75
74話 朝に残るもの
控えの間に、ようやく本当の意味で呼吸が戻ったのは、神殿騎士たちが駆けつけてからだった。
床に散った湯呑みの破片を片づけ、黒い粉に封印布がかけられる。
エドガルド補佐は両手を拘束され、無言のまま別室へ連れていかれた。
最後まで抵抗はなかった。
それが逆に、ひどく気味が悪かった。
レオンはすぐ隣の小部屋へ運ばれた。
簡易寝台。
清めた布。
胸元に置かれた祈祷札。
サラが何度も状態を確かめ、呼吸が安定しているのを見て、ようやく小さく息を吐く。
「しばらくは安静です」
そう言ったサラの声も、まだ少しだけ強張っていた。
ラティアは寝台の脇に座ったまま、しばらく動けなかった。
泣き止んだつもりだった。
でも、目元はまだ熱い。
レオンの顔色は、さっきよりずっとましだった。
青白さは残っているけれど、呼吸はもう浅く途切れたりしない。
その規則的な上下を見るたびに、胸の奥がじんわり痛んだ。
助かった。
その実感が、安心と遅れてきた怖さを一緒に連れてくる。
「ラティアさん」
サラが静かに呼ぶ。
「少し離れて休みますか?」
ラティアは小さく首を振った。
「……もうちょっとだけ、ここにいたい」
サラはそれ以上は何も言わず、やわらかく頷いた。
「分かりました」
カイルは扉の近くの壁に寄りかかったまま、腕を組んでいる。
普段なら何かひとつくらい余計なことを言いそうなのに、今は黙っていた。
その沈黙が、かえってやさしかった。
ユリスは部屋の外にいた。
扉は少しだけ開いていて、その向こうに立つ気配がある。
見張りのためでもあるし、別室へ連れていかれたエドガルドの動きを見ているのだろう。
でも、それだけじゃないのが、ラティアには何となく分かった。
寝台の上で、レオンの指先がかすかに動く。
ラティアの呼吸が止まる。
次の瞬間、まぶたがゆっくり開いた。
焦点が合うまで、少し時間がかかる。
それから、かすかにこちらを向く。
「……レオン」
名を呼ぶと、レオンは目だけで返した。
まだだいぶ苦しそうだ。
けれど、ちゃんと意識が戻っている。
それだけで胸がまた詰まりかける。
「よかったです」
サラが静かに言う。
レオンはほんの少しだけ目を細めた。
「……心配かけて、ごめんね」
掠れた声だった。
それでも、いつもの軽さを無理にでも出そうとしているのが分かる。
カイルが小さく鼻を鳴らす。
「妙なとこだけ元気だな」
「まだ全然……元気じゃないよ」
レオンはそう言って、少しだけ息をついた。
それから視線がラティアへ移る。
ラティアは思わず背筋を伸ばした。
何か言わなきゃと思うのに、喉の奥がまた熱くなる。
レオンは少しだけ黙って、ラティアの顔を見る。
それから、かすかに笑った。
「……やっぱり、泣いてた」
「泣いてない」
反射みたいに返した声が、少しだけ掠れた。
カイルが横で吹き出す。
「その目で言うな」
「うるさい」
ラティアがすぐに返すと、カイルは肩を揺らした。
そのやりとりに、レオンがほんの少しだけ目を細める。
本当に、少しだけだった。
でもそれで、ちゃんと戻ってきたのだと分かる。
「助けてくれて、ありがとう」
レオンが言った。
まっすぐな言葉だった。
ラティアの胸が、小さく鳴る。
「……わたしだけじゃないよ」
やっとのことでそう返す。
「サラもいたし、みんないたし」
それから少しためらって、続けた。
「ユリスが、やり方を教えてくれたから」
レオンの目が、わずかに動く。
でも、すぐにまたラティアへ戻る。
「それでも」
かすれた声で、ゆっくり言う。
「やったのは、君だよ」
その一言で、とうとうラティアは堪えきれなくなった。
「……っ」
喉の奥が詰まる。
助かった。
戻ってきた。
ちゃんと、ここにいる。
その実感が一気に押し寄せて、ラティアは思わず寝台へ身を寄せた。
「ラティアさん」
サラが小さく息を呑む。
でももう止まれなかった。
ラティアはそっと、でも堪えきれない勢いのまま、レオンを抱きしめる。
強くしすぎないようにと思ったのに、腕には思ったより力が入っていた。
「よかった……」
震える声が、そのままレオンの肩口に落ちる。
「ほんとに、よかった……」
レオンは最初、ほんの少しだけ目を見開いた。
驚いたのだろう。
でもすぐに、抵抗するでもなく、静かに息を吐いた。
「……うん」
かすれた声が、すぐ近くで落ちる。
「そんなに心配かけたんだ、俺」
ラティアは答えられない。
また泣きそうで、今はもう声が出なかった。
ただ、抱きしめた腕にほんの少しだけ力をこめる。
レオンは弱ったまま、それでもほんの少しだけ笑った気配を見せた。
「……それ、ちょっと嬉しいけど」
「今言う?」
涙声のままラティアが言うと、レオンがかすかに喉を鳴らす。
「言いたくなるでしょ……これは」
カイルが気まずそうに視線を逸らした。
「おい、俺らいるんだけど」
サラも少しだけ困ったように目を伏せる。
でも、その場の誰も本気で止めなかった。
ラティアがやっと少しだけ体を離した、その時。
扉が開く音がした。
振り返ると、ユリスが立っていた。
一瞬、部屋の空気が止まる。
ラティアはまだ寝台の縁に身を寄せたまま。
レオンの手元には、さっきまでラティアの指先が触れていた熱が残っている。
その全部を見た上で、ユリスは表情を変えなかった。
ただ、寝台の上のレオンを見て、低く言った。
「生きてるな」
あまりにもそのままの言い方だった。
けれど、その一言が落ちた瞬間、部屋の空気がなんとも言えず微妙に張る。
カイルがわざとらしく咳払いした。
「第一声それかよ」
「事実だろ」
ユリスは短く返す。
レオンは寝台の上からユリスを見る。
それから、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「……どうにか」
短い返事。
でも、その二人の間には、さっきまでとは少し違う静けさがあった。
ラティアはその空気に気づいて、少しだけ身を引く。
自分が抱きついていたことを、今さらみたいに意識して、顔が熱くなる。
けれど、もう遅い。
ユリスは何も言わない。
何も言わないまま、その場に残る空気だけが少しだけ重くなる。
レオンはそんなラティアを見て、弱ったまま、それでも少しだけやわらかく笑った。
その笑みに、ラティアの胸がまた小さく鳴る。
言葉にはならない。
でも、何かが確かに変わったのだと分かる沈黙だった。
やがてサラが、少しだけ意識して明るい声を出した。
「では、ひとまず本当に安静にしてください」
「会話はほどほどに。レオン様、まだ毒が抜けきったわけではありません」
「あいかわらず容赦ないなあ……」
レオンがかすれた声で言うと、サラはぴしゃりと返した。
「当然です」
そのやりとりで、部屋の空気が少しだけ現実へ戻る。
カイルが壁から背を離した。
「俺は騎士どものとこ行ってくる」
「エドガルドが余計なことしてねえか見とく」
「頼みます」
サラが頷く。
ユリスも扉のところで短く言った。
「俺も行く」
その声は、さっきよりさらに低かった。
レオンは寝台の上から、少しだけ目を細める。
「……尋問?」
「必要だ」
ユリスはそれだけ言った。
ラティアの背筋が、ほんの少しだけ冷える。
エドガルドの裏切りは終わっていない。
レオンが助かったからといって、全部が片づいたわけじゃない。
むしろ、ここから先の方が重いのだろう。
サラが静かに続ける。
「もう神殿騎士の拘束下です。これ以上自由には動けません」
「ですが、何をどこまで話すかは別です」
カイルが扉の向こうへ向かいながら低く言う。
「前から決めてた顔だったからな」
「簡単には吐かねえだろ」
ラティアは無意識に守り紐へ触れた。
前から決めていた。
レオンを落とすことも。
補佐として動くことも。
ゼウランのために、内側で削ることも。
そう思うと、胸の奥にまた別の冷たさが広がる。
「ラティア」
低い声で呼ばれる。
ユリスだった。
「少し休め」
短い言葉。
でも、今のラティアにはその“少し”がありがたかった。
「……うん」
頷いたものの、すぐには立ち上がれない。
その様子を見て、レオンがかすかに笑う。
「まだ、そっちの方が危なそう」
「危なくない」
「説得力ないなあ」
弱った声でそんなことを言うから、ラティアは思わず少しだけ笑ってしまった。
その笑いで、やっと体の強張りが少しほどける。
ユリスがその様子を見て、ほんの少しだけ目を細めた気がした。
「……よかった」
ラティアは小さく呟く。
誰に向けたのか、自分でも分からない。
レオンが助かったこと。
自分が手を伸ばせたこと。
まだ終わっていないのに、一度だけ息ができること。
その全部をまとめたみたいな言葉だった。
レオンはその声を聞いて、少しだけ真面目な顔になる。
「うん」
短く返したあと、少し間を置いて続けた。
「でも、君も覚えといて」
「何を?」
ラティアが聞くと、レオンは弱ったまま、それでもまっすぐ言った。
「今日、君がやったこと」
「怖くても、ちゃんと助ける方へ行けたってこと」
その言葉が、胸の奥へ静かに落ちる。
さっきユリスに言われたこととは、また少し違う重さだった。
ユリスは道を示した。
レオンは、その先へちゃんと進けたのだと教えてくれる。
その両方が、今のラティアには必要だったのかもしれない。
サラが静かに手を打つように言った。
「では、ひとまず今日はここで区切りましょう」
「レオン様は移動の準備を」
「ラティアさんは少し休息を」
「私がそんなに言うなら、従ってくださいね」
最後の一言だけ少し強くて、ラティアは思わず頷いた。
「……はい」
カイルが先に扉の外へ出る。
そのあとをユリスが追う。
すれ違いざま、ユリスの手がほんの一瞬だけラティアの肩へ触れた。
慰めるでもなく、励ますでもない。
ただ、そこにいると確かめるみたいな短い触れ方。
でも、それだけで胸の奥が少しあたたかくなる。
レオンはその仕草を見ていた。
何も言わない。
けれど、その視線がほんの少しだけやわらかく、それでいて少しだけ遠くなる。
ラティアはまだそこまで気づかない。
ただ、今日の全部が、まだ胸の中で揺れていた。
助かった。
間に合った。
でも、まだ終わらない。
エドガルドの裏切り。
ゼウランの思想。
残滓の核。
全部が次へ続いている。
それでも今は、一度だけ、助かった命のそばで息を整えてもいい気がした。
窓の外では、夜が少しずつ深くなっていた。
その静かな暗さの中で、ラティアはもう一度だけ、小さく息を吸った。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
吐く。
今度は、最初より少しだけ、ちゃんと前を向ける気がした。




