↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
8/15

第7話 治癒

2026年9月17日 木曜日 午前8時46分


久世透は会社のパソコンを起動した。始業まで14分。

メールを確認しながら昨日までの記録を頭の中で整理する。


能力そのものについては、少しずつ法則が見えてきた。

重量。距離。対象に対する認識。疲労。反射的な使用。


一方、能力がなぜ自分に発現したのかについては、何1つ分かっていない。

仮説はいくつもある。


30歳。

性交経験がないこと。

射精経験が1度もないこと。

性的欲求が極端に弱いこと。

生殖・内分泌系に何らかの特徴があること。


あるいは、それらすべてが能力とは無関係であること。


「標本数、1……」


昨日と同じ言葉が口から出た。これでは何も分からない。

ただし、自分の身体についてなら調べられる。


昨日検索した泌尿器科のページを開く。

平日の受付は夕方まで。土曜日は午前診療。

透はスマートフォンの予定表を開いた。


9月19日 土曜日。

予定なし。そこへ、『泌尿器科』と入力した。


     *


午前10時12分 川崎警察署


「主任」


「何だ」


「昨日の風船」


高瀬直人の言葉に、榊原慎吾はパソコンから顔を上げた。


「まだ言ってるのか」


「主任が情報残したんでしょう」


「だから?」


「気になってるのかなって」


「事件じゃない」


「はいはい」


高瀬がスマートフォンを見せる。


「コメント欄で答えてましたよ。撮影したの、12時20分くらいだそうです」


榊原の眉がわずかに動いた。


「聞いたのか?」


「聞いてませんよ。他の人が質問してました」


「ならいい」


「何がいいんです?」


「事件でもない一般人に、警察官が個人的な興味で接触する理由はない」


「そこ真面目ですよね」


「刑事がそこを真面目にやらなくてどうする」


榊原は仕事へ戻った。


「で?」


「え?」


「それだけか?」


「ああ、もう1個」


高瀬が画面を操作する。


「風、結構強かったみたいです」


投稿者とは別の人物が、ほぼ同じ時間帯に武蔵小杉周辺で撮影した動画。

街路樹の枝が揺れている。


「じゃあ風だろ」


「ですよね」


「終わりだ」


「……本当に?」


榊原が高瀬を見る。


「何が言いたい」


「いや、主任がもっと食いつくかと思って」


「高瀬」


「はい」


「俺は怪奇現象を探してるんじゃない」


「分かってますよ」


「風で説明できるなら、まず風だ」


「はいはい」


「ただし」


榊原は一瞬だけ考えた。


「風向きが分かれば、もっといい」


高瀬が笑う。


「やっぱり気になってるじゃないですか」


「仕事しろ」


「はい」


榊原は画面へ視線を戻した。


暴行事件。

自転車事故。

風船。


3つ目は事件ですらない。

久世透が映っているかどうかも分からない。


それでも昨日作った1行。


『共通人物:久世透?』


まだ消す理由はなかった。


     *


2026年9月19日 土曜日 午前9時18分


川崎市内の泌尿器科クリニック。

透は問診票を前にしていた。


『本日はどのような症状で受診されましたか』


ペンが止まる。症状は特にない。

痛みもない。排尿にも問題はない。


透は少し考えて、


『30歳まで射精経験がなく、生殖機能・ホルモン等に問題がないか確認したい』


と書いた。

改めて文字にすると奇妙だった。

だが事実だ。


受付へ提出する。

待合室は混んでいた。

高齢男性が多い。若い男性も何人かいる。


透は端の席に座り、スマートフォンを開いた。

昨日までの記録。


『仮説A:30歳まで性交経験がないこと』


『仮説B:射精経験がないこと』


『仮説C:性的欲求が極端に弱いこと』


『仮説D:生殖・内分泌系に何らかの特徴があること』


『仮説E:上記すべてと能力は無関係』


まずD。


検査で異常が見つかれば、それが能力の原因だとは言えない。

異常が見つからなくても、能力と射精経験が無関係だとは言えない。


今日得られる情報は限定的だ。

それでもゼロよりはいい。


     *


午前9時37分


「……すみません」


声がした。透は顔を上げた。

3席ほど離れたところに座っていた男性だった。


50代くらい。

額に汗を浮かべ、顔色が悪い。


男性が立ち上がる。


「ちょっと……気持ち悪くて……」


受付の職員が気づいた。


「大丈夫ですか?」


男性が1歩進む。ふらついた。


透が立った。考えるより早かった。


男性の身体が傾く。

透は腕を掴んだ。


「危ない」


体重がかかる。


重い。


――倒れる。


その瞬間、昨日落下したペンを止めたときと同じように、思考より先に身体が反応した。


――止まれ。


男性の身体が一瞬、軽くなった。


「……」


透は両腕で支える。

今のは念動力か?


分からない。

自分の腕でも支えていた。


「こちらへ」


職員が車椅子を持ってくる。

透と職員で男性を座らせた。


「気分どうですか?」


「ちょっと……」


男性が目を閉じる。

呼吸が荒い。


透は腕から手を離そうとした。

そのとき、男性の脈が指先に伝わった。


速い。


透に医学的知識はほとんどない。

何が起きているのか分からない。


ただ、苦しそうだった。

反射的に思う。


――楽になればいい。


それだけだった。


     *


数秒後。


「……あれ?」


男性が目を開けた。透は手を離す。


「どうしました?」


「いや……」


男性が自分の胸元に触れる。


「急に楽になった」


受付の職員が尋ねた。


「吐き気は?」


「さっきより全然……」


「先生に診てもらいましょう」


「はい」


男性は車椅子で診察室へ運ばれていく。


透はその背中を見た。


「……」


偶然だ。


体調不良には波がある。

座ったことで改善した可能性もある。


そもそも何の症状だったのかすら知らない。

能力と結びつける理由はない。


透は席へ戻った。

座ったところで違和感に気づく。


「……?」


全身が重い。


これまで能力を使ったときに感じた、

額の奥の頭痛とは違う。

力が抜ける。


透は腕時計を見る。


心拍数が普段より高い。


「……何だ、これ」


スマートフォンを開く。


『9:37』


『待合室で男性が体調不良』


『転倒しかけたため接触・支持』


『転倒時、反射的に「止まれ」と意識』


『念動力使用の可能性あり。腕でも支持していたため判定不能』


『接触中、「楽になればいい」と思った直後、本人が症状改善を申告』


『直後、自分に強い疲労感』


そして、


『因果関係不明』


最後に、


『生体への干渉?』


と書いた。


10秒ほど見て、


『根拠:極めて弱い』


と追加した。


     *


午前10時06分


「久世さん」


名前を呼ばれた。

診察室に入る。

医師は問診票を見ていた。


「射精した経験が1度もない、ということでいいですか?」


「はい」


「自慰も?」


「ありません」


「夢精も?」


「記憶にある限りありません」


「性的な欲求自体は?」


「ほとんどありません」


医師は透を見る。


「それで何か困っていることは?」


「特には」


「結婚や子供を希望しているとか」


「現在はありません」


「なるほど」


医師は少し考えた。


「では、どうして今回調べようと思ったんですか?」


当然の質問だった。

透は用意していた答えを返す。


「30歳になったので、1度、自分の身体に医学的な問題がないか確認しておこうと思いました」


嘘ではない。


「分かりました」


医師は頷き、必要な検査について説明を始めた。

透は聞きながら、先ほどの男性のことを考えていた。


     *


午前11時28分


クリニックを出る。


今日だけですべての結果が出るわけではない。

当然だった。


透は歩きながら、先ほどの記録を読み返した。


『生体への干渉?』


これを検証する方法。


まず、人間。却下。自分自身。

健康な状態では評価が難しい。

軽い傷を作る?


「……」


すぐに却下した。

自傷してまで調べる合理性はない。


なら。


「動物……」


口にしてから足を止めた。


マウス。

実験動物。


生体への作用を見るなら候補になる。


透は検索しようとしてやめた。

歩きながら調べる内容ではない。


帰宅してから調べる。


     *


午後1時14分


自宅。透はパソコンで情報を調べていた。


実験用マウス。

飼育環境。

動物実験。

倫理。


関連する情報を読み進め、ノートへ書く。


『生体干渉仮説・検証方法』


『人間――不可』


『自己実験――条件設定困難。意図的損傷は不可』


『マウス――候補』


そこで止まる。


治癒を調べるなら何を測る?


傷。炎症。骨折。感染。


だが比較するには条件を揃えなければならない。


治療群。対照群。同程度の損傷。


「……」


つまり能力を確かめるために、健康なマウスを意図的に傷つける。


「駄目だな」


即決だった。


ノートに書く。


『能力検証を目的とした、人・動物への意図的損傷は禁止』


線を引く。


これは能力を使い始めたときに自分で決めた、


『人間で実験しない』


という規則の延長だ。

知りたい。

だが、知るためなら何をしてもいいわけではない。


では、既に病気や怪我をしている動物なら?


それなら治療になる。

ただし自然治癒との比較が難しい。標本数も必要になる。


何より、素人が自宅で適切な評価をできるとは思えない。


「研究環境が必要か」


書く。


『本格的な検証には医学・生物学の専門知識が必要』


透はペンを置いた。


自分は理系だ。

だからこそ分かる。


理系なら何でも分かるわけではない。

専門外は専門外だ。


     *


午後2時03分


透はソファに座っていた。


午前中から続いていた疲労感は、ほとんど消えている。

そこも記録する。


『約4時間で自覚症状ほぼ消失』


仮に、本当にあの男性へ何らかの作用を与えたのだとする。


何をした?


念動力とは違う能力なのか。

それとも同じ能力なのか。


透はこれまでの仮説を思い出す。


『能力の作用単位は、物理的な物体ではなく、使用者の認識によって決定される可能性』


物体を、自分が認識した状態へ動かす。


なら。


人体を、自分が認識した状態へ――。


「いや」


透は首を振った。飛躍しすぎだ。


そもそも男性が何に苦しんでいたのか分からない。

治ったかどうかすら分からない。


ただ一時的に楽になっただけだ。


ノートに大きく書く。


『ヒーリング能力と断定しない』


その下。


『再現性確認まで保留』


ペンを置く。


5秒後、また持つ。


『ただし、人間での意図的な再現実験は禁止』


追加した。


     *


午後6時18分 川崎警察署


榊原は資料を閉じた。


「高瀬」


「はい」


「帰るぞ」


「え?」


高瀬が時計を見る。


「まだ6時ですよ」


「だから?」


「主任がこの時間に帰るなんて」


「俺を何だと思ってる」


「署に住んでる人」


「帰るぞ」


「はいはい」


2人でエレベーターへ向かう。


高瀬がスマートフォンを見る。


「あ」


「今度は何だ」


「いや、何でもないです」


「言え」


「風船の動画、伸びてるなって」


「どうでもいい」


「20万再生」


「200万でも事件じゃない」


「でも、これだけ見られたら誰か『映ってる人、知ってる』とか言い出しそうですよね」


榊原の足が止まった。


「主任?」


「……そうだな」


「え?」


「いや」


エレベーターが来る。


2人で乗り込む。


榊原は何も言わなかった。


だが、昨日とは違う可能性を1つ考えていた。


警察が人物を特定する必要はない。

インターネット上の誰かが勝手に特定する可能性がある。


久世透本人だったとしても、動画に映っているだけなら問題はない。


だが、もし同じ人物が別の不可解な映像にも映り始めたら?


「……」


「主任?」


「何でもない」


だからといって、今何かする理由はない。


事件ではない。


榊原はその考えを頭の隅へ追いやった。


少なくとも今は。


     *


午後9時12分


透は今日の記録を整理していた。


ページ上部。


『覚醒条件』


その下には今日受けた検査。


結果待ち。


次のページ。


『能力特性』


重量。

距離。

認識。

疲労。

反射。


そして今日、新しい項目が加わった。


『生体干渉?』


疑問符。


さらに、


『検証上の制限』


人間への実験禁止。


人・動物への意図的損傷禁止。


本格的検証には専門家・研究環境が必要。


「……専門家か」


透は呟いた。


問題がある。


専門家へ相談するには何を相談する?


『人に触ったら体調が治った気がします』


まともに取り合われるとは思えない。


証拠を見せればいい。


だが証拠を見せるということは、能力を他人に知られるということでもある。


透はノートに書く。


『第三者への開示――現時点ではリスク大』


そこでペンが止まる。


榊原慎吾。


警察はすでに自宅まで来ている。

榊原が能力を疑っていると判断する根拠はない。


それでも、同じ人物が不可解な現象に何度も居合わせること自体が、仮説形成のきっかけになる。


昨日、自分でそう書いた。


この状況で能力を知る人間を増やすのは得策ではない。


なら当面、自分で調べられるところまで調べる。


     *


午後11時03分


眠る直前。


透はふと右手を見た。


今日、男性を支えた手。


「治した……?」


誰も答えない。

透自身も答えられない。


だから。


「違うな」


言い直した。


「治した可能性がある」


それなら正しい。


照明を消す。

物を動かせる。

人間の動きを止められる。

複数の物体を1つの対象として扱える。


そして、もし人間の身体そのものにまで干渉できるのなら。

できることは、透が思っていたより遥かに多い。


同時に。


やってはいけないことも、遥かに多い。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。