77
第一主祈祷塔跡は、王都の北端をさらに越えた先にあった。
かつては北を守る祈りの中心だったのだろう。
今はもう塔の上部は崩れ、祈祷堂の壁も半ばまでしか残っていない。
それでも、そこだけ空気が違った。
風は吹いている。
空も曇ってはいない。
なのに、広い石段の上へ足を踏み入れた瞬間、ラティアの喉の奥がひりついた。
冷たい。
封鎖区画の地下で感じたものより、もっと広く、もっと深い。
澱みが一点に溜まっているというより、
この場所そのものが、長くそれを抱え続けてきたみたいだった。
「……嫌」
小さく漏れる。
ユリスが一歩前で止まり、振り返らずに問う。
「濃いか」
ラティアは頷いた。
「今までで、一番」
「奥に行くほど重い」
サラが祈祷札を指に挟んだまま、石段の先を見つめる。
「主継ぎ目の真上なら当然ですね」
「ここに流し込まれたら、北側一帯に触れる」
カイルが弓を持ち直し、低く言った。
「気分いい話じゃねえな」
彼らの後ろには、神殿騎士が二人だけついてきていた。
ユリスの指示通り、前へは出ない。
封印具と連絡役としての最低限の人数だ。
レオンはいない。
出発前に無理やり起き上がって、図面の上へ印をつけていた顔が思い出される。
――一人で行くなよ。
――ちゃんと、みんなで行って。
あの声がまだ胸のどこかに残っていた。
ラティアは守り紐を握る。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
吐く。
「行くぞ」
ユリスの一言で、一行は石段を上がり始めた。
崩れた祈祷堂の正面は、半ば屋根が落ちていた。
割れた円柱。
砕けた石盤。
かつて神官たちが使っていたはずの香炉は転がり、風雨にさらされて黒ずんでいる。
けれど、その荒れ方の中に、不自然なものがあった。
足跡だ。
新しい。
崩れた石の粉を踏み、つい最近ここを通った跡。
「いるな」
カイルが低く言う。
「ええ」
サラも頷いた。
「しかも一人ではありません」
ラティアは石床の先を見る。
正面奥。
崩れた祭壇の向こう。
そこだけ、空気が沈み込むみたいに重い。
「……あそこ」
小さく言うと、ユリスが迷わず前へ進む。
その時だった。
祭壇の影から、低い声が落ちた。
「やはり来ましたか」
全員の動きが止まる。
影の奥から、一人の男が姿を現す。
年は四十代半ばほどだろうか。
痩せた長身。
灰色がかった髪。
整っていたであろう法衣はところどころ裂け、右の脇腹から肩にかけて厚く布が巻かれていた。
その包帯には、まだ新しい血がにじんでいる。
ラティアの胸が強く鳴る。
怪我をしている。
孤児院での一件だと、直感で分かった。
あの時、自分たちが壊した“器”の反動か、あるいは強引に残滓を制御した代償か。
とにかく、無傷では済まなかったのだ。
男はその痛みを隠すように、片腕をわずかに庇って立っていた。
けれど、目だけは異様に静かだった。
「ゼウラン・フェルノア」
サラが低く名を呼ぶ。
男はごく小さく目を細めた。
「その名を、まだこうして呼ばれるとは思いませんでした」
「ずいぶん探しましたよ」
カイルが吐き捨てる。
「隠れ方のわりに、最後は案外あっさり出てきたな」
ゼウランは皮肉に反応しなかった。
ただ、ラティアたちの顔を一人ずつ見て、最後にユリスで視線を止める。
「勇者殿」
「……それに、巫女殿」
その呼び方に、ラティアの背中が少し冷える。
自分を見ている。
ただ“いる”から見ているのではない。
もっと別の意味を乗せて見ている目だった。
ユリスが一歩前へ出る。
「終わりだ、ゼウラン」
「エドガルドは拘束した」
「残滓の核も壊した」
「投降しろ」
短く、冷たい声音だった。
ゼウランはその言葉を聞いても、少しも怯まなかった。
むしろ、ひどく静かに首を振る。
「終わっていません」
「ようやく、ここまで来たのです」
その口調は落ち着いている。
怒鳴りもしない。
狂った目をするわけでもない。
なのに、その静けさがむしろ不気味だった。
サラが強く言う。
「あなたは王都の結界を歪めました」
「孤児院の子どもたちまで器にしようとした」
「それを“ようやく”と言うのですか」
ゼウランの目が、ほんの少しだけ揺れる。
怒りではない。
哀れむみたいな揺れだった。
「あなた方は、まだ分かっていない」
「私は壊そうとしているのではない」
「戻そうとしているのです」
その言葉に、ラティアの指先が強くこわばる。
戻す。
エドガルドも言っていた。
ゼウランも同じことを言う。
カイルが吐き捨てる。
「残滓を核にして結界を書き換えるのが“戻す”かよ」
「書き換える?」
ゼウランは小さく繰り返した。
「それは違う」
「今の王都の流れこそ、綻びを押し隠した仮の形です」
「沈んだものを排し、見ないふりをし、補修の名で延命しているにすぎない」
「本来流れるべきものを流し直す」
「それが再構築です」
部屋――いや、祈祷堂跡の空気が、そこでまた少し冷えた気がした。
ラティアはゼウランの言葉を聞きながら、胸の奥に嫌なものが沈んでいくのを感じた。
整っている。
理屈としては通って聞こえてしまう。
だからこそ怖い。
レオンが言っていたことを思い出す。
善意や正しさの顔をしている分、止めるのが遅れる。
「違う」
気づけば、ラティアはそう言っていた。
全員の視線がこちらへ向く。
ゼウランも、静かに目を向ける。
ラティアは少しだけ喉を鳴らした。
怖い。
でも、今ここで黙っていたくなかった。
「あなたのやってること、戻してなんかない」
「無理やり、別のものを通そうとしてるだけだよ」
「孤児院も、灯楼も、封鎖区画の核も」
「全部、そこにあるものをそのままにしてない」
「別のものに変えてる」
ゼウランはじっとラティアを見る。
その目には怒りも嘲りもない。
ただ、観測するみたいな静かな熱だけがあった。
「……なるほど」
低く言う。
「やはり、あなたは見えている」
その言い方に、ラティアの胸がざわつく。
見られている。
計られている。
またあの嫌な感覚だった。
ユリスが一歩、さらに前へ出た。
「見るな」
低い声。
それだけで空気が張る。
ゼウランはユリスから目を逸らさず、わずかに口元を歪めた。
「勇者殿」
「あなたは剣で断てば済むと思っている」
「だが、綻びは断って消えるものではない」
「王都は今も沈み続けている」
「ならば、より強い核で、より深い流れを通し直すしかないのです」
カイルが弓を持つ手に力を込める。
「その“強い核”ってのが残滓か」
「残滓は欠片です」
ゼウランは即座に答えた。
「本物には届かない。だからこそ、集める」
「器を育て、馴染ませ、定着させる」
「それでようやく、継ぎ目に届く」
サラの表情が厳しくなる。
「人まで器に含めておいて、何が“ようやく”ですか」
そこで初めて、ゼウランの視線に少しだけ陰が落ちた。
「必要だった」
それだけだった。
あまりに静かなその一言に、ラティアはぞっとする。
必要だった。
それだけで、人を眠らせ。
器にし。
歪め。
壊しかけたのだ。
しかも、本人はまだそれを間違いと認めていない。
「最低だな」
カイルが低く吐き捨てる。
「お前、自分で言ってて何もおかしいと思わねえのかよ」
「思いません」
ゼウランははっきり言った。
「誰かが手を汚さなければ、王都は結局腐った補修の上で崩れるだけだ」
その瞬間、ラティアはゼウランの包帯の下にじわりと血が滲むのを見た。
孤児院の件の怪我だ。
痛いはずなのに、この人はそれでも止まらない。
それが、ひどく怖かった。
止まればいいのに。
そこで痛いと思えばいいのに。
それでも進む方を選んでいる。
「その傷も」
思わず口から出た。
ゼウランの目が、わずかにラティアへ戻る。
「孤児院の時の、でしょ」
「そこまでして、まだ続けるの」
風が、崩れた祈祷堂の中を抜ける。
ゼウランは一瞬だけ沈黙した。
そして、静かに右脇腹を押さえた。
「ええ」
その声だけが、ひどく静かだった。
「ようやく、届きかけたのですから」
ラティアの喉が詰まる。
この人は本当に、怪我をしても、傷ついても、自分が間違っていると思っていない。
むしろ代償として受け入れている。
その在り方が、ラティアにはどうしようもなく気味悪かった。
ユリスが剣をわずかに持ち上げる。
「問答は終わりだ」
「主継ぎ目から離れろ」
ゼウランの背後には、崩れた祭壇の奥に続く円形の石陣があった。
割れてはいる。
でも、まだ生きている。
ラティアはそこを見た瞬間、胸の奥がざわついた。
あそこだ。
継ぎ目は、まだ完全には開いていない。
でも、もう半分以上、繋がりかけている。
「……ユリス」
小さく呼ぶと、ユリスは視線を動かさないまま答える。
「分かってる」
短い返答。
それだけで、もう言葉はいらなかった。
ゼウランはそのやりとりを見て、ほんの少しだけ目を細めた。
「巫女殿」
ラティアの背中が強張る。
「あなたは、本来こちら側のはずだ」
その一言に、空気が一気に変わる。
カイルがすぐに一歩踏み出した。
「ふざけんな」
サラも鋭く息を呑む。
ラティアの胸の奥に、嫌な冷たさが走る。
こちら側。
まただ。
また、この人は自分を勝手に数に入れる。
条件として。
器として。
核として。
けれど今度は、前みたいにただ気持ち悪いだけでは終わらなかった。
その嫌さの奥に、はっきりした怒りが灯る。
「違う」
ラティアは一歩前へ出た。
自分でも、少し驚くくらい自然に足が動いた。
「わたしは、そっちじゃない」
「勝手に決めないで」
ゼウランはラティアを見つめる。
その目の静けさが、今はもう怖いだけではなかった。
嫌だ。
この人の理屈の中に、自分を置かれたくない。
「……そうですか」
ゼウランは小さく言った。
それだけだった。
でも次の瞬間、背後の石陣に黒い筋がじわりと走る。
サラが息を呑む。
「来ます!」
ユリスの剣が一気に閃く。
カイルの矢がつがえられる。
ゼウランは怪我を庇うように半歩下がりながら、それでも石陣の前から退かなかった。
その姿を見た瞬間、ラティアははっきり思った。
この人は、もう理屈だけでは止まらない。
なら、自分たちが止めるしかない。
崩れた主祈祷塔跡の中央で、空気が一気に張り詰める。
次の瞬間には、もう戦いが始まる――
そんな沈黙だった。




