第1話 原因不明の物体運動
第1話 原因不明の物体運動
2026年9月8日 火曜日
帰宅した透は、すぐには実験を始めなかった。
夕食を食べた。食器を洗った。風呂にも入った。
その間ずっと実験方法を考えていた。
駅で起きた現象を自宅で再現できるか。
ただ物を置いて、動けと念じるだけでは駄目だ。
動いたとしても風かもしれない。
振動かもしれない。
自分が無意識にテーブルへ触れた可能性もある。
逆に、動かなかったとしても条件が違うだけかもしれない。
まずは可能な範囲で、余計な要因を減らす。
*
午後9時07分
窓を閉める。エアコンを切る。換気扇を止める。
室温24.8度。湿度57パーセント。
スマートフォンを本棚に固定し、テーブル全体が映るようにする。
動画撮影を開始。ノートを開いた。
『9月8日 21:12』
そこで透のペンが止まる。
何と書く?
『念動力の実験』
違う。念動力だと決まったわけではない。
『超能力の検証』
これも違う。
透は少し考えて、
『原因不明の物体運動について』
と書いた。
「これでいい」
まだ何も分かっていない。
最初の対象はコピー用紙。
適当な大きさに切り、キッチンスケールへ載せる。
『2g』
紙片を透明な保存容器の中へ入れ、蓋をする。
「これなら気流はかなり減らせる」
完全ではない。
容器内部で温度差による対流は起こり得る。静電気もある。
だが、最初の実験としては十分だ。
紙片まで50センチ。
試行回数20回。
成功条件は目視可能な移動。
先に決める。
動いたあとで都合よく成功条件を変えないためだ。
透は両手を膝へ置き、紙片を見る。
――右。
動かない。
1回。
――右。
動かない。
2回。3回。5回。10回。15回。20回。
全失敗。
「……そうなるか」
透は、むしろ安心した。
駅での出来事は風だった。
洗面所の歯ブラシは錯覚。
コーヒーは危険を感じたことで時間感覚が変化した。
中学生のころから起きていた妙な出来事も、やはり偶然。
全部それぞれ説明できる。
ノートへ、
『20/20 変化なし』
と書く。
そこでペンが止まった。
「いや」
条件が違う。
駅では、こんなふうに集中していなかった。
レシートを眺めて何となく、
――こっち来い。
そう思っただけだった。
中学生のころも、バスケットボールを見て反射的に、
――止まれ。
そう思った。
歯ブラシも同じ。
落とした。手を伸ばした。
その瞬間、一瞬だけ止まった。
「意識しすぎると駄目?」
自分で言って眉をひそめる。
普通は逆だ。
何かをしようとするなら、集中した方がいい。
だが、そもそも普通ではない現象を普通の感覚で考える理由もない。
透は椅子にもたれた。
スマートフォンで動画を流す。
紙を見ない。画面へ視線を向けたまま、頭の片隅で、
――右。
と思う。
失敗。
もう1度。
失敗。
3回目。
失敗。
4回目。
カサ。
「……?」
透の視線が容器へ向いた。
紙片が数ミリ、右へずれている。
「……」
すぐには喜ばない。容器にも触れない。
時刻を記録。動画を保存。
自分の手がテーブルに触れていなかったことも確認する。
『4回目。右方向へ約5mm。指示方向と一致。ただし偶然の可能性あり』
再現できなければ意味がない。
*
午後11時18分
ノートは数字で埋まっていた。
2グラム。5グラム。10グラム。
20センチ。50センチ。1メートル。
途中からは試行順も乱数で決めた。
自分に都合のいい条件ばかり選んでしまう可能性を、少しでも減らすためだ。
それでも奇妙な傾向が現れた。
軽いほど成功率が高い。
近いほど成功率が高い。
そして、もう1つ。
集中しすぎると成功率が落ちる。
「……何でだ?」
透はノートを見つめる。
分からない。
だから、面白い。
仮説を3つ書いた。
『緊張による阻害』
『意識状態そのものが条件』
『単なる標本不足』
3番目に線を引く。
現段階では、それが最も重要だ。
100回程度で法則を決める気にはなれない。
次は消しゴム。11グラム。
10回。そのうち1回だけ動いた。
だが、指示した方向とは逆だった。
「……」
透は、
『失敗』
と記録した。
物体が動いた。
その結果だけを見れば成功に含めたくなる。
だが、最初に決めた条件を結果を見てから変更するのは駄目だ。
自分まで自分を騙し始めたら終わりだ。
*
2026年9月9日 水曜日 午前0時08分
「……痛いな」
透は眉間を押さえた。
頭痛。
額の奥が重い。
集中力も落ちている。
それに合わせるように成功率も下がった。
『疲労との相関?』
疑問符を付ける。
能力を使ったから、とは書かない。
睡眠不足かもしれない。
長時間、小さな物を見続けたことによる眼精疲労かもしれない。
姿勢の問題かもしれない。
「今日は終わりにするか」
最後にマグカップをキッチンスケールへ載せる。
『284g』
「これは無理だろ」
これまで試した物とは桁が違う。
1メートル離す。
――右。
動かない。
2回目。
動かない。
3回目。
動かない。
「まあ、そうだよな」
透はノートを閉じた。
「終わり」
その瞬間。
ガッ。
「……?」
透は顔を上げた。
マグカップが倒れていた。
「…………」
触らない。
まず動画を保存する。
時刻は午前0時21分。
自分がテーブルへ触れていなかったことを映像で確認する。
スマートフォンの加速度センサーも確認する。
大きな振動は記録されていない。
地震情報もなし。
テーブルの傾きは、明日水平器を用意して確認する。
『00:21』
『実験終了直後』
『284g対象が転倒』
『原因不明』
透はペンを置いた。
興奮している。
自分でも分かった。
紙が数ミリ動く。
そんな現象とは意味が違う。
284グラム。
しかも実験中には動かなかった。
「終わり」
そう言った直後に倒れた。
「……」
もし本当に自分が起こしているなら。
何ができる?
そう考えて、透はすぐに打ち消した。
「順番が違う」
できることを考える前に、何なのかを調べるべきだ。
透は倒れたマグカップを、ようやく元へ戻した。
*
午前7時48分
通勤途中、駅へ向かっていると前を歩いていた男が女性と肩をぶつけた。
「あっ」
女性のバッグが落ちる。
男は振り返った。
だが、そのまま歩こうとする。
「すみません」
透が呼び止めた。
男が振り返る。
「あ?」
「ぶつかりましたよ」
「だから?」
「バッグ、落ちました」
「だから何?」
透は一瞬黙った。
「謝った方がいいと思います」
「は?」
男が面倒そうに舌打ちする。
「関係ねえだろ」
「……」
透は男を見る。
腹が立った。
ただ、それだけだった。
――止まれ。
昨夜の実験が頭をよぎった。
もちろん、本当にやるつもりはなかった。
男が足を止めた。
「……?」
男自身が1番驚いていた。
歩こうとしている。
なのに右足が地面から離れない。
「何だよ……」
透の心臓が大きく鳴った。
物じゃない。
人間にも?
「……」
まずい。
――解除。
そう考えた瞬間、男の右足が動いた。
「なんなんだよ」
男は気味悪そうに足元を見る。
そして、そのまま去っていった。
女性がバッグを拾う。
「ありがとうございます」
「いえ」
透は答えながら男の背中を見ていた。
さっきまでの怒りは、もう消えていた。
代わりに別の感情が生まれている。
疑問。
人間にも作用する。
物体と同じ原理なのか。
質量は?
距離は?
本人の意思による抵抗は?
そもそも右足だけを止めたのか。
靴?
脚?
身体そのもの?
そして、もう1つ。
もし人間の行動そのものを止められるなら。
犯罪を起こそうとしている人間を、傷つけることなく止められるのではないか。
「……」
透はすぐに首を振った。
「まだ早い」
人間を実験台にはできない。
何が起こるか分からない。
昨日まで紙切れを動かしていた人間が、翌日には社会をどうこう考える。
そんなものは合理的ではない。
だが、駅へ向かいながら透は無意識に考えていた。
もし、この力を安全に制御できるようになったら。
使わないことは、本当に正しいのだろうか。
*
午後0時34分
昼休み。
透は新しいノートを1冊買った。
表紙には何も書かなかった。
最初のページを開き、少し考えて1文。
『能力の存在を仮定する。ただし、常に仮説であることを忘れない』
その下に、もう1つ。
『自分が正しいと思うことと、自分が正しいことは違う。』
透はペンを止めた。
この2つ目の文章を、いつか自分自身が破ることになるとは。
まだ、知らなかった。




