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第5話 消去法

2026年9月15日 火曜日


午前7時02分


目覚ましを止めた。


久世透はベッドから起き上がり、枕元のノートを開いた。


『予測 6:58』


『実測 7:02』


『不一致』


「……4分」


昨日は一致した。


今日は外れた。


「やっぱり体内時計か」


透はペンを置いた。


1度や2度当たった程度で、能力と結びつけるべきではない。


むしろ、外れた結果の方が重要だった。


当たったときだけ記録すれば、どんな仮説でも正しく見えてしまう。


顔を洗い、朝食を取る。


7時43分。


家を出た。


昨日と同じ横断歩道。


赤信号。


透は信号を見る。


「……」


今日は何も感じない。


しばらくして、青に変わった。


それもスマートフォンへ記録する。


『信号変化について予感なし』


昨日考えた普通の説明。


毎日使う信号だから、周期を無意識に覚えている。


別の信号機など、周辺視野から得た情報を無意識に利用した。


どちらもまだ消えていない。


能力がある。


その事実を認め始めてから、世界のすべてが能力に見える。


起床時刻。


信号。


偶然。


直感。


それを透は警戒していた。


未知を疑うのと同じくらい、未知のせいにすることも疑わなければならない。


     *


午前8時21分 川崎警察署


榊原慎吾は自分の机で、2つの資料を読んでいた。


1つは9月12日、土曜日の暴行事件。


もう1つは翌13日、日曜日の自転車事故。


本来なら並べて読む理由のない資料だった。


事件と事故。


当事者同士に関係はない。


場所が比較的近い。


そして、何かが突然止まった。


それだけ。


榊原は暴行事件の供述を読む。


『女性の腕を掴んだことは認める』


『女性が腕を振りほどいた』


『追いかけようとしたが、身体が動かなかった』


薬物検査は陰性。


重度の酩酊もなし。


供述上、関連しそうな既往歴もない。


救急搬送もされていない。


警察官が到着したころには、普通に動いていた。


「主任」


高瀬直人が紙コップを置く。


「コーヒーです」


「ありがとう」


「まだそれ見てるんですか?」


「ああ」


「何かありました?」


「何も」


榊原は即答した。


「じゃあ終わりじゃないですか?」


「久世についてはな」


「久世さん?」


「通報者」


「ああ」


高瀬が思い出す。


「普通の人でしたよね?」


「普通だった」


「なら、何で名前覚えてるんです?」


「名前くらい覚える」


「主任、人の名前けっこう忘れるじゃないですか」


「うるさい」


高瀬が少し笑う。


「男の方は? パニックとか?」


「あり得る」


「じゃあ、それでいいんじゃないですか?」


「よくない」


「何で?」


「可能性があることと、説明できたことは違う」


薬物の可能性はかなり下がった。


重度の酩酊も考えにくい。


既知の病気も現時点では確認されていない。


だが、パニック。


本人の嘘。


記憶違い。


検査で拾えなかった一時的な身体的原因。


まだ、いくらでも残っている。


榊原は隣の資料を開いた。


自転車事故。


現場での確認では、前後ブレーキに異常なし。


タイヤにも異常なし。


路面は乾燥。


目立った障害物も確認されていない。


乗っていた男性は、


『子供が飛び出したのでブレーキをかけた』


『その直後、何かにぶつかったように自転車だけが止まった』


と話している。


「こっちも同じだ」


「何がです?」


「分からないことが1つ残ってる」


「急ブレーキじゃないんですか?」


「かもしれない」


「じゃあ――」


「だから、まだそれでいいとは言えない」


高瀬がため息をつく。


「主任って、昔からこんな感じなんですか?」


「何が?」


「面倒くさいところ」


「褒めてるのか?」


「全然」


榊原はコーヒーを飲み、2つの資料を並べた。


「関連してると思います?」


「思わない」


「即答」


「似ていることと、同じ原因で起きたことは別だ」


「じゃあ、何で並べてるんです?」


「関連していないとも、まだ確認できてない」


「……面倒くさ」


「聞こえてるぞ」


榊原は暴行事件と自転車事故の資料を交互に見る。


「普通の原因から消す」


「消去法?」


「ああ」


昨日、久世透も似たことをしていた。


知らないことを勝手に埋めない。


情報が足りなければ、足りないと言う。


榊原は一瞬だけその顔を思い出し、資料へ視線を戻した。


     *


午後0時37分 武蔵小杉


透は会社近くで昼食を取っていた。


悠真からメッセージが届く。


『昨日警察来たってマジ?』


透は箸を止めた。


『なぜ知ってる?』


『お前が昨日送ってきただろw』


「……」


履歴を見る。


確かに昨夜、送っている。


『警察が来た。土曜の件』


「……疲れてるな」


返信する。


『来た』


『大丈夫だった?』


『問題ない』


『能力バレた?w』


透の指が止まる。


『その話をメッセージに残すな』


送信。


すぐに既読がついた。


『あ』


『ごめん』


『今までのも消しとく』


『待て』


『え?』


『今さら不自然に消す必要もない』


『怖いこと言うなよw』


『そもそも現時点でスマホを調べられる理由がない。普通にしてろ』


『お前犯罪者みたいになってない?w』


「……」


透の指が止まった。


犯罪者。


違う。


何も犯罪はしていない。


女性を助けた。


子供も助けた。


なのに、警察に知られない方法を考えている。


そこだけ切り取れば、悠真の言葉も分からなくはない。


『昨日の刑事どうだった?』


少し考える。


『榊原慎吾』


『名前じゃねえよw』


透は昨日の会話を思い出す。


『なぜ追わなかったと思います?』


『原因、何だと思います?』


事実ではなく解釈。


自分がどう考える人間なのか。


それを確認するような質問だった。


『頭がいい』


『お前が言うなら相当じゃんw』


透は画面を見る。


そして、


『質問の仕方が少し変だった』


と送る。


『お前疑われてんの?』


『分からない』


『こわw』


『疑われていると判断する根拠はない』


『じゃあいいじゃん』


「……」


透はそこで返信を止めた。


そう。


根拠はない。


だから、警戒する理由も今はない。


ただ、榊原慎吾。


その名前は覚えておく。


     *


午後6時34分


仕事を終えた透は、真っ直ぐ帰宅した。


昨日の実験を続ける。


テーマは、


『複数対象への同時干渉』


テーブルに同じ重さの金属球を2つ置く。


それぞれ50グラム。


間隔は30センチ。


2つとも右へ動かすイメージ。


――右。


1つだけ動いた。


「失敗」


記録する。


2回目。


失敗。


3回目。


2つとも動いた。


ただし、移動した距離が違う。


「……出力を均等にできない」


50回。


成功11回。


休憩を挟み、さらに50回。


成功14回。


軽い頭痛が出始めた。


休憩すると成功率が回復する。


『疲労時に成功率低下』


『休憩後、回復傾向』


疲労との関係は、かなり濃くなってきた。


だが、今日知りたいのはそこではない。


     *


午後8時49分


透は2つの金属球を見る。


右の球。


左の球。


さっきから、そう考えている。


「……」


昨日書いた仮説。


『能力は物体そのものではなく、対象として認識したものの状態へ作用する?』


なら、考え方を変える。


2つを、2つとして考えない。


『この2つで1組』


そう認識する。


――右。


2つの球が同時に動いた。


「……」


もう1度。


――右。


同時。


3回目。


また同時。


透の目がわずかに見開かれる。


「……対象の定義?」


試行を続ける。


明らかに、さっきまでとは成功率が違う。


条件を変える。


球同士の距離を10センチ。


50センチ。


1メートル。


それでも『1組』として認識する。


動く。


次は片方へ養生テープを貼り、見た目を変える。


それでも動く。


さらに片方を金属球からワッシャーへ変える。


形も大きさも違う。


それでも、


『この2つ』


を1つのまとまりとして認識する。


――右。


球とワッシャーが同時に動いた。


「……」


透はすぐにノートへ書く。


『異なる物体でも、認識上1つの対象として扱うことで同時作用する可能性』


『要追試』


その下へ、


『能力の作用単位は、物理的な物体ではなく、使用者の認識によって決定される可能性』


と書いた。


そこで手が止まる。


昨日の自転車事故。


自転車。


乗員。


透が止めようとしたのは、


『自転車』


だった。


だから、自転車だけが急停止した。


もし、


『自転車に乗っている人間』


まで含めて1つの対象として認識していたら?


「……」


結果が変わっていた可能性がある。


そして土曜日。


43メートル先の男。


自宅での実験より遥かに遠い。


それなのに作用した。


距離だけでは説明できない。


あのとき透が認識していたのは明確だった。


『あの男』


1つの対象。


「俺の認識が……」


透は2つの物体を見る。


「現象の条件になってる?」


科学としては最悪だった。


主観。


認識。


そんなものが物理現象の条件になる。


だが、


「……実験できる」


条件を変えれば結果が変わる。


なら、主観だろうが調べられる。


透は次のページを開いた。


     *


午後8時56分 川崎警察署


榊原はまだ署にいた。


モニターには暴行事件の防犯カメラ映像。


再生する。


女性が逃げる。


男が追おうとする。


右脚が前へ出ようとして、止まる。


上半身だけがわずかに前へ傾く。


「主任」


「ん?」


「まだ帰らないんですか?」


「高瀬」


「はい?」


「これ、どう見える?」


高瀬がモニターを見る。


「男が?」


「ああ」


もう1度再生する。


「……歩こうとしてます?」


「俺にもそう見える」


「でも止まった」


「ああ」


「やっぱ怖くなったとか?」


「あり得る」


「じゃあ――」


「映像からは否定できない」


榊原は映像を閉じる。


「次」


自転車事故。


近隣店舗の防犯カメラ。


画質は良くない。


自転車。


子供。


乗員がブレーキをかける。


直後、自転車が急停止。


乗員だけが前へ飛ぶ。


「……急ブレーキ?」


「そう見える」


「じゃあ普通じゃないですか」


「映像だけならな」


現場記録。


ブレーキに異常なし。


タイヤにも異常なし。


路面は乾燥。


目立った障害物も確認されていない。


乗員は、


『何かにぶつかったように止まった』


と話している。


「ブレーキだけでこうなった可能性は?」


「ある」


「じゃあ、まだ消えない」


「ああ」


高瀬が少し笑った。


「主任の消去法、全然消えませんね」


「そんな簡単に消えたら苦労しない」


榊原は2つの映像を見る。


人間が止まった。


自転車が止まった。


それだけ。


同じ原因だと考える理由は、まだない。


「朝より何か分かりました?」


「分かった」


「何が?」


「まだ分からないってことが」


「それ、進んでます?」


「進んでる」


「どこが?」


「分からない範囲が分かった」


「主任、面倒くさいですね」


「ああ」


榊原は否定しなかった。


資料を片づけようとした、そのとき。


自転車事故の聞き取り記録が目に入った。


「……」


榊原の手が止まる。


「どうしました?」


「これ」


高瀬が覗き込む。


事故発生時、現場にいた人物。


自転車の男性。


飛び出した子供。


子供の保護者。


救急へ連絡した佐伯悠真。


そして、その場にいた佐伯の友人。


『久世透』


「……」


高瀬が榊原を見る。


「久世って」


「ああ」


「昨日の?」


「ああ」


高瀬が暴行事件の資料を見る。


110番通報者。


『久世透』


自転車事故。


目撃者。


『久世透』


「2件ともいたんですか?」


「そうなるな」


「……これ」


「高瀬」


「はい?」


「今、何を考えた?」


「久世さん、何か関係あるんじゃないかって」


「証拠は?」


「……ないです」


「暴行事件で久世が何かした?」


「通報してます」


「自転車事故では?」


「救護に協力してます」


「誰かに被害を与えた?」


「逆ですね」


「なら?」


「……今のところ、何もない」


「そういうことだ」


榊原は2枚の資料を見る。


「でも」


高瀬が食い下がる。


「2日連続ですよ?」


「久世の住所は?」


高瀬が暴行事件の資料を見る。


「現場の近くです」


「自転車事故も?」


「近いですね」


「自宅周辺に2日連続でいることの何がおかしい?」


「それは……」


「先に久世を疑うと、今度は全部が久世に見える」


高瀬が黙る。


「それは捜査じゃない」


「じゃあ、久世さんは?」


「何もしない」


「昨日、ちょっと気にしてませんでした?」


榊原は少しだけ考える。


「頭のいい目撃者だった」


「それだけ?」


「それだけだ」


「じゃあ、これは偶然?」


「それも決めない」


「え?」


「偶然だと確認したわけでもない」


榊原は資料を閉じる。


「今分かってるのは」


2つの資料に記された名前を指す。


「説明のつかない部分が残った出来事に、同じ人間が2回居合わせた」


「十分怪しくないですか?」


「2回ならな」


榊原は指を離す。


「まだ、ただの偶然でいい」


「何回なら変わるんです?」


「知らん」


「主任でも?」


「ああ」


榊原は上着を取る。


「だから数える」


高瀬がその背中を見る。


「久世さんのこと?」


「違う」


榊原は振り返る。


「出来事の方だ」


「……」


「久世を調べるために事件を見るんじゃない。事件を調べた結果、また久世が出てきたら」


一瞬、間を置く。


「そのとき考える」


榊原は署を出た。


     *


午後9時31分


透は今日の結果を整理する。


『複数対象への同時作用可能』


『認識上、1つの対象として扱った場合に成功率上昇』


『異なる物体でも成立』


『要追試』


さらに、


『能力は、使用者の認識を基準として作用している可能性』


朝の記録も見返す。


『起床時刻予測 不一致』


『信号変化 予感なし』


成功。


失敗。


両方が同じノートに並んでいる。


透は失敗を消さない。


成功した結果すら疑う。


自分の仮説が間違っている可能性を残すために。


ノートを閉じた。


     *


午後10時17分


榊原は自宅にいた。


1人暮らしの部屋。


ネクタイを外し、冷蔵庫から水を出す。


リビングの本棚には、仕事関係の本に混じって古びた文庫本が並んでいる。


シャーロック・ホームズ。


そのうち1冊を抜く。


昔、何度も読んだ。


内容はほとんど覚えている。


その中でも特に好きな考え方があった。


どれほどあり得ないように見える答えでも、他の可能性をすべて排除したあとにそれだけが残るなら、受け入れなければならない。


「……まだ早いな」


本を閉じる。


まだ残っている可能性が多すぎる。


病気。


錯覚。


偶然。


機械的故障。


証言の誤り。


他にもいくらでもある。


今の段階で奇妙な答えを考えるのは、推理ではない。


妄想だ。


ただ、榊原はスマートフォンを手に取った。


自分用のメモ。


『9/12 暴行事件――人間が停止』


『9/13 自転車事故――自転車が停止』


その下へ、


『共通点:停止』


『地理的に近接』


と書く。


そこまでで止めた。


容疑者名も仮説もない。


まだ必要ない。


だが、消す理由もない。


     *


同じころ。


透もノートを開いていた。


『複数対象への同時作用可能』


『認識上、1つの対象として扱った場合に成功率上昇』


『要追試』


その下。


『能力は、使用者の認識を基準として作用している可能性』


透はその文章を見つめる。


あり得ない。


とは書かなかった。


榊原も、2つの奇妙な出来事を、


偶然。


とは書かなかった。


2人とも、まだ答えを知らない。


だから捨てない。


あり得ないからではなく。


まだ、否定できていないから。

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