78
崩れた主祈祷塔跡の中央で、空気が一気に張り詰める。
次の瞬間、ゼウランの背後にある石陣を、黒い筋が這った。
じわり、と。
まるで長く乾いていた石が、内側から血を滲ませるみたいに。
「来ます!」
サラの声が鋭く響く。
同時に、カイルの矢が走った。
雷光が石陣の縁を撃ち、黒い筋を断ち切る。
だが完全には止まらない。
裂かれたはずの筋が、別の継ぎ目からすぐに繋がり直す。
「ちっ、早え!」
カイルが舌打ちする。
ユリスはもう前へ出ていた。
一歩で間合いを詰める。
銀の軌跡が走る。
ゼウランは傷を庇うように身を捻り、直撃を避けた。
だが避けきれない。
法衣の袖が裂け、血が飛ぶ。
それでもゼウランは顔色ひとつ変えず、石陣へ片手をかざした。
「まだだ」
低い声。
その一言で、石陣の奥の黒が、ぐっと深く脈打つ。
どくん。
ラティアの喉の奥がひりついた。
今までの残滓とは違う。
散った欠片じゃない。
ここに集められ、繋がり、主継ぎ目へ噛み込もうとしている重さだ。
「ラティア!」
レオンがいない今、その声の代わりみたいにサラが呼ぶ。
「濃い場所を!」
ラティアは息を吸う。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
見る。
黒い筋そのものじゃない。
その下だ。
石陣の左奥。
崩れた柱の根元から、太い流れが一本、主継ぎ目へ食い込んでいる。
そこだけが、異様に深い。
「左!」
ラティアが叫ぶ。
「柱の根元!」
「そこが、一番重い!」
「了解!」
カイルの二矢目が飛ぶ。
石柱が砕ける。
その瞬間、ゼウランの顔が初めて少しだけ歪んだ。
「……っ」
短い痛みの吐息。
やはり怪我が響いている。
右脇腹に巻かれた布が、一気に赤く滲んだ。
だが、それでも退かない。
むしろゼウランは、痛みを無視するみたいに、さらに石陣へ力を流し込もうとする。
「やめて!」
ラティアが思わず叫ぶ。
ゼウランの目が、まっすぐこちらを向いた。
「やめる理由がない」
静かな声だった。
「ここまで来て、止まる理由が」
その声音に、怒鳴りも狂気もない。
ただ、冷えた執着だけがある。
それが、余計に恐ろしい。
ユリスの剣がもう一度閃く。
今度は深く入った。
ゼウランの左肩口を裂き、そのまま石陣の前まで押し込む。
「離れろ」
低い声。
「それ以上触るな」
だがゼウランは、血を流しながら笑った。
本当に、ほんの少しだけ。
「勇者殿」
かすれた声だった。
「あなたはまだ、力を断てば済むと思っている」
「ですが、もう流れは始まっている」
その言葉と同時に、石陣の中央が黒く沈む。
まるで底のない水面みたいに。
サラの祈りが走った。
白い光が円陣を囲む。
だが完全には塞がらない。
「主継ぎ目です!」
サラが鋭く言う。
「半分以上、開いています!」
カイルが顔をしかめる。
「半分ってなんだよ、十分やばいだろ!」
「そうですね!」
サラの返答も珍しく強かった。
ラティアは石陣を見たまま、胸を押さえる。
主継ぎ目の奥に、黒いものが沈んでいる。
今まで集めてきた欠片。
器で育てた残滓。
封鎖区画の核に溜めた澱み。
それが全部、ここへ押し戻されようとしている。
「……いや」
ぞっとした。
これが流れ込んだら、北側一帯だけでは済まない。
王都そのものの“流れ”が変わる。
ゼウランは、その石陣の前に立ったまま、ラティアを見ていた。
「見えるのでしょう」
ラティアの背筋が強張る。
「今の王都の流れが、いかに脆く、仮初めの均衡で保たれているか」
「あなたは見える」
「だから分かるはずだ」
ラティアは首を振る。
「分かんない」
「分かりたくもない」
ゼウランの目が、ほんの少しだけ細くなる。
「では、教えましょう」
そう言った直後、石陣の内側に映像のようなものが走った。
ラティアは思わず息を呑む。
北側の継ぎ目。
補助線。
灯楼。
祈祷所。
その全部に細かなひびが走り、補修で繕われている様子が、黒い水面の中に浮かび上がる。
「今の王都は、ただ保っているだけだ」
ゼウランの声が落ちる。
「沈むものを押さえ、見ないふりをし、補修という名で先送りしている」
「それで何十年も、何百年も持つとでも?」
サラが強く言い返す。
「だからといって、残滓を流し込んでよい理由にはなりません!」
「残滓は毒です!」
「毒をそのまま流すつもりはない」
ゼウランの声は静かだった。
「核にするのです」
「馴染ませ、組み替え、流れに変える」
カイルが吐き捨てる。
「言い方だけ綺麗にしても同じだろ」
ユリスはそれ以上言葉を重ねなかった。
ただ一気に踏み込み、ゼウランの前へ出る。
だがその瞬間、石陣の縁から黒い線が跳ね上がる。
鞭のようにしなり、ユリスの剣に巻きついた。
「っ」
ユリスが即座に振り払う。
だが、その一拍でゼウランが距離を取る。
傷口から血が滴る。
それでも、その目の静けさは少しも崩れない。
「あなたでは届かない」
ゼウランが言った。
「勇者の剣は、断つことはできる」
「だが、継ぎ目に流れを戻すことはできない」
その言葉に、ラティアの胸がまたざわつく。
戻す。
戻す。
戻す。
この人は最後までそう言う。
壊すのではなく、戻すと。
でも、ラティアにはもう分かる。
それは“元に戻す”じゃない。
自分の望む形に、無理やり通し直すだけだ。
「本物が来ていれば」
ゼウランはふと、遠くを見るみたいに言った。
「あるいは、もっと早く終わっていた」
その一言に、ラティアの心臓が強く鳴る。
雪山のことだ。
ユリスもそれを悟ったのだろう。
剣先が、わずかに低くなる。
「本物?」
ゼウランは頷いた。
「聖女の予言」
「北方の異常出力」
「私は待っていた」
その声は、どこか遠い。
「王都を立て直すに足る、本物の力を」
ラティアの指先が冷える。
ゼウランは続けた。
「だが、現れなかった」
「観測されたのは、あまりにも巨大で、あまりにも不安定な“欠片”だけだった」
その視線が、ラティアへ戻る。
ぞくり、と背筋が粟立つ。
「あなたです」
静かな断定だった。
「北方で、あなたは人の身であれを抱えていた」
「壊れず、留めていた」
「本物ではない。だが、核の条件としては過剰なほどに近かった」
「やめて」
ラティアの声が震える。
「そんなふうに言わないで」
けれどゼウランは止まらなかった。
「惜しかった」
その一言が、ラティアの胸をひどく打った。
惜しかった。
まるで、自分が手に入らなかった材料みたいに。
「もしあなたがこちらへ来ていれば」
「主継ぎ目は、もっと穏やかに開いた」
その瞬間、ラティアの中で何かが切れた。
怖さではない。
もっと熱いものだった。
「勝手に決めないで!」
声が、祈祷塔跡に強く響いた。
自分でも驚くくらい大きかった。
全員の視線が集まる。
けれど、もう止まらない。
「わたしは、材料じゃない!」
「器でもない! 核でもない!」
「雪山にいたのは、誰かのために使われるためじゃない!」
「傷つけたくなくて、閉じこもって、苦しくて、それでも生きてただけなのに!」
喉が熱い。
胸が痛い。
でも、今はそのまま言葉になる。
「それを勝手に“惜しかった”とか言わないで!」
祈祷塔跡の空気が、一瞬だけ止まる。
ゼウランは黙ってラティアを見ていた。
静かな目だ。
でもその奥に、わずかに揺れるものがある。
後悔ではない。
理解でもない。
ただ、観測がずれた時の困惑みたいな小さな揺れだった。
それが、余計にラティアを怒らせた。
「わたしは、そっちに行かない」
「絶対に」
短く、はっきり言い切る。
その瞬間、ユリスが一歩、ラティアの前へ出た。
「聞こえただろ」
低い声。
「二度と勝手に数に入れるな」
カイルの矢が再びつがえられる。
「もう話すことねえな」
サラも祈祷札を広げる。
「主継ぎ目から離れてください」
「これ以上は、こちらも力で止めます」
ゼウランはそこで初めて、長く息を吐いた。
疲労の色が濃い。
傷口から落ちる血も増えている。
それでも、目だけはまだ死んでいない。
「……そうですか」
小さな声だった。
「なら、やはり力で示すしかない」
その言葉と同時に、石陣の中央が深く沈む。
どくん、と。
今度はさっきより深く。
ラティアの喉の奥が焼ける。
主継ぎ目の下に沈められた黒が、一気に持ち上がろうとしている。
「来る!」
サラが叫ぶ。
ユリスの剣が閃き、カイルの矢が走り、白い祈りが風の中に広がる。
ゼウランは傷を押さえながら、それでも石陣の前から退かない。
ラティアはその姿を見て、はっきりと理解した。
この人は、怪我をしても、拒絶されても、止まらない。
止まれないんじゃない。
止まらないことを選んでいる。
だから、自分たちが止めるしかない。
ラティアは息を吸う。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
怖い。
でも今は、それより先にやることが見える。
春の結界。
閉じこもるためじゃなく、守るための結界。
今度は、一人のためじゃない。
もっと大きく。
もっと広く。
石陣の奥で、黒い流れが持ち上がる。
その前で、ラティアはまっすぐ両手を上げた。
次の瞬間には、もう逃げ場のない本当の衝突が始まる――




