第6話 再現
2026年9月16日 水曜日
午前7時38分
玄関の鍵を閉めた。
久世透はドアノブを1度引き、施錠を確認する。
エレベーターへ向かう。
昨日までと変わらない出勤だった。
ただ、1つだけ習慣が増えていた。
周囲を見る。
監視カメラ。
通行人。
車。
建物。
自分がどこにいて、何が見えているか。
能力を隠すため――ではない。
少なくとも、透はそう考えていた。
自分の能力がどんな条件で発動するのかを知るには、環境を把握しておく必要がある。
それだけだ。
マンションを出たところで、1台の自転車が横を通った。
透の視線が自然と追う。
昨日の実験で分かったこと。
複数の物体でも、自分が1つの対象として認識すると同時に作用する可能性がある。
ならば、
『自転車』
ではなく、
『自転車に乗った人』
と認識すればどうなる?
試したい。
透はすぐに視線を外した。
人間で実験しない。
自分で決めた規則だ。
*
午前8時43分 川崎警察署
「主任」
高瀬直人が紙を机に置いた。
「これ」
「何だ?」
「昨日の自転車事故。自転車屋で見てもらったそうです」
榊原慎吾が顔を上げる。
「所有者が?」
「はい。本人が心配になったみたいで」
「結果は?」
「異常なし」
榊原が手を出す。
高瀬が記録を渡した。
ブレーキ。
ワイヤー。
ホイール。
タイヤ。
いずれも通常使用に問題なし。
「整備士に話は?」
「聞きました」
「何て?」
「『普通にブレーキをかけて転倒したんじゃないですか』って」
「だろうな」
「俺もそう思います」
高瀬は椅子に座った。
「ということで、1個消えましたね」
榊原が顔を上げる。
「何が?」
「故障」
数秒。
榊原が笑った。
「そうだな」
「主任の真似です」
「似てない」
「ホームズ方式」
「名前をつけるな」
榊原は資料を机に置いた。
機械的故障の可能性は低下した。
だが、急ブレーキは残る。
乗員の記憶違い。
路面上の小さな障害物。
タイヤの一時的なロック。
まだいくらでもある。
「事故の映像、もう1度見られるか?」
「またですか?」
「ああ」
「主任」
「何だ?」
「これ、事件じゃないですよ」
「分かってる」
「昨日、自分で言ったじゃないですか。犯罪性もないって」
「だから捜査はしない」
「じゃあ何するんです?」
「見るだけだ」
「それを捜査って言うんじゃ……」
「高瀬」
「はい?」
「暇か?」
「忙しいです」
「じゃあ仕事しろ」
「主任が呼んだんでしょうが」
高瀬は文句を言いながら映像を開いた。
再生。
自転車が画面右から入ってくる。
歩道から子供。
乗員がブレーキをかける。
自転車が止まる。
男性が前へ投げ出される。
「普通ですよね」
高瀬が言った。
「そう見える」
「じゃあ終わり」
「待て」
巻き戻す。
榊原が映像をコマ送りにした。
「ここ」
「はい」
「ブレーキをかけてる」
「はい」
「次」
1コマ。
「まだ動いてる」
「ですね」
「次」
もう1コマ。
「止まった」
「……はい」
榊原は画面へ顔を近づけた。
「停止までが短い」
「映像のフレームレート低いですよ」
「分かってる」
「正確な減速度なんて出せません」
「それも分かってる」
「じゃあ?」
「分からないから、分からないままにしておく」
高瀬が眉をひそめる。
「主任って、意外と『分からない』ってよく言いますよね」
「分からないものを分かったことにするよりいい」
「それはそうですけど」
榊原はもう1度再生した。
自転車が止まる。
男が飛ぶ。
「……」
榊原が映像を止めた。
「どうしました?」
「いや」
昨日確認した記録では、この事故の現場にも久世透はいた。
その前日の暴行事件を通報したのも、久世透。
「主任?」
「何だ?」
「久世さんのこと考えてます?」
榊原が高瀬を見る。
「何で分かった?」
「昨日から、その顔してるんで」
「どんな顔だ?」
「面倒くさいこと見つけた顔」
「……」
榊原は映像へ視線を戻した。
「気にはなる」
「ですよね」
「だが、それだけだ」
「2日連続ですよ?」
「この男はこの近くに住んでる」
榊原は映像を閉じた。
「近所で起きた2つの出来事の現場付近にいた。それだけで人を疑うのか?」
「疑うっていうか……」
「先に久世を疑うと、全部が久世に見える」
高瀬は黙った。
「それは捜査じゃない」
昨日と答えは変わらない。
2件なら、まだ偶然でいい。
だが、偶然だと決める必要もない。
久世透。
その名前は消さずに残しておく。
*
午後0時24分 武蔵小杉
透は昼食を終え、会社へ戻る途中だった。
交差点。
信号待ち。
道路の反対側で、女の子が風船を手放した。
赤い風船が空へ上がる。
女の子が泣きそうな顔で見上げた。
透も見る。
――動かせるか?
考えるより先に、興味が勝った。
人間ではない。
危険もない。
風船を見る。
――下。
風船の上昇が止まった。
「……」
透は目を細める。
風が吹く。
横へ流れる。
――こっち。
風船がゆっくり戻ってくる。
女の子の頭上へ。
母親が驚いた顔で風船を掴んだ。
「よかったね」
母親の声。
女の子が笑う。
透はそのまま歩き出した。
10歩。
立ち止まる。
「……軽い」
頭痛がない。
疲労感もほとんどない。
これまでより距離はある。
なのに負荷が小さい。
風船だから?
軽いから?
あるいは――
透はスマートフォンにメモする。
『12:24 推定距離約15m』
『対象:ヘリウム風船』
『上下・水平方向への移動成功』
『自覚的負荷ほぼなし』
『重量と負荷の相関?』
そこでスマートフォンを下ろした。
視線の先に、防犯カメラがあった。
「……」
駅前なのだから当然だ。
能力そのものは映らない。
映像に残るのは、風船を見ている自分だけ。
だが。
同じことが何度も起きたら?
透はカメラから視線を外した。
*
午後6時47分
帰宅。
夕食。
風呂。
普段なら、このまま能力の実験を始める。
だが今日は先に調べることがあった。
*
午後7時31分
パソコンの画面に医学論文や医療機関の解説が並んでいた。
検索を始めてから1時間近く経っている。
透は椅子にもたれた。
「……童貞じゃないな」
悠真に言われてから、一応仮説として残していた。
30歳まで性交経験がない。
だから能力が強くなった。
しかし、考えるほど雑な分類だった。
性交経験の有無。
自慰経験の有無。
射精経験の有無。
性的欲求。
生殖機能。
ホルモン。
これらは同じものではない。
透はノートを開いた。
『覚醒条件に関する仮説』
その下へ書く。
『A:30歳まで性交経験がないこと』
『B:射精経験がないこと』
『C:性的欲求が極端に弱いこと』
『D:生殖・内分泌系に何らかの特徴があること』
『E:上記すべてと能力は無関係』
透はEの横に丸をつけた。
否定ではない。
むしろ絶対に残しておくべき仮説だった。
能力がある。
自分には射精経験がない。
その2つが同時に存在するからといって、因果関係があるとは限らない。
「標本数、1」
透は呟いた。
話にならない。
それでも、自分自身について確認できることはある。
自慰をした経験はない。
性交経験もない。
夢精した記憶もない。
性的な夢については――記憶にない。
そもそも異性を性的な対象として強く意識した記憶自体がほとんどなかった。
だが、それはいつからだ?
透は新しいページを開き、縦線を引く。
年齢を書き始めた。
10歳。
11歳。
12歳。
13歳。
14歳。
「……13」
中学2年。
体育館。
転がってきたボール。
自分の足元へ届く前に、不自然に止まった。
当時は床の傾斜か何かだと思った。
それだけではない。
中学1年のころ。
机から落としたペンが、一瞬だけ不自然な軌道を描いたことがあった。
記憶は曖昧だ。
証拠にはならない。
それでも時期は近い。
思春期。
周囲の男子が女子の話をするようになったころ。
悠真たちが性の話を始めたころ。
自分だけが、その話題にほとんど興味を持てなかったころ。
「30歳じゃない」
透は年表を見る。
能力は30歳になった瞬間に生まれたわけではない。
少なくとも、その可能性は低い。
思春期から弱い現象が存在し、30歳前後になって急激に強くなった。
なら、何かが蓄積している?
透は書く。
『仮説F:思春期以降、何らかの要因が時間とともに蓄積』
すぐ横に、
『根拠なし』
と書いた。
「……精子?」
口に出してみる。
馬鹿馬鹿しく聞こえた。
だからこそ調べる。
精子が永遠に体内へ蓄積され続けるわけではない。
産生されたものがそのまま何年も保存される、という単純な仕組みではない。
「じゃあ違う」
線を引きかけ、やめた。
「いや。それも早い」
精子そのものが蓄積している必要はない。
仮に能力と射精経験に関係があるとしても、原因が精子そのものとは限らない。
ホルモン。
神経系。
あるいは、現在の医学では測定対象にすらなっていない何か。
そしてもちろん、完全な偶然。
透はノートに書く。
『精子そのものの物理的蓄積説――既知の生理学とは整合しない。優先度低』
これなら消せる。
仮説そのものではなく、特定の説明だけを。
次に自分の身体。
声変わりはした。
髭も生える。
2次性徴に明らかな異常を自覚したことはない。
健康診断でも大きな問題を指摘されたことはない。
しかし、
「生殖機能が正常だという証明にはならない」
ホルモン値。
生殖器。
その他の身体的特徴。
自宅では調べられない。
透はスマートフォンを手に取った。
病院を検索する。
泌尿器科。
男性不妊外来。
いくつか候補が出る。
「……行くか」
病気だと思っているわけではない。
能力について医師に話すつもりもない。
ただ、30歳まで1度も射精した経験がない。
これは事実だ。
その事実に医学的な原因があるのか。
まず、そこを調べる。
透は受診できそうな医療機関をメモした。
そこで時計を見る。
午後8時07分。
「まだできるな」
ノートを閉じた。
*
午後8時12分
実験開始。
今日のテーマは重量。
1グラム。
10グラム。
50グラム。
100グラム。
500グラム。
同じ距離。
同じ移動量。
試行回数を揃える。
当然、完全な条件統制ではない。
自分自身の疲労が蓄積する。
そこで重量の順番をランダム化する。
午後9時38分。
途中結果。
「……やっぱり違う」
軽い物ほど成功率が高い。
負荷も小さい。
だが、比例していない。
1グラムと10グラム。
ほぼ差がない。
10グラムと100グラム。
少し差がある。
100グラムと500グラム。
明確に違う。
「閾値?」
ノートへ書く。
次。
1キログラム。
水を入れたペットボトル。
――右。
動かない。
もう1度。
動かない。
3回目。
わずかに揺れた。
額の奥が重くなる。
『負荷、大』
記録する。
そこでやめるべきだった。
だが、透は部屋を見回した。
ローテーブル。
推定10キログラム以上。
「……」
試したことがない。
――右。
何も起きない。
もう1度。
――右。
強い頭痛。
テーブルは動かない。
「無理か」
息を吐いた。
その瞬間、テーブルの上のボールペンが転がった。
床へ落ちる。
透は反射的に思った。
――止まれ。
ペンが空中で止まった。
「……」
床まで40センチ。
完全に静止している。
透は立ち上がり、近づく。
ペンは浮いている。
「どういう……」
これまで能力を使うときは、対象を見ていた。
意識していた。
今は違う。
落ちた。
止める。
ほとんど反射だった。
意識を外す。
カラン。
ペンが床へ落ちた。
「反応速度……」
透は拾い上げる。
5グラム程度。
軽いからなのか。
それとも意識的な操作と反射的な操作では、能力の効率そのものが違うのか。
『21:43』
『落下中のペンを反射的に静止』
『意識的な準備なし』
『成功』
『負荷ほぼなし』
『反射的使用では効率が上昇する可能性』
『要検証』
透は時計を見る。
今日は終わりだ。
明日も仕事がある。
*
午後9時51分 川崎警察署
「主任」
帰り支度をしていた高瀬が振り返った。
「何だ?」
「これ、見ます?」
スマートフォンを見せる。
「何を?」
「SNSで流れてきた動画」
「仕事中に何見てる」
「もう帰るところです」
「じゃあ帰れ」
「武蔵小杉なんですよ」
榊原は興味なさそうに画面を見る。
短い動画。
女の子。
赤い風船。
手を離す。
上がる。
風に流される。
そして、戻ってくる。
『奇跡的に戻ってきた!』
母親らしき声が入っている。
「風だろ」
「ですよね」
「それ以外に何がある?」
「いや、主任が最近、変なことばっか気にしてるから」
「帰れ」
「はいはい」
高瀬がスマートフォンをしまおうとした。
「待て」
「はい?」
「もう1回」
「気になるんじゃないですか」
「いいから」
再生。
風船。
上昇。
横へ流れる。
戻る。
「撮影場所は?」
「武蔵小杉ですね」
「何時?」
「昼くらいじゃないですか?」
榊原は少し見てから、
「投稿者に聞く必要はない」
と言った。
「はい?」
「事件じゃない」
画面から目を離す。
「帰れ」
「はーい」
高瀬が帰る。
1人になった。
3分。
5分。
榊原の手が止まった。
「……」
自分のスマートフォンで動画を探す。
見つける。
再生。
今度は風船ではなく、背景を見る。
通行人。
店。
信号。
そして、画面の端。
1人の男。
黒髪。
細身。
立ち止まって、風船を見ている。
画質は高くない。
顔までは判別できない。
榊原は停止した。
「……まさかな」
拡大する。
粗くなる。
分からない。
久世透に似ている。
そう思った。
だが、それはすでに久世を意識しているからかもしれない。
先に答えを決めれば、証拠の方を答えに合わせ始める。
「駄目だな」
画面を閉じた。
風船が戻った。
それだけ。
風。
気流。
建物による乱流。
説明はいくらでもできる。
まして映っている男が久世かどうかすら分からない。
証拠価値はない。
ただし、否定もできていない。
榊原は動画の情報だけを自分用のメモに残した。
そして、昨日までならそこで終わっていた。
「……」
榊原は聞き取り記録を開いた。
久世透。
30歳。
会社員。
勤務先。
武蔵小杉。
榊原は画面を見る。
今日の動画も武蔵小杉。
「……なら、ここにいるのは普通か」
むしろ本人だったとしても、昼休みに勤務先周辺を歩いていた。
それだけだ。
何もおかしくない。
榊原はその事実もメモへ加えた。
『映像内の人物――久世透に似ている』
『本人と断定できず』
『仮に本人でも、勤務先周辺のため所在に不自然さなし』
そこで指が止まる。
暴行事件。
自転車事故。
風船。
3つ。
最後の1つは事件ですらない。
それでも榊原は新しい行を作った。
『共通人物:久世透?』
疑問符をつけた。
まだ、答えではない。
*
午後10時27分
帰りの電車。
榊原は吊革につかまりながら、窓に映る自分を見ていた。
頭の中には3つの映像がある。
男が止まる。
自転車が止まる。
風船が戻る。
最後だけ性質が違う。
事件ですらない。
関連づける理由もない。
だから、まだ関連づけない。
ただ、捨てない。
昔読んだホームズの考え方を思い出す。
あり得ないものを最初から答えにするのではない。
あり得るものを1つずつ排除する。
その後に残ったものから、目を逸らさない。
*
午後10時41分
透はベッドに入る前、今日の記録を読み返していた。
1冊のノートの中に、2種類の記録が並んでいる。
『能力そのものの性質』
重量。
距離。
認識。
反射。
そして、
『能力が発現した理由』
年齢。
性的欲求。
射精経験。
身体的特徴。
思春期からの記憶。
2つは別の問題だった。
だが、どこかでつながっている可能性がある。
透は今日、候補にした病院名を見る。
「まず身体からか」
自分に何か特殊なものがあるのなら、調べればいい。
何もなければ、それも1つの結果だ。
そしてもう1つ。
昼間の防犯カメラを思い出す。
不可解な現象が10回起きて、その10回すべての近くに同じ人間がいたら。
現象そのものを説明できなくても、その人間を疑うことはできる。
透はノートに新しい項目を書く。
『能力使用時のリスク』
『1 目撃者』
『2 防犯カメラ』
『3 スマートフォン等による位置情報』
『4 同一人物が複数の現象に居合わせること』
ペンが止まった。
榊原慎吾。
昨日、自宅まで来た刑事。
事実確認に混ぜて、目撃者である透自身の解釈を確認する質問をしていた。
だが、榊原が能力を疑っていると判断する根拠はない。
透は書いた。
『同一人物が複数の現象に居合わせること自体が、仮説形成のきっかけになり得る』
ノートを閉じる。
同じ夜。
榊原のスマートフォンには、久世透かもしれない男が映り込んだ動画の情報が残されていた。
透は自分自身を調べ始めた。
榊原は、久世透という共通点を調べ始めた。
そして2人とも、説明できないものを説明できないまま残していた




