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プロローグ

昨日、30歳になった


2026年9月8日 火曜日

30歳の誕生日は、何事もなく終わった。


仕事帰りにスーパーへ寄った。

半額になった弁当を買って帰り動画を見ながら食べた。


風呂に入り0時前には寝た。

翌朝スマートフォンの日付を見て久世透くぜ とおるはようやく思い出した。


「ああ。昨日、誕生日だったのか」


30歳。だから何だ、と思う。

29歳と30歳の間に生物学的な境界線が存在するわけではない。

1日経過しただけだ。


それ以上の意味を与えるのは人間が10進法を使っているからに過ぎない。

透は昔から、そういう人間だった。


何かを信じるより先に理由を考える。

分からないことがあれば調べる。


説明と事実が食い違えば納得できるまで考える。

子供のころから変わらない。


そして、もう1つ。人には言わないが昔から変わらないことがあった。


女性に興味がない。男性にもない。

恋愛そのものを嫌っているわけでもなかった。


友人に恋人ができれば祝福するし結婚式にも出席した。

ただ自分も同じことをしたいとは思わない。


最初に周囲との差を感じたのは中学生のころだった。

同級生たちが女子を意識し始めた。

誰がかわいい。誰が誰を好きらしい。

そんな話題が急に増えた。透には理解できなかった。


いずれ自分にも分かるのだろう。そう思っていた。

だが高校生になっても大学生になっても、その日は来なかった。


恋人はいない。性交経験もない。自慰にも興味がない。

それで困ったこともなかった。健康診断で異常を指摘されたこともない。

だから放置した。本人にとっては右利きであることと大して変わらない特徴だった。


妙なことが起こり始めたのも、そのころだった。

最初は中学2年だったと思う。

体育館、こちらへ転がってきたバスケットボールを見て。


 ――止まれ。


そう思った。ボールが止まった。不自然なほど、ぴたりと。


「……?」


だが床には摩擦がある。

転がっているボールは、いつか止まる。

それが、たまたま自分の目の前だった。


それだけの話だ。高校生のころには、自転車で転倒しかけたことがある。

完全に体勢を崩した。転ぶ。そう思った瞬間。

身体が一瞬だけ横へ引かれたような感覚がした。

そのおかげで転倒を免れた。

反射的に身体を動かしたのだろう。


大学では机から落ちたペンが靴に当たった。

跳ね返り手元へ戻ってきた。

偶然だ。


20代半ばになるとそういう出来事は年に数回になった。

しかし、どれも単独なら説明できる。

人間は珍しい出来事だけを記憶する。


何千回も物を落としているのに。

1度、奇妙な跳ね方をしたときだけ覚えている。

確証バイアス。透は、そう考えていた。

だから、気にしなかった。


     *


30歳になった翌朝。

洗面所で歯ブラシを落とした。


「あ」


手を伸ばす。届かない。歯ブラシは、落下した。

いや。一瞬だけ止まった。


「……?」


ほんの一瞬。そのわずかな時間のおかげで右手が間に合った。

透は歯ブラシを掴んだまま動きを止める。


「……」


手を離す。カラン。

床に落ちる。普通だ。拾う。

もう1度。手を離す。カラン。


「寝ぼけてるな」


歯ブラシを拾い、洗った。それ以上は気にしなかった。


     *


その日の昼。会社の給湯室。

紙コップにコーヒーを入れていたとき。


「あ、ごめん」


同僚と肩がぶつかった。紙コップが傾く。

熱いコーヒーが飛び出した。

その瞬間だった。

遅い。


「……?」


コーヒーが空中で、ゆっくり形を変えている。

液体の1滴1滴まで見えた。


透は、身体をずらす。その直後。

コーヒーが床へ落ちた。


「ごめん! 大丈夫!?」


同僚が謝ってくる。


「ああ」


「かからなかった?」


「大丈夫」


「よかった……」


同僚は、雑巾を取りに行った。


透は床へ広がったコーヒーを見た。


「……」


今のは何だ。

時間が遅くなった?


いや、そんなことを考える必要はない。

集中状態に入ったことで時間感覚が変化した。

危険に対して脳の情報処理速度が一時的に上がった。

そう考えた方が、はるかに合理的だ。


事故の瞬間に時間がゆっくり流れたように感じた。

そんな話なら聞いたことがある。


「……」


ただ昨日から2回。

透の中に小さな違和感が残った。


     *


仕事帰り、3回目が起きた。

駅のホーム。電車を待っていると。


1枚のレシートが風に吹かれていた。

右へ転がる。止まる。また転がる。


透は何となく眺めていた。


そして、ふと思った。


 ――こっち来い。


レシートが止まった。


「……?」


方向を変える。こちらへ。転がってくる。

透は眉をひそめた。


風。当然。

最初に考えたのはそれだった。

ホームには風がある。電車も通る。人も歩いている。


軽いレシートなら不規則に動いてもおかしくない。偶然だ。


透はレシートを見る。

もう1度。


――止まれ。


レシートが、止まった。


「……」


透はホームを見回した。


誰も自分を見ていない。

もう1度だけ。


――こっち来い。


レシートの端が揺れる。

ゆっくり。

こちらへ動いた。


「……風だろ」


自分に言い聞かせるように呟く。

なら、もう1つ。


 ――浮け。


 何も起こらない。


「だよな」


思わず笑った。何をやっているのだ。

30歳になった翌日に。

駅のホームでレシートへ念を送っている。


誰かに見られたら、かなり恥ずかしい。


そう思った瞬間レシートの端がふわり、と浮いた。


「……」


透の笑顔が消えた。

数センチ浮いたレシートが落ちる。


また風に流され始める。


透は動かなかった。

風か?

まず、そう考えた。


当然だ。軽い紙だ。風で浮く。

何も不思議ではない。


だが次に浮かんだ考えは違った。


30歳になったことでもない。

魔法でもない。超能力でもない。

もっと単純だった。


 ――再現できるか?


電車がホームへ入ってくる。

風圧でレシートが吹き飛ばされた。


透は、それを見送る。

そしてスマートフォンを取り出した。


帰宅するまでに検証方法を考えておこう。


偶然ならそれでいい。


偶然でないなら条件がある。


条件があるなら測定できる。


測定できるなら――


これは、ただの現象だ。

その時点ではまだ。


透は知らなかった。

この現象が始まった時期と。


自分だけが周囲の少年たちとは違った時期がほぼ完全に一致していることを。


そして30歳を境に。

10数年間、ほとんど無視できたその現象が。


偶然では済まされない頻度で現れ始めていることを。

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