76
夜が完全に明けきる前の神殿は、妙に冷えていた。
廊下を渡る空気まで張りつめていて、誰も大きな声を出さない。
レオンが助かったことで、ようやく落ち着けるはずだった。
けれど実際には、そこで終わらないと全員が知ってしまったからだ。
エドガルド補佐は、神殿の奥の小さな取調室に移されていた。
両手を封じられ、祈祷札を巻かれ、背後には騎士が二人。
それでも、表情はまだ静かだった。
ラティアはその部屋の外に立っていた。
中にいるのはユリスとカイル、それにサラ。
レオンはまだ起き上がるのもつらいから、別室だ。
扉の向こうから聞こえる声は、低く抑えられていた。
「どこだ」
ユリスの声だった。
短く、冷たい。
少し間が空く。
「何のことでしょう」
エドガルド補佐の声は、驚くほどいつも通りだった。
その静かさが、かえってぞっとする。
カイルが苛立ちを隠さずに言う。
「まだとぼけんのか」
「レオンを落とした時点で、もう言い逃れできねえぞ」
「言い逃れをしているつもりはありませんよ」
補佐は淡々と返した。
「必要なことをしたまでです」
ラティアの指先が、無意識に守り紐を握る。
必要なこと。
その言い方が、ゼウランの手記と同じ匂いをして、ひどく嫌だった。
中ではサラが静かに問うていた。
「あなたが運んでいた移管簿、閲覧記録、祈祷札の台紙」
「どれもゼウラン関連のものへ手が入っていました」
「命じられていたのですか」
小さな沈黙。
それから、エドガルド補佐が答える。
「命じられた、という言い方は少し違います」
「理解したのです」
「何を」
今度はユリスだ。
声がさらに低い。
補佐は少しだけ息を吐いた気配を見せた。
「王都が、今のままでは保たないことを」
ラティアの背筋がひやりとする。
またそれだ。
“守る”ため。
“保つ”ため。
その言葉の形だけは、いつも正しい。
だから余計に気持ちが悪い。
カイルが吐き捨てるように言った。
「だから残滓で結界を組み替えるのかよ」
「組み替えるのではありません」
エドガルド補佐の声が、そこで初めて少しだけ硬くなった。
「戻すのです」
「本来あるべき流れへ」
扉の向こうの空気が、わずかに張る。
ラティアには見えない。
でも、ユリスの目が鋭くなったのが分かる気がした。
「場所を言え」
沈黙。
長くはなかったのに、妙に重い間だった。
やがて補佐が静かに言う。
「もう遅いですよ」
ラティアの心臓が跳ねる。
中で椅子が鳴る音がした。
カイルが一歩踏み込んだのかもしれない。
「何がだ」
ユリスの声は変わらない。
変わらないまま、底だけが冷えている。
「核はもう、補助核保管庫にはありません」
エドガルド補佐は淡々と続けた。
「器を育てる段階は終わった」
「集められた欠片は、継ぎ目へ戻されるべきです」
その言葉を聞いた瞬間、ラティアの喉が少し詰まった。
継ぎ目。
そこへ戻す。
サラが鋭く問う。
「どこの継ぎ目です」
「北の中心」
補佐はそう答えた。
それ以上のことは言わない。
カイルが舌打ちする。
「北のどこだよ」
「言う必要がありますか」
補佐の声は、また静かだった。
「あなた方はもう、そこまで辿り着いているはずだ」
その一言で、扉の向こうがまた静かになる。
ラティアはそこに、何かが確かにあると感じた。
エドガルドは場所を全部は言わない。
でも、“もう分かるはずだ”と言った。
それはつまり、記録の中に答えがあるということだ。
扉が開く。
最初に出てきたのはカイルだった。
眉間に深い皺を寄せている。
「嫌な野郎だな、ほんと」
その後ろからサラが出る。
表情は整っている。
けれど、目の奥は冷たかった。
最後にユリスが出て、扉を閉める。
ラティアが小さく問う。
「……分かった?」
サラが静かに頷く。
「場所の名は言いませんでした」
「ですが、“北の中心”“継ぎ目”“もう分かるはず”」
「そこまで言うなら、記録の方へ戻るべきです」
ユリスが短く言う。
「レオンのところへ行く」
⸻
別室の寝台の上で、レオンは半身を起こしていた。
顔色はまだ悪い。
でも、目ははっきりしている。
サラが入るなり「起きないでください」と言いかけたが、レオンは先に手元の紙を上げた。
「起きるよ」
「今の話、聞こえた」
カイルが呆れたように息を吐く。
「地獄耳か」
「君らが廊下で全部顔に出してるからでしょ」
弱った声なのに、返しだけは少しだけいつもの調子に戻っていた。
ラティアはその顔を見て、胸の奥が少しだけゆるむ。
レオンは机代わりに引き寄せた板の上へ、移管簿とゼウランの図面を広げた。
「“北の中心”」
「たぶん、封鎖区画のことじゃない」
ユリスが短く問う。
「理由は」
「封鎖区画は育てる場所だったから」
レオンの指が、いくつかの図面を順に叩く。
「孤児院、灯楼跡、管理棟、補助核保管庫」
「どれも欠片を寄せるための中継点だ」
「でも、最終的に流し込む“継ぎ目”は別にある」
サラが神殿側の古い図を開いた。
「北側主補助線……」
「この線ですね」
そこには、王都北辺を走る補助線が描かれていた。
灯楼や祈祷所を結ぶ細い線とは別に、さらに太い一本がある。
レオンが頷く。
「うん。それ」
「北側全体を支えてる主継ぎ目」
「普段は表に出ない。だから余計に気づかれにくい」
カイルが図面を覗き込む。
「場所は」
レオンの指が、北側封鎖区画のさらに外れに止まる。
そこには古い記号が描かれていた。
「第一主祈祷塔跡」
ラティアは小さく息を呑む。
その名は、今まで出てこなかった。
でも、図の中でそこだけが妙に重く見える。
サラが小さく眉を寄せる。
「今は閉鎖されているはずです」
「封鎖区画のさらに先ですね」
「だからだよ」
レオンの目が鋭くなる。
「人目につかない」
「しかも、主継ぎ目の真上だ」
ユリスは迷わず言った。
「そこだな」
レオンは小さく頷いた。
「たぶん」
「エドガルドが“もう遅い”って言ったのも分かる」
「器の段階が終わってるなら、次は主継ぎ目へ流すしかない」
ラティアの指先が少し冷たくなる。
器を育てる段階は終わった。
その言葉が頭の中で嫌に響いた。
今まで集められていた残滓が、もう“集めるだけ”ではなくなっている。
次は流し込まれる。
それが主継ぎ目なら、王都そのものへ届く。
「……急がなきゃ」
気づけば、そう言っていた。
レオンがラティアを見る。
その目はやわらかかったが、言葉は真っ直ぐだった。
「うん」
「ただし、今度はもっと危ない」
「封鎖区画までとは違う」
カイルが低く言う。
「向こうも本命守ってるってことだろ」
「ええ」
サラが頷く。
「しかも、ここまで準備を進めているなら、ゼウラン本人がいる可能性もあります」
その一言で、部屋の空気が変わる。
ようやくそこへ辿り着く。
名前だけだった人。
手記の向こうにいた人。
王都を“正す”つもりで歪め続けてきた人。
ラティアは無意識に守り紐を握る。
怖い。
でも、ここで止まったら、今まで助けてきたもの全部が遅れる気がした。
その時、レオンが少しだけ身じろぎした。
痛みが走ったらしい。
眉がわずかに寄る。
ラティアがすぐ身を乗り出す。
「起きないで」
「まだ無理でしょ」
レオンはかすかに笑う。
「無理でも行くって言いたいところなんだけど」
「今日はさすがに怒られそう」
「当たり前です」
サラが即答した。
カイルも鼻を鳴らす。
「お前は寝てろ」
「頭だけ貸せ」
レオンは肩をすくめようとして、少しだけ顔をしかめた。
それでも、ラティアを見る目はやわらかい。
「君、またそんな顔してる」
「どんな顔」
「一人で行きそうな顔」
ラティアは少しだけ言葉に詰まる。
図星だった。
怖いけど、行かなきゃとは思っていた。
レオンは小さく息を吐く。
「一人で行くなよ」
弱った声なのに、その言葉だけは妙にはっきりしていた。
「ちゃんと、みんなで行って」
ラティアの胸が小さく鳴る。
「……うん」
答えると、レオンは少しだけ目を細めた。
その時、扉のところでユリスが言った。
「準備は一刻でいい」
「そのあと出る」
迷いのない声だった。
サラがすぐ頷く。
「祈祷札と封印具を増やします」
「主継ぎ目なら、通常の浄化だけでは足りません」
カイルも弓を肩へ引き上げる。
「騎士も最低限つけた方がいいだろ」
「足止め用なら使える」
ユリスは一瞬考え、短く答えた。
「前に出すな」
「補助だけだ」
「了解」
ラティアはそのやりとりを聞きながら、少しだけ息を整える。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
吐く。
次で終わるとは限らない。
でも、次で止めなければいけない。
レオンが机代わりの板の上に、指先で図の一点を示した。
第一主祈祷塔跡。
その記号は小さいのに、妙に重かった。
「ここだよ」
レオンが静かに言う。
「核は、たぶんここにある」
その一言で、全員の意識が揃った。
ラティアは図面を見つめる。
怖さは消えていない。
けれどその下で、別の気持ちが少しずつ形になっていく。
今まで勝手に見られてきたこと。
勝手に条件にされたこと。
勝手に“器”と数えられたこと。
全部、嫌だ。
だから、止める。
「行こう」
小さく言うと、ユリスが一度だけ頷いた。
「行くぞ」
部屋の空気が、そこで静かに前へ動き出した。




