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第一主祈祷塔跡は、王都の北端をさらに越えた先にあった。


かつては北を守る祈りの中心だったのだろう。

今はもう塔の上部は崩れ、祈祷堂の壁も半ばまでしか残っていない。


それでも、そこだけ空気が違った。


風は吹いている。

空も曇ってはいない。

なのに、広い石段の上へ足を踏み入れた瞬間、ラティアの喉の奥がひりついた。


冷たい。


封鎖区画の地下で感じたものより、もっと広く、もっと深い。


澱みが一点に溜まっているというより、

この場所そのものが、長くそれを抱え続けてきたみたいだった。


「……嫌」


小さく漏れる。


ユリスが一歩前で止まり、振り返らずに問う。


「濃いか」


ラティアは頷いた。


「今までで、一番」


「奥に行くほど重い」


サラが祈祷札を指に挟んだまま、石段の先を見つめる。


「主継ぎ目の真上なら当然ですね」


「ここに流し込まれたら、北側一帯に触れる」


カイルが弓を持ち直し、低く言った。


「気分いい話じゃねえな」


彼らの後ろには、神殿騎士が二人だけついてきていた。

ユリスの指示通り、前へは出ない。

封印具と連絡役としての最低限の人数だ。


レオンはいない。


出発前に無理やり起き上がって、図面の上へ印をつけていた顔が思い出される。


――一人で行くなよ。

――ちゃんと、みんなで行って。


あの声がまだ胸のどこかに残っていた。


ラティアは守り紐を握る。


ひとつ。

ふたつ。

みっつ。


吐く。


「行くぞ」


ユリスの一言で、一行は石段を上がり始めた。


崩れた祈祷堂の正面は、半ば屋根が落ちていた。


割れた円柱。

砕けた石盤。

かつて神官たちが使っていたはずの香炉は転がり、風雨にさらされて黒ずんでいる。


けれど、その荒れ方の中に、不自然なものがあった。


足跡だ。


新しい。


崩れた石の粉を踏み、つい最近ここを通った跡。


「いるな」


カイルが低く言う。


「ええ」


サラも頷いた。


「しかも一人ではありません」


ラティアは石床の先を見る。


正面奥。

崩れた祭壇の向こう。


そこだけ、空気が沈み込むみたいに重い。


「……あそこ」


小さく言うと、ユリスが迷わず前へ進む。


その時だった。


祭壇の影から、低い声が落ちた。


「やはり来ましたか」


全員の動きが止まる。


影の奥から、一人の男が姿を現す。


年は四十代半ばほどだろうか。

痩せた長身。

灰色がかった髪。

整っていたであろう法衣はところどころ裂け、右の脇腹から肩にかけて厚く布が巻かれていた。


その包帯には、まだ新しい血がにじんでいる。


ラティアの胸が強く鳴る。


怪我をしている。


孤児院での一件だと、直感で分かった。


あの時、自分たちが壊した“器”の反動か、あるいは強引に残滓を制御した代償か。

とにかく、無傷では済まなかったのだ。


男はその痛みを隠すように、片腕をわずかに庇って立っていた。

けれど、目だけは異様に静かだった。


「ゼウラン・フェルノア」


サラが低く名を呼ぶ。


男はごく小さく目を細めた。


「その名を、まだこうして呼ばれるとは思いませんでした」


「ずいぶん探しましたよ」


カイルが吐き捨てる。


「隠れ方のわりに、最後は案外あっさり出てきたな」


ゼウランは皮肉に反応しなかった。

ただ、ラティアたちの顔を一人ずつ見て、最後にユリスで視線を止める。


「勇者殿」


「……それに、巫女殿」


その呼び方に、ラティアの背中が少し冷える。


自分を見ている。

ただ“いる”から見ているのではない。

もっと別の意味を乗せて見ている目だった。


ユリスが一歩前へ出る。


「終わりだ、ゼウラン」


「エドガルドは拘束した」


「残滓の核も壊した」


「投降しろ」


短く、冷たい声音だった。


ゼウランはその言葉を聞いても、少しも怯まなかった。


むしろ、ひどく静かに首を振る。


「終わっていません」


「ようやく、ここまで来たのです」


その口調は落ち着いている。

怒鳴りもしない。

狂った目をするわけでもない。


なのに、その静けさがむしろ不気味だった。


サラが強く言う。


「あなたは王都の結界を歪めました」


「孤児院の子どもたちまで器にしようとした」


「それを“ようやく”と言うのですか」


ゼウランの目が、ほんの少しだけ揺れる。


怒りではない。

哀れむみたいな揺れだった。


「あなた方は、まだ分かっていない」


「私は壊そうとしているのではない」


「戻そうとしているのです」


その言葉に、ラティアの指先が強くこわばる。


戻す。


エドガルドも言っていた。

ゼウランも同じことを言う。


カイルが吐き捨てる。


「残滓を核にして結界を書き換えるのが“戻す”かよ」


「書き換える?」


ゼウランは小さく繰り返した。


「それは違う」


「今の王都の流れこそ、綻びを押し隠した仮の形です」


「沈んだものを排し、見ないふりをし、補修の名で延命しているにすぎない」


「本来流れるべきものを流し直す」


「それが再構築です」


部屋――いや、祈祷堂跡の空気が、そこでまた少し冷えた気がした。


ラティアはゼウランの言葉を聞きながら、胸の奥に嫌なものが沈んでいくのを感じた。


整っている。

理屈としては通って聞こえてしまう。


だからこそ怖い。


レオンが言っていたことを思い出す。

善意や正しさの顔をしている分、止めるのが遅れる。


「違う」


気づけば、ラティアはそう言っていた。


全員の視線がこちらへ向く。


ゼウランも、静かに目を向ける。


ラティアは少しだけ喉を鳴らした。


怖い。

でも、今ここで黙っていたくなかった。


「あなたのやってること、戻してなんかない」


「無理やり、別のものを通そうとしてるだけだよ」


「孤児院も、灯楼も、封鎖区画の核も」


「全部、そこにあるものをそのままにしてない」


「別のものに変えてる」


ゼウランはじっとラティアを見る。


その目には怒りも嘲りもない。

ただ、観測するみたいな静かな熱だけがあった。


「……なるほど」


低く言う。


「やはり、あなたは見えている」


その言い方に、ラティアの胸がざわつく。


見られている。

計られている。


またあの嫌な感覚だった。


ユリスが一歩、さらに前へ出た。


「見るな」


低い声。


それだけで空気が張る。


ゼウランはユリスから目を逸らさず、わずかに口元を歪めた。


「勇者殿」


「あなたは剣で断てば済むと思っている」


「だが、綻びは断って消えるものではない」


「王都は今も沈み続けている」


「ならば、より強い核で、より深い流れを通し直すしかないのです」


カイルが弓を持つ手に力を込める。


「その“強い核”ってのが残滓か」


「残滓は欠片です」


ゼウランは即座に答えた。


「本物には届かない。だからこそ、集める」


「器を育て、馴染ませ、定着させる」


「それでようやく、継ぎ目に届く」


サラの表情が厳しくなる。


「人まで器に含めておいて、何が“ようやく”ですか」


そこで初めて、ゼウランの視線に少しだけ陰が落ちた。


「必要だった」


それだけだった。


あまりに静かなその一言に、ラティアはぞっとする。


必要だった。


それだけで、人を眠らせ。

器にし。

歪め。

壊しかけたのだ。


しかも、本人はまだそれを間違いと認めていない。


「最低だな」


カイルが低く吐き捨てる。


「お前、自分で言ってて何もおかしいと思わねえのかよ」


「思いません」


ゼウランははっきり言った。


「誰かが手を汚さなければ、王都は結局腐った補修の上で崩れるだけだ」


その瞬間、ラティアはゼウランの包帯の下にじわりと血が滲むのを見た。


孤児院の件の怪我だ。


痛いはずなのに、この人はそれでも止まらない。


それが、ひどく怖かった。


止まればいいのに。

そこで痛いと思えばいいのに。

それでも進む方を選んでいる。


「その傷も」


思わず口から出た。


ゼウランの目が、わずかにラティアへ戻る。


「孤児院の時の、でしょ」


「そこまでして、まだ続けるの」


風が、崩れた祈祷堂の中を抜ける。


ゼウランは一瞬だけ沈黙した。


そして、静かに右脇腹を押さえた。


「ええ」


その声だけが、ひどく静かだった。


「ようやく、届きかけたのですから」


ラティアの喉が詰まる。


この人は本当に、怪我をしても、傷ついても、自分が間違っていると思っていない。


むしろ代償として受け入れている。


その在り方が、ラティアにはどうしようもなく気味悪かった。


ユリスが剣をわずかに持ち上げる。


「問答は終わりだ」


「主継ぎ目から離れろ」


ゼウランの背後には、崩れた祭壇の奥に続く円形の石陣があった。


割れてはいる。

でも、まだ生きている。


ラティアはそこを見た瞬間、胸の奥がざわついた。


あそこだ。


継ぎ目は、まだ完全には開いていない。

でも、もう半分以上、繋がりかけている。


「……ユリス」


小さく呼ぶと、ユリスは視線を動かさないまま答える。


「分かってる」


短い返答。


それだけで、もう言葉はいらなかった。


ゼウランはそのやりとりを見て、ほんの少しだけ目を細めた。


「巫女殿」


ラティアの背中が強張る。


「あなたは、本来こちら側のはずだ」


その一言に、空気が一気に変わる。


カイルがすぐに一歩踏み出した。


「ふざけんな」


サラも鋭く息を呑む。


ラティアの胸の奥に、嫌な冷たさが走る。


こちら側。


まただ。


また、この人は自分を勝手に数に入れる。


条件として。

器として。

核として。


けれど今度は、前みたいにただ気持ち悪いだけでは終わらなかった。


その嫌さの奥に、はっきりした怒りが灯る。


「違う」


ラティアは一歩前へ出た。


自分でも、少し驚くくらい自然に足が動いた。


「わたしは、そっちじゃない」


「勝手に決めないで」


ゼウランはラティアを見つめる。


その目の静けさが、今はもう怖いだけではなかった。


嫌だ。


この人の理屈の中に、自分を置かれたくない。


「……そうですか」


ゼウランは小さく言った。


それだけだった。


でも次の瞬間、背後の石陣に黒い筋がじわりと走る。


サラが息を呑む。


「来ます!」


ユリスの剣が一気に閃く。


カイルの矢がつがえられる。


ゼウランは怪我を庇うように半歩下がりながら、それでも石陣の前から退かなかった。


その姿を見た瞬間、ラティアははっきり思った。


この人は、もう理屈だけでは止まらない。


なら、自分たちが止めるしかない。


崩れた主祈祷塔跡の中央で、空気が一気に張り詰める。


次の瞬間には、もう戦いが始まる――

そんな沈黙だった。

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