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3/16

第2話 第三者による観測

2026年9月12日 土曜日


午前8時12分。


久世透の部屋の床には、朝から買ってきた物が並んでいた。


水平器。電子秤。透明な収納ケース。メジャー。養生テープ。温湿度計。


そしてホームセンターで見つけた、安物のデジタル風速計。


合計6842円。


「……思ったより使ったな」


もっとも、必要経費だ。


9月8日の夜、透は初めて意図的な検証を行った。


軽いほど成功しやすい。

近いほど成功しやすい。

集中しすぎると、逆に成功率が落ちるように見える。


そして284グラムのマグカップが、実験を終了した直後に倒れた。


翌朝には、人間に対しても作用したように見える現象が起きた。


それから3日。


仕事から帰るたびに透は検証を続けていた。


だが、やればやるほど問題も増えた。


1つ目。

自分が実験者であり、同時に被験者でもある。


2つ目。

成功したときばかり印象に残っている可能性。


3つ目。

何をもって成功とするかが、まだ曖昧。


そして4つ目。


透はノートを見る。


『能力の存在を期待している自分自身』


「……これが1番面倒だな」


人間は自分が見たいものを見る。

どれだけ客観的なつもりでも、完全には避けられない。


だから今日は最初に条件を決めた。


対象は10グラムの金属製ワッシャー。

透明ケースの中に置く。

ケースは水平器で確認したテーブルへ固定。


対象まで1メートル。


指示は、


『右』


『左』


『動かすな』


の3種類。


100回。


移動距離3ミリ以上。

指示方向と一致した場合のみ成功。


さらに次の指示は、透自身にも分からない。


簡単なプログラムを組んだ。

開始すると数秒後、画面へランダムに指示が表示される。


透はそれに従うだけ。


「これで多少はマシか」


本当なら実験する人間すら条件を知らない状態にしたい。

だが1人ではできない。


透は椅子へ座り、実験を開始した。


     *


23回目。


『右』


透はワッシャーを見る。


力まない。

ただ、右へ動く状態を意識する。


カッ。


「……」


動いた。

約4ミリ。


透は表情を変えず結果を入力する。


27回目。


『動かすな』


何もしない。

動かない。


31回目。


『左』


カッ。


約6ミリ。

左。


成功。


32回目。


『左』


動かない。


46回目。


『右』


カッ。


左へ動いた。


『失敗』


そう入力する。


物体は動いた。

だが、右へ動かすという条件には失敗している。


前回と同じ。

結果を見てから成功条件を変えるつもりはない。


58回目。


「……」


透は目を閉じた。


額の奥が重い。


「頭痛……」


前回と同じだ。


無理に続ける理由はない。

体調という変数まで増えることになる。


時刻。

試行回数。

症状。


記録して、そこで中断した。


「……」


結果を見る。


偶然として片づけるには気になる。

だが、まだ足りない。


何より、これを見ているのはまた自分だけだ。


「……俺以外が必要だな」


透はスマートフォンを手に取った。


こういう話をしても、いきなり大騒ぎしない人間。

自分が信用できて、向こうも自分を知っている人間。


1人しか思いつかなかった。


『今日暇か?』


3分後。


『娘と公園』


続けて、


『何w』


『珍しいな、お前から』


『実験を手伝ってほしい』


既読。


しばらく返事がない。


『何の?』


透は少し考えた。


『説明すると長い』


『怖えよw』


さらに、


『昼過ぎなら行ける』


『嫁に聞いてみるわ』


透はスマートフォンを置いた。


こういうところは昔から変わらない。


     *


午後2時36分


「で?」


佐伯悠真さえき ゆうまは、透の部屋に並んだ機材を見回した。


「お前、何始めたの?」


「検証」


「それは見れば分かる」


悠真が紙袋をテーブルへ置く。


「嫁から。昨日焼いたやつ」


「何?」


「クッキー」


「ありがとう」


「陽菜が半分くらい潰したけど」


「味には影響ない」


「お前らしい感想だな」


悠真が笑った。


明るい茶髪。

学生時代から雰囲気は大して変わっていない。


営業職になって昔より服には気を遣うようになったが、喋り方は中学生のころと同じだ。


「それで?」


悠真が椅子へ座る。


「俺に何やらせんの?」


透は一瞬迷った。

だが説明するより見せた方が早い。


「これを見てろ」


テーブルへ10円玉を置く。


「10円?」


「ああ」


「見るだけ?」


「触るな」


「はいはい」


透は1メートル離れた。


10円玉を見る。


力を入れない。

意識しすぎない。


これまで最も成功率が高かった状態を再現する。


――右。


何も起きない。


悠真が透を見る。


「……何?」


「待て」


「うん」


もう1度。


――右。


動かない。


3回。

4回。

5回。


「透」


「何だ」


「俺、ドッキリに付き合わされてる?」


「違う」


「じゃあ何してんの?」


「今から動く」


「10円が?」


「ああ」


「お前が触らず?」


「ああ」


悠真が黙った。


数秒。


透を見る。

10円玉を見る。


そして透の額へ手を伸ばした。


「熱は――」


「やめろ」


「いや、お前が心配なんだよ」


「正常だ」


「正常なやつは10円玉に命令しないの」


「……」


透はため息をついた。


だから先に説明したくなかった。


「数日前から、物が動く」


「10円が?」


「正確には、複数の物体だ」


「風じゃなく?」


「その可能性を減らすために今日は――」


「静電気」


「検討した」


「地震」


「振動も確認してる」


「お化け」


「帰れ」


悠真が吹き出した。


「冗談だって」


透は10円玉を見る。


どうせまた動かない。

そう思った。


カッ。


「……」


「……」


2人とも黙った。


10円玉が約3センチ、右へ移動していた。


悠真の笑顔が消える。


「……今の何?」


「分からない」


「お前、何かした?」


「だから、それを調べてる」


「いやいやいや……」


悠真が立ち上がる。


10円玉を持ち上げて裏を見る。

テーブルを見る。

下まで覗き込む。


「磁石?」


「10円硬貨の主成分は銅だ」


「そういう問題じゃねえ!」


悠真はテーブルの下へ手を入れた。


何もない。


透は黙って待つ。


やがて悠真が顔を上げた。


「もう1回」


「やる」


今度は悠真自身に10円玉を置かせた。

場所も悠真が決める。


透は離れる。


――手前。


動かない。


もう1度。


――手前。


動かない。


「やっぱ偶然じゃ――」


カッ。


「……」


10円玉が悠真の方へ動いた。


「…………マジ?」


「だから呼んだ」


「いつから?」


「妙なこと自体は昔からあった」


「昔?」


「明確に異常だと考え始めたのは、30歳になった翌日」


「病院は?」


「何科だと思う?」


「……分からん」


「俺もだ」


悠真はしばらく黙っていた。


そして、


「魔法使いじゃん」


「違う」


「いや、魔法使いだろ」


「現象の仕組みが分かっていないだけだ。魔法と定義する根拠がない」


「30歳で?」


「それが何だ?」


悠真が透を見る。


数秒。


口元がゆっくり上がっていく。


「お前……」


「何だ?」


「9月7日で30になったよな?」


「ああ」


「童貞だよな?」


「それが?」


悠真が吹き出した。


「お前、マジで魔法使いになったんじゃねえの!?」


「……」


「あるじゃん! 30まで童貞だと魔法使いになるって!」


「ネットミームと自然現象を結びつけるな」


「条件一致してんじゃん!」


「標本数1だぞ」


「そこ!?」


悠真が腹を抱えて笑う。


透は無視してノートを開いた。


だが、ペンが止まる。


30歳。

童貞。

能力。


馬鹿げている。

そんなものを真面目に検討する価値はない。


――本当に?


透は自分自身に問い直した。


先入観で仮説を排除することと、合理的に仮説を棄却することは違う。


「……一応、記録しておく」


「マジかよ!」


「可能性が低いことと、0であることは違う」


ノートの端へ、


『仮説:30歳/性交経験の欠如との関連』


その横へ、


『根拠なし』


と付け加える。


「自慰は?」


悠真が言った。


透が顔を上げる。


「何?」


「童貞ってだけなら、30の童貞なんて他にもいるだろ」


「そうだな」


「だったら、オナニーじゃね?」


「……」


「お前、しないじゃん」


透の表情が変わった。


悠真は冗談半分に言っただけだった。

だが、透は笑わなかった。


1つの記憶がつながった。


中学2年。


周囲の男子が女子を意識し始めた時期。

友人たちが性の話をするようになった時期。

自分だけが、その感覚を理解できなかった時期。


そして体育館で初めてボールが止まった時期。


「……悠真」


「ん?」


「中2のころ、体育館でバスケしたの覚えてるか?」


「情報量少なすぎんだろ」


「ボールが俺の前で止まった」


「ボール?」


「不自然に」


悠真の笑顔が少し消えた。


「……ああ」


透が顔を上げる。


「覚えてるのか?」


「なんか……あった気がする」


「詳しく」


「待て待て。15年以上前だぞ」


「思い出せる範囲でいい」


悠真が腕を組む。


「確か……お前の方にボール転がってって」


「それで?」


「止まった」


「どこで?」


「お前の前」


「距離は?」


「知らねえよ」


「誰がいた?」


「だから15年以上前だって!」


透はノートを開く。


悠真が呆れた顔をした。


「今から書くの?」


「第三者の記憶だ」


「記憶なんて当てにならんだろ」


透のペンが止まった。


悠真を見る。


「その通りだ」


「え?」


「だから証拠にはしない」


『参考情報。信頼性低』


そう記録する。


「……ほんっと変わんねえな、お前」


悠真が笑った。


     *


夕方。


実験を再開した。


今度は悠真に乱数を管理させる。

透には次の指示を見せない。


「右を動かせ」


「左を動かせ」


「何もするな」


悠真が指示する。

透はそれに従う。


これなら少なくとも、自分で都合のいい試行順を選ぶことはできない。


途中、悠真が、


「次」


と言った。


透は対象を見る。

待つ。


「……指示は?」


「ない」


「何?」


「今の、何も決めてない」


「余計なことするな」


「いや、これ必要じゃね?」


「……」


透は言い返そうとして止まる。


「……必要だな」


「だろ?」


悠真が笑う。


「たまには文系も役立つだろ」


「お前、経済学部だろ」


「細けえな」


120回。


結果を集計する。


透はパソコンの画面を見つめた。

悠真が横から覗き込む。


「どう?」


「まだ少ない」


「100回以上やったじゃん」


「足りない」


「じゃなくて。今の時点では?」


透は少し考えた。


「偶然だけで説明するのは、かなり苦しくなってきた」


「つまり?」


「何らかの現象が存在する可能性が高い」


「だから魔法じゃん」


「その名称は採用しない」


「頑固だなぁ」


悠真は美咲が焼いたクッキーを1枚取った。


陽菜が潰したというそれは、真ん中から割れていた。


「でさ」


「何だ?」


「これ、何に使うの?」


透の手が止まった。


「まだ決めてない」


「人助けできんじゃん」


「……」


透は9日の朝を思い出す。


「1度、人間に作用した」


「は?」


悠真から笑顔が消えた。


「どういうこと?」


透は通勤途中で、男の足が動かなくなった件を説明した。


悠真は途中から完全に黙っていた。


「人にも効くのか」


「少なくとも、そう見える現象は1度起きた」


「危なくね?」


「ああ」


「下手したら怪我させるだろ」


「ああ」


「じゃあ、やめとけよ」


透は答えなかった。


「透?」


「もし」


透は画面を見たまま言う。


「目の前で誰かが刺されそうになっていたら?」


「……何?」


「俺が止められるとする」


「そりゃ止めるだろ」


「能力を使えば、犯人を傷つける可能性がある」


「でも、刺される人を助けるんだろ?」


「そうだ」


「だったら使う」


「俺もそう思う」


透は悠真を見る。


「じゃあ、どこからだ?」


「どこからって?」


「ナイフなら使う。殴られそうなら? 窃盗なら? 痴漢なら? 逃走なら?」


「……」


「どの程度の被害から、俺が他人の身体へ干渉していい?」


悠真が黙る。


「法律?」


透は続ける。


「正当防衛? 緊急避難? それとも俺個人の倫理?」


「知らねえよ」


「俺も分からない」


「じゃあ使うなよ」


「それも1つの答えだ」


「でも」


透は淡々と続ける。


「使えば助けられた人間を、使わなかった結果として見殺しにしたら?」


「……お前さ」


悠真がクッキーを置いた。


「そういうとこ、昔からめんどくせえよ」


「知ってる」


「全部に正解なんかねえだろ」


「……」


「そのとき考えりゃいいじゃん」


「そのときでは遅い場合がある」


「だからって今決められるか?」


透は少し考えた。


「決められない」


「だろ?」


悠真が笑った。


「だったら、とりあえず人には使うな」


「分かった」


「軽っ」


「現時点では、それが最も合理的だ」


「そういう言い方すると腹立つな」


悠真は立ち上がった。


「帰るわ。陽菜、風呂入れなきゃ」


「ああ」


玄関まで見送る。


靴を履いた悠真が振り返った。


「透」


「何だ?」


「1人で変なことすんなよ」


「しない」


「絶対?」


「可能な限り」


「そこは絶対って言えよ」


悠真は笑って帰っていった。


     *


午後11時48分


透は1人でノートを見ていた。


今日のデータ。

成功率。

距離。

重量。

疲労。


そして第三者観測下でも現象は発生した。


つまり少なくとも、


『自分だけに見えている幻覚』


この仮説の優先順位は大きく下がる。


さらにノートの端。


『30歳/性交経験の欠如との関連』


『自慰経験なし』


透はそこを見る。


「……馬鹿げてる」


だが消さなかった。


気に入らない。

馬鹿げている。


それだけを理由に仮説を捨てることはできない。


そのとき、


「――!」


外から女の悲鳴が聞こえた。


透は顔を上げる。


一度。


そして、もう一度。


「――助けて!」


ガタン。


椅子が倒れた。


透は窓へ向かった。


眼下の道路。

街灯の下。


女が男に腕を掴まれている。


「……」


数時間前、悠真が言った。


『とりあえず人には使うな』


透は窓を開ける。


男までおよそ40メートル。

これまで成功させた距離を遥かに超えている。


透はスマートフォンを取り出した。


まず警察。


110番。


『事件ですか? 事故ですか?』


「女性が男に襲われています」


住所を伝える。

男と女性。

現在の状況。


『警察官を向かわせます』


「お願いします」


通話を切る。


だが警察が到着するまでにも、男は女性を引っ張っている。


「やめて!」


警察が来るまで何分かかる?


3分。

5分。


間に合わない。


その間に何が起こる?


透は男を見る。


――止めるだけだ。


傷つけない。

動きを止めるだけ。


それなら。


透は初めて、自分の意思で人間を対象にした。


――止まれ。


何も起きない。


「……っ」


遠すぎる。


男が女性を引き寄せる。


「やめて!」


透は窓枠を掴んだ。


もう1度。


――止まれ。


ズキッ。


頭の奥に鋭い痛みが走った。


次の瞬間、男の身体が止まった。


「……!」


女性が腕を振りほどく。


走る。


男は追わない。


いや、追えない。


街灯の下。

立ったまま動かなくなっている。


透は息を呑んだ。


「……40メートル」


恐怖より先に、その数字を記憶した。


「……」


そしてすぐに、そんな自分に気づいた。


人が襲われていた。

助かった。


なのに自分は今、成功距離のことを考えた。


透はしばらく動けなかった。


遠くからパトカーのサイレンが聞こえてくる。


透は男への意識を切った。


街灯の下。

男が崩れるように膝をついた。


動いている。

怪我もしていないように見える。


「……よかった」


今度は素直にそう思った。


透は窓を閉め、机へ戻る。


ノートを開いた。

ペンを持つ。


40メートル。

人間。

拘束。

継続時間。

頭痛。


記録すべきことはいくらでもある。


それでもペンが動かなかった。


数時間前、悠真と話していた問いが頭から離れない。


使わなければ、あの女性はどうなっていた?


使ったから助かった。


なら。


――使わない方が正しかった可能性はあるのか?


「……」


透は長い間、白紙を見つめていた。


やがて1行だけ書いた。


『人間への使用は原則禁止』


そこでペンが止まる。


その後ろへ小さく付け加えた。


『ただし、緊急時を除く』


透はその文章を見つめた。


昨日まで存在しなかった例外が、今日1つ生まれた。

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