自由を取り戻した。無我夢中で足踏み板を緩めて、フランツは車体の横滑りを止める。
速度計を見れば、針は一気に下がっていた。速度は三十キロを割り、さらにゆっくりと落ち続けている。背中には何かが割れる音が伝わってくるが、そこまで強くはない。
フランツは回折鏡を確認して、次に窓の向こうに目をやった。深い夜の向こう、地平線すれすれに大きな赤い星がまたたいている。二号付属信号所の信号灯だ。
「ふ、うぅぅ……死ぬかと思った」
フランツは大きく息をついた。
(この速度までなら大丈夫だ。曲がれるし、停車もできる)
一分も経たずに、前照灯が二股に分かれた線路をはっきりと照らし出した。
フランツは停車するため足踏み板を踏み込む。蒸気式の加圧ポンプが回るカタカタという音が聞こえるが、妙な事にいつまで経っても制動がかからない。
「……あれ? まさか……」
フランツの額に、じわりと冷たい汗が流れる。これはおそらく……
「ここまできて過熱失効か! 今日はなんて日だ!」
制動機はおおむね、車輪に鉄の固まり、制動鉄踏を押しつける事で速度を落とす仕組みになっている。この制動鉄踏があまり高温になると、一時的に摩擦が減って制動がかからなくなる事がある。
これを鉄道言葉では過熱失効と呼んでいた。
過熱失効の簡単な解決方法は、とにかく冷やす事だ。ほんの数分放っておくだけで、勝手に摩擦は戻ってくる。
しかし、今のフランツにそんな時間の余裕はない。モーターでは非力すぎるし、テア号の制動機は手動も足踏みも同じ制動鉄踏を使っているから意味がない。
「もうあれしかない!」
叫びながらフランツは今まで使っていなかった左足側、一番手前の足踏み板を力一杯蹴りこむ。蒸気操作梃子を最大まで後ろに引き、さらに蒸気調整弁も全開にする。
テア号の蒸気機関が、まるで地鳴りのように低く吠え猛る。
車台からも煙突からも、まるで雲のように大量の蒸気が噴出した。限界までシリンダーが動くガタガタという騒音が始まるが、車輪はまだそれに反応しない。
〈強制接続開放〉の開放足踏み板を踏んでいるからだ。これを踏み込んでいれば、蒸気機関の回転は車輪に伝わらない。この仕組みは普通の機関車には付いていない。大陸広しと言えども、テア号を含め数台にしかない装置だ。
「まだ待て……まだ……今だ! 〈蒸気打槌〉!!」
テア号とボッチ君が転轍機を踏み越えた瞬間、フランツは足踏み板から一気に足を離した。
シリンダーを逆転させ、回転を最大にしてから一気に車輪につなげる。〈蒸気打槌〉と名が付いたこの操作は、フランツが機関士の師匠、つまり彼の祖父から習った操作方法の一つだ。
数ある制動方法の中でも飛び抜けて制動力が高いが、一歩間違えば蒸気機関を大きく痛める諸刃の剣だ。〈強制接続開放〉機能がない機関車でこれをやると、最悪の場合シリンダーが破裂して使い物にならなくなる。
「止まれ! 止まれよっ!」
急激に速度が下がるテア号の中は、さながら地震のようにガタガタと大揺れする。
フランツはもはや操作どころではなく、シートにしがみついて歯を食いしばるので精一杯だ。外からはボッチ君のどこかが壊れる音が鳴り続け、窓の外には車輪から上がった火花が、まるで噴水のように噴き上がった。
そしてついに、とても長く感じた何秒かの後。
二台は最後にガタンと震えて、完全に停止した。
そこは側線終点の一歩手前だ。恐る恐る目を開けたフランツを、赤く輝く信号柱が見下ろしていた。
弾かれたように、フランツは蒸気機関を停止させる。
最後に手動制動機を閉めきったとたんに体から力が抜けてしまい、彼はぐったりとシートに寄りかかった。
「…………はっ」
止まっていた息を吐いたとたん、どっと疲れが押しよせてくる。まだ止まったのが信じられないような思いで、フランツは小さくつぶやいた。
「……止まった……止まったんだ」
(……♪)
テアの満足そうな声。
フランツも、ちょっとは満足な気分だった。
あんまり安心したせいか、フランツのまぶたが急に重くなる。目をこすってみるが、ますます眠気が湧き上がるだけで効果はない。ふと時計を確認したくなるが、もう目を開けるのすら面倒になっていた。
(ちょっとぐらい……)
そう思ったのを最後に、フランツはシートにもたれて眠ってしまった。
こうして忙しい夜は、ひとまずの終わりを迎えた。




