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崩れた主祈祷塔跡の中央で、空気が一気に張り詰める。


次の瞬間、ゼウランの背後にある石陣を、黒い筋が這った。


じわり、と。


まるで長く乾いていた石が、内側から血を滲ませるみたいに。


「来ます!」


サラの声が鋭く響く。


同時に、カイルの矢が走った。


雷光が石陣の縁を撃ち、黒い筋を断ち切る。

だが完全には止まらない。


裂かれたはずの筋が、別の継ぎ目からすぐに繋がり直す。


「ちっ、早え!」


カイルが舌打ちする。


ユリスはもう前へ出ていた。


一歩で間合いを詰める。

銀の軌跡が走る。


ゼウランは傷を庇うように身を捻り、直撃を避けた。

だが避けきれない。


法衣の袖が裂け、血が飛ぶ。


それでもゼウランは顔色ひとつ変えず、石陣へ片手をかざした。


「まだだ」


低い声。


その一言で、石陣の奥の黒が、ぐっと深く脈打つ。


どくん。


ラティアの喉の奥がひりついた。


今までの残滓とは違う。

散った欠片じゃない。

ここに集められ、繋がり、主継ぎ目へ噛み込もうとしている重さだ。


「ラティア!」


レオンがいない今、その声の代わりみたいにサラが呼ぶ。


「濃い場所を!」


ラティアは息を吸う。


ひとつ。

ふたつ。

みっつ。


見る。


黒い筋そのものじゃない。

その下だ。


石陣の左奥。

崩れた柱の根元から、太い流れが一本、主継ぎ目へ食い込んでいる。


そこだけが、異様に深い。


「左!」


ラティアが叫ぶ。


「柱の根元!」


「そこが、一番重い!」


「了解!」


カイルの二矢目が飛ぶ。


石柱が砕ける。


その瞬間、ゼウランの顔が初めて少しだけ歪んだ。


「……っ」


短い痛みの吐息。


やはり怪我が響いている。


右脇腹に巻かれた布が、一気に赤く滲んだ。


だが、それでも退かない。


むしろゼウランは、痛みを無視するみたいに、さらに石陣へ力を流し込もうとする。


「やめて!」


ラティアが思わず叫ぶ。


ゼウランの目が、まっすぐこちらを向いた。


「やめる理由がない」


静かな声だった。


「ここまで来て、止まる理由が」


その声音に、怒鳴りも狂気もない。

ただ、冷えた執着だけがある。


それが、余計に恐ろしい。


ユリスの剣がもう一度閃く。


今度は深く入った。


ゼウランの左肩口を裂き、そのまま石陣の前まで押し込む。


「離れろ」


低い声。


「それ以上触るな」


だがゼウランは、血を流しながら笑った。


本当に、ほんの少しだけ。


「勇者殿」


かすれた声だった。


「あなたはまだ、力を断てば済むと思っている」


「ですが、もう流れは始まっている」


その言葉と同時に、石陣の中央が黒く沈む。


まるで底のない水面みたいに。


サラの祈りが走った。


白い光が円陣を囲む。

だが完全には塞がらない。


「主継ぎ目です!」


サラが鋭く言う。


「半分以上、開いています!」


カイルが顔をしかめる。


「半分ってなんだよ、十分やばいだろ!」


「そうですね!」


サラの返答も珍しく強かった。


ラティアは石陣を見たまま、胸を押さえる。


主継ぎ目の奥に、黒いものが沈んでいる。


今まで集めてきた欠片。

器で育てた残滓。

封鎖区画の核に溜めた澱み。


それが全部、ここへ押し戻されようとしている。


「……いや」


ぞっとした。


これが流れ込んだら、北側一帯だけでは済まない。

王都そのものの“流れ”が変わる。


ゼウランは、その石陣の前に立ったまま、ラティアを見ていた。


「見えるのでしょう」


ラティアの背筋が強張る。


「今の王都の流れが、いかに脆く、仮初めの均衡で保たれているか」


「あなたは見える」


「だから分かるはずだ」


ラティアは首を振る。


「分かんない」


「分かりたくもない」


ゼウランの目が、ほんの少しだけ細くなる。


「では、教えましょう」


そう言った直後、石陣の内側に映像のようなものが走った。


ラティアは思わず息を呑む。


北側の継ぎ目。

補助線。

灯楼。

祈祷所。

その全部に細かなひびが走り、補修で繕われている様子が、黒い水面の中に浮かび上がる。


「今の王都は、ただ保っているだけだ」


ゼウランの声が落ちる。


「沈むものを押さえ、見ないふりをし、補修という名で先送りしている」


「それで何十年も、何百年も持つとでも?」


サラが強く言い返す。


「だからといって、残滓を流し込んでよい理由にはなりません!」


「残滓は毒です!」


「毒をそのまま流すつもりはない」


ゼウランの声は静かだった。


「核にするのです」


「馴染ませ、組み替え、流れに変える」


カイルが吐き捨てる。


「言い方だけ綺麗にしても同じだろ」


ユリスはそれ以上言葉を重ねなかった。


ただ一気に踏み込み、ゼウランの前へ出る。


だがその瞬間、石陣の縁から黒い線が跳ね上がる。


鞭のようにしなり、ユリスの剣に巻きついた。


「っ」


ユリスが即座に振り払う。

だが、その一拍でゼウランが距離を取る。


傷口から血が滴る。

それでも、その目の静けさは少しも崩れない。


「あなたでは届かない」


ゼウランが言った。


「勇者の剣は、断つことはできる」


「だが、継ぎ目に流れを戻すことはできない」


その言葉に、ラティアの胸がまたざわつく。


戻す。

戻す。

戻す。


この人は最後までそう言う。


壊すのではなく、戻すと。


でも、ラティアにはもう分かる。


それは“元に戻す”じゃない。

自分の望む形に、無理やり通し直すだけだ。


「本物が来ていれば」


ゼウランはふと、遠くを見るみたいに言った。


「あるいは、もっと早く終わっていた」


その一言に、ラティアの心臓が強く鳴る。


雪山のことだ。


ユリスもそれを悟ったのだろう。

剣先が、わずかに低くなる。


「本物?」


ゼウランは頷いた。


「聖女の予言」


「北方の異常出力」


「私は待っていた」


その声は、どこか遠い。


「王都を立て直すに足る、本物の力を」


ラティアの指先が冷える。


ゼウランは続けた。


「だが、現れなかった」


「観測されたのは、あまりにも巨大で、あまりにも不安定な“欠片”だけだった」


その視線が、ラティアへ戻る。


ぞくり、と背筋が粟立つ。


「あなたです」


静かな断定だった。


「北方で、あなたは人の身であれを抱えていた」


「壊れず、留めていた」


「本物ではない。だが、核の条件としては過剰なほどに近かった」


「やめて」


ラティアの声が震える。


「そんなふうに言わないで」


けれどゼウランは止まらなかった。


「惜しかった」


その一言が、ラティアの胸をひどく打った。


惜しかった。


まるで、自分が手に入らなかった材料みたいに。


「もしあなたがこちらへ来ていれば」


「主継ぎ目は、もっと穏やかに開いた」


その瞬間、ラティアの中で何かが切れた。


怖さではない。

もっと熱いものだった。


「勝手に決めないで!」


声が、祈祷塔跡に強く響いた。


自分でも驚くくらい大きかった。


全員の視線が集まる。


けれど、もう止まらない。


「わたしは、材料じゃない!」


「器でもない! 核でもない!」


「雪山にいたのは、誰かのために使われるためじゃない!」


「傷つけたくなくて、閉じこもって、苦しくて、それでも生きてただけなのに!」


喉が熱い。

胸が痛い。


でも、今はそのまま言葉になる。


「それを勝手に“惜しかった”とか言わないで!」


祈祷塔跡の空気が、一瞬だけ止まる。


ゼウランは黙ってラティアを見ていた。


静かな目だ。

でもその奥に、わずかに揺れるものがある。


後悔ではない。

理解でもない。


ただ、観測がずれた時の困惑みたいな小さな揺れだった。


それが、余計にラティアを怒らせた。


「わたしは、そっちに行かない」


「絶対に」


短く、はっきり言い切る。


その瞬間、ユリスが一歩、ラティアの前へ出た。


「聞こえただろ」


低い声。


「二度と勝手に数に入れるな」


カイルの矢が再びつがえられる。


「もう話すことねえな」


サラも祈祷札を広げる。


「主継ぎ目から離れてください」


「これ以上は、こちらも力で止めます」


ゼウランはそこで初めて、長く息を吐いた。


疲労の色が濃い。

傷口から落ちる血も増えている。

それでも、目だけはまだ死んでいない。


「……そうですか」


小さな声だった。


「なら、やはり力で示すしかない」


その言葉と同時に、石陣の中央が深く沈む。


どくん、と。


今度はさっきより深く。


ラティアの喉の奥が焼ける。


主継ぎ目の下に沈められた黒が、一気に持ち上がろうとしている。


「来る!」


サラが叫ぶ。


ユリスの剣が閃き、カイルの矢が走り、白い祈りが風の中に広がる。


ゼウランは傷を押さえながら、それでも石陣の前から退かない。


ラティアはその姿を見て、はっきりと理解した。


この人は、怪我をしても、拒絶されても、止まらない。

止まれないんじゃない。

止まらないことを選んでいる。


だから、自分たちが止めるしかない。


ラティアは息を吸う。


ひとつ。

ふたつ。

みっつ。


怖い。

でも今は、それより先にやることが見える。


春の結界。

閉じこもるためじゃなく、守るための結界。


今度は、一人のためじゃない。

もっと大きく。

もっと広く。


石陣の奥で、黒い流れが持ち上がる。


その前で、ラティアはまっすぐ両手を上げた。


次の瞬間には、もう逃げ場のない本当の衝突が始まる――

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