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第4話 速度への干渉

2026年9月14日 月曜日


午前6時51分


目覚ましが鳴る9分前だった。


久世透は目を開けた。


枕元のスマートフォンには触れず、天井を見たまま考える。


――6時51分。


スマートフォンを手に取る。


6時51分。


「……」


一致した。


昨日も似たことがあった。


目を覚ました直後、時計を見る前に時刻が分かった。


だが、これを能力と考えるのは早すぎる。


人間の体内時計は思っている以上に正確だ。

毎朝7時にアラームを設定しているなら、その直前に目が覚めても珍しいことではない。


透はベッドから起き、机のノートを開いた。


『9月14日(月)6:51』


『起床。時計確認前の予測6:51。一致』


それだけ書いた。


昨日までなら、ここから検証を始めていたかもしれない。


だが今日は月曜日。


「仕事か」


透はノートを閉じた。


     *


午前7時43分


マンションを出て、八丁畷駅へ向かう。


途中、昨日自転車事故が起きた場所を通った。


今日は何もない。


駅へ向かう会社員。

集団登校する小学生。

犬を散歩させる老人。

自転車。

配送トラック。


いつもの月曜日の朝だった。


横断歩道で信号を待つ。


赤。


「……」


ぼんやり前の信号機を見ていた、そのとき。


――あと4秒。


なぜか、そう思った。


4。


3。


2。


1。


青。


「……」


透は一瞬だけ立ち止まりかけた。


後ろから来た人の邪魔にならないよう、そのまま横断歩道を渡る。


偶然。


十分あり得る。


この信号は毎日のように使っている。

無意識に周期を覚えている可能性がある。


あるいは別の信号機を視界に捉え、その変化から無意識に予測した可能性もある。


どちらも十分あり得る。


だが、記録はする。


八丁畷駅へ着いてから、スマートフォンのメモへ入力した。


『信号変化を約4秒前に予測。一致』


その下へ、


『日常的に利用する信号。周期の記憶、周辺視野から得た情報による無意識の予測の可能性あり』


と付け加えた。


当たったことより、他の説明を先に残しておく。


     *


午前8時37分


武蔵小杉。


透はいつも通り出勤した。


始業は9時。


自席へ着き、メールを確認する。

週明けは多い。


返信が必要なものを分け、優先順位をつける。


9時。


仕事が始まった。


能力について調べない。

実験もしない。


勤務時間だからだ。


午前10時19分。


「久世さん」


隣から声をかけられた。


「はい」


「昨日送ったログ、見てもらえました?」


「見ました。14時32分から応答時間が急に伸びています」


「あ、やっぱそこですか」


「ただ、サーバー側とは限らないです。直前にクライアントも更新されているので」


モニターを見ながら話す。


数分後、原因候補を3つまで絞った。


いつもの仕事。

いつもの月曜日。


それなのに、昨日までとは違うことがある。


ボールペン。

マグカップ。

同僚のスマートフォン。


目に入る物を見るたびに考える。


――これも動くのか。


試したい。


「……」


だが、試さない。


会社には人がいる。

監視カメラもある。


何より、能力の安全性すらまだ分かっていない。


ここで実験する合理的な理由は1つもない。


透はモニターへ視線を戻した。


     *


午後0時18分


昼休み。


透は1人で昼食を取りながら、スマートフォンを見ていた。


昨日の自転車事故を検索する。


記事は見つからない。


軽傷だった。

ニュースにならなくても不思議ではない。


次に、土曜夜の暴行事件。


こちらは短い地域ニュースが残っている。


川崎市内の路上で、女性に暴行を加えようとした男が逮捕された。


通報を受けて警察官が駆けつけ、現行犯逮捕。

女性に大きな怪我はない。


昨日、悠真と確認した記事から変わっていない。


「……」


透が知りたいのは、そこではない。


男は自分の身体が動かなくなったことを、どう説明したのか。


検索する。


当然、出てこない。


警察内部の供述など、一般人が見られるはずがない。


透は検索欄を見つめた。


知りたい。


だが、知る方法がない。


「……なら、仕方ない」


スマートフォンを伏せる。


できないことを考えても仕方がない。


それより、自分で確認できることがある。


昨日起きた自転車の急停止。


物体を完全に止める必要はないのではないか。


速度だけ落とせるなら?


透はその疑問を残したまま、午後の仕事へ戻った。


     *


午後6時08分


仕事を終えた透は、帰宅途中に家電量販店へ寄った。


三脚。

安価なウェブカメラ。

USB延長ケーブル。


さらにホームセンターへ寄り、細い糸と小型の滑車も購入した。


能力の検証用。


店を出たところでスマートフォンが震えた。


悠真。


『生きてる?w』


『生きてる』


『昨日から返信ないから能力使いすぎて死んだかと思ったw』


『仕事してた』


『普通かよw』


『月曜だからな』


直後、電話がかかってきた。


「何だ?」


『お前さあ、もうちょい友達との会話楽しめよ』


「楽しんでる」


『嘘つけ』


「それで?」


『昨日の自転車の人、大丈夫だったんだろ?』


「ああ」


『なら、あんま考えすぎんなよ』


「考えない方が危険だ」


『それも分かるけどさ』


電話の向こうから幼い声が聞こえた。


『パパー!』


『はいはい、今行くー』


悠真の声が一瞬で変わる。


透は少しだけ笑った。


『あ、今笑っただろ』


「笑ってない」


『絶対笑った』


「陽菜が呼んでるぞ」


『はいはい。じゃあな、魔法使い』


「その呼び方やめろ」


悠真が笑う。


『30歳童貞魔法使い』


「切るぞ」


『自慰経験ゼロの上位職――』


切った。


「……くだらない」


スマートフォンをポケットへ入れる。


口元には、まだわずかに笑みが残っていた。


     *


午後8時26分


夕食と風呂を済ませ、実験を開始する。


今日は昨日の自転車事故を受けて、動いている物体への干渉を調べる。


透は部屋に糸を張り、小型の滑車を取り付けた。


糸の先には50グラムの重り。


一定の高さから落下させる。


スマートフォンは高フレームレート撮影に設定した。


「開始」


重りを落とす。


――止まれ。


ピタッ。


「……」


空中で一瞬止まった。


直後、糸が激しく揺れる。


透は動画を確認した。


昨日と同じ。


運動している物体を急激に停止させれば、その影響は他の部分へ伝わる。


「なら……」


もう1度、重りを落とす。


今度は命令を変える。


――ゆっくり。


「……!」


重りの落下速度が目に見えて下がった。


完全には止まらない。


ゆっくり降りていく。


透の表情が変わった。


「止める必要がない?」


昨日やったのは、自転車の速度を一瞬で0にすることだった。


だから、乗っていた人間は前へ投げ出された。


だが、速度を徐々に落とせるなら話は変わる。


50グラム。

100グラム。

200グラム。


重さを変える。

落下距離も変える。


急停止。

緩やかな減速。

左右への移動。


試行を繰り返した。


     *


午後9時48分


透は撮影した動画を何度も見返した。


1つ、傾向がある。


ノートを開く。


『位置ではなく、速度への干渉が可能?』


疑問符を忘れない。


まだ確定ではない。


だが、もしこの仮説が正しいなら、昨日の自転車も完全に止める必要はなかった。


自転車と乗っている人間。


両方の速度を同時に落とす。


「対象を複数指定できるか……」


新しい実験項目を書く。


『複数対象への同時干渉』


さらに考える。


昨日の実験では、鏡越しの対象には作用した。

スマートフォンの画面越しでは作用しなかった。


物理的な距離だけでは説明できない可能性がある。


そして今度は、位置ではなく速度そのものへ干渉できる可能性。


「……どこまでが対象なんだ?」


物体。

位置。

速度。


それとも、自分が『そういうものだ』と認識した何か。


透は新しいページを開いた。


『仮説:能力は物体そのものではなく、対象として認識したものの状態へ作用する?』


その下へ、


『根拠不足』


と書く。


「……分からない」


なのに口元が少し上がった。


「だから面白い」


次の実験項目を書こうとした、そのとき。


ピンポーン。


インターホンが鳴った。


     *


午後9時53分


「はい」


モニターを見る。


スーツ姿の男が2人。


1人は40歳前後。短い黒髪。

もう1人は、それより若い。


『夜分すみません。川崎警察署の者です』


透の手が止まった。


警察手帳がカメラへ向けられる。


『土曜日の件で、少し確認したいことがありまして』


「何でしょうか?」


『通報していただいた暴行事件です。目撃状況をもう1度確認させていただけませんか? 5分ほどで構いません』


「分かりました」


通話を切る。


心拍が少し速くなった。


警察が来た。


なぜ?


通報者への追加の聞き取り。


普通だ。


容疑者の供述と目撃証言の整合を確認することもある。


事件から2日。

不自然ではない。


能力が知られた?


その根拠はない。


「……」


机を見る。


滑車。

重り。

三脚。

ノート。


開いたページには、能力についての記録がある。


「これは……」


ノートへ手を伸ばし、閉じる。


それだけ。


警察は玄関先で話を聞くだけかもしれない。


慌てて物を隠す必要はない。

そもそも部屋へ入れる必要もない。


透は玄関へ向かい、ドアを開けた。


「こんばんは」


若い刑事が頭を下げる。


「遅い時間にすみません」


「いえ」


その隣。


背の高い男が透を見る。


鋭い目。

だが、表情は柔らかい。


「川崎警察署の榊原です」


差し出された名刺。


榊原慎吾。


「久世透です」


「通報記録で、お名前は確認しています」


榊原が軽く会釈する。


「いくつか確認するだけです」


「どうぞ」


「事件があったのは、12日の23時48分ごろ」


「はい」


「久世さんは、この部屋にいて女性の悲鳴を聞いた」


「そうです」


「外を確認した?」


「はい」


「男性が女性の腕を掴んでいた」


「そう見えました」


榊原が小さく頷く。


「それで警察へ通報した」


「はい」


「そのあと?」


「女性が逃げました」


「どうやって?」


「男性の手を振りほどいて」


「なるほど」


榊原は手元のメモを見る。


「男性は追いかけなかった?」


「はい」


「なぜだと思います?」


「……」


透は答える前に一瞬だけ考えた。


質問の意図が分からない。


目撃者に事実を確認するなら、


『そのあと男はどうしたか?』


でいい。


『なぜ追わなかったと思うか?』


これは目撃した事実ではなく、透自身の解釈を聞いている。


「分かりません」


「何か変わった様子は?」


「少なくとも、ここから見て分かる範囲では」


「倒れたり?」


「していません」


「誰かに取り押さえられた?」


「いいえ」


「では、どうして逃げられたんでしょうね」


「本人に聞くのが1番確実では?」


榊原が笑った。


「もっともです」


透も軽く会釈する。


それ以上は言わない。


男が動けなくなった理由を、透は知っている。


だが、見ただけの人間が知り得ないことまで話す必要はない。


「実はですね」


榊原が手帳を閉じた。


「本人、少し変なことを言ってまして」


「変なこと?」


「突然、身体が動かなくなった、と」


「そうですか」


透はそれだけ答える。


「驚かないんですね」


「驚いています」


「そう見えない」


「よく言われます」


榊原が透を見る。


「原因、何だと思います?」


まただ。


仮説を言わせようとしている。


「情報が足りません」


「例えば?」


「既往歴、服薬、飲酒、薬物使用の有無。そのとき意識が正常だったか」


透は少し考える。


「それと、『動かない』というのが運動機能の問題なのか、本人の主観なのかも分かりません」


「なるほど」


「その辺りは、俺より医師に聞いた方がいいと思います」


「ごもっとも」


榊原は笑った。


それから数秒、何も言わなかった。


若い刑事も横で黙っている。


「ありがとうございました」


「もういいんですか?」


「ええ」


榊原は名刺入れをしまう。


「今日はこれで」


「分かりました」


今日は。


透は、その言葉を記憶した。


「夜分に失礼しました」


「いえ」


榊原たちは廊下を歩いていく。


透はドアを閉める直前、エレベーターへ乗り込む榊原を見た。


扉が閉まる、その直前。


榊原がこちらを見た。


目が合った。


     *


エレベーターが下降する。


若い刑事、高瀬直人(たかせ なおと)が口を開いた。


「普通の人でしたね」


「そうだな」


「じゃあ、特に何も?」


榊原はすぐには答えなかった。


「主任?」


「高瀬」


「はい?」


「普通の目撃者に、突然身体が動かなくなった男の話をしたら、どうすると思う?」


「え?」


「例えばだ」


榊原は階数表示を見る。


「『怖いですね』とか」


「まあ」


「『病気ですか?』とか」


「言いそうですね」


「『そんなことあるんですか?』でもいい」


「久世さんも、驚いたって言ってましたよ」


「言っただけだ」


「……」


「あの男は1度も、自分の知らない情報を埋めようとしなかった」


高瀬が少し考える。


「それが怪しいんですか?」


「いや」


榊原は即答した。


エレベーターが1階へ着く。


「頭がいいだけかもしれない」


扉が開き、榊原が歩き出す。


「だから何もしない」


「……はい」


「事件を見た。通報した。それだけだ」


「じゃあ終わり?」


榊原は振り返らない。


「ああ」


数歩歩いてから続ける。


「ただ、覚えておく」


高瀬が小さく息を吐いた。


「それ、終わってないじゃないですか」


榊原は答えなかった。


     *


午後10時07分


透は机へ戻った。


滑車。

重り。

三脚。


さっきまで夢中になっていた実験。


だが、すぐには再開しなかった。


榊原から渡された名刺を見る。


『榊原慎吾』


「……」


ノートを開く。


能力について書いていたページとは別のページ。


そこへ名前を書く。


『榊原慎吾』


『川崎警察署』


少し考える。


『事実確認に混ぜて、目撃者側の解釈を確認する質問あり』


さらに、


『質問の意図:不明』


ペンが止まる。


警察が能力を疑っている。


そう考える根拠はない。


榊原が自分を疑っている。


その根拠もない。


単に聞き取りが上手いだけ。


その可能性が最も高い。


だから透は書く。


『能力との関連を疑われていると判断する根拠なし』


「……」


そして、もう1行。


『ただし、質問の仕方には注意』


ノートを閉じる。


同じ夜。


榊原は透を容疑者だとは考えていなかった。


透も、榊原が能力へ近づいているとは考えていなかった。


ただ、榊原は久世透という名前を覚えた。


透も榊原慎吾という名前を覚えた。


それだけだった。


まだ。


それだけだった。

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